日米共同声明の九つの骨子の最後は、
・バイデン大統領は東京五輪・パラを開催するための
菅首相の努力を支持する
とある。全文を確認しても、あくまでも「努力」の支持で
あり、「開催の支持」ではないことに注意しよう。
よって、開催しない「英断」も支持してくれるだろう。
さて、水戸街道ウォークは、置き忘れたナップサックを
取りに戻り、改めて堅倉三差路から堅倉宿に向かうところ。
明治乳業茨城工場を過ぎると間もなく、右手駐車場の奥
に小美玉(オミタマ)市役所がある。
「小美玉」はいかにも合併後の名という感じ。2006年に
美野里町、小川町、玉里村が合併し、それぞれの頭の文字
取ったものである。
そうなると美野里町も怪しい。事実、堅倉村と竹原村が
合併し美野里村、美野里町となった。もっと言えば小川町
も小川村以下、何段階かに渡るが都合十数ヶ村の集合体で
あった。
小美玉市合併の際の住民アンケートによれば、「百里」
が一番だったと言う。小川町にある茨城空港及び自衛隊
百里基地の百里である。
余談はさておき、堅倉宿に入る。元々は「片倉宿」で、
普通とは逆に画数の多い方に変わっている。宿場らしい
旧家が並び、やがて堅倉宿は直角に曲がる。
加藤家の重厚な門は、あの天狗党の焼き討ちにあって
残った柱を使った門という。
向かいの岩松家も立派な門と塀、そして庭である。
堅倉(片倉)宿に本陣はなく脇本陣が一軒だけ。その
脇本陣跡は、岩松家の隣りの「精肉店」と先達の資料に
ある。確かに「肉のシバタ」とある。
旧水戸街道は国道6号にぶつかる直前に、今度は左に
直角に曲がる。宿場全体が「桝形」のようである。その
角に旅籠「かと家」。「かど家」ではない。
普通は「角屋」「かど家」だろうが、江戸時代には濁点
がなくても前後関係で読めればよし、としていた向もある。
この「かと家」、少し離れた国道6号沿いで営業中。
国道沿いから「かと家」に戻り先へ進むと、まだ宿場の
続きらしい雰囲気である。
やがて家並みが疎らになり田畑が広がると、巴川を渡る。
このあたりの川は押し並べて細い流れである。
その先の山並み、筑波山は真横を過ぎ男体山と女体山の
位置が入れ替わっている。正面は足尾山かも知れない。
橋の先に「ほしいも」の看板、その奥では白衣を着て
作業中。茨城は納豆もあるが干し芋も名産である。店へ
入って土産を買う。芋の銘柄は「紅ほっぺ」。
この向かいの岩船神社に寄ってみる。これが神社?
いやこの隣だった。
石段の右手、何という大きな根だ!石段を上って
境内の口碑を読むと、樹齢五百年、根回り18mの欅が
老木となり、入札して伐採したとある。
金額は不明だがその代金で総檜造り、銅葺き屋根の
社殿が出来たのだから相当の額であろう。
巴川を渡ったので、この先はやはり上り坂。小岩戸
地区に入る。宿場の続きのような家並みとなる。
そして芝桜と藤が目の保養をさせてくれる。
しかし、次の小幡宿までの4キロは、東北東へ向かう
極めて単調な道。集められた野仏や大きな屋敷などを
見ながら黙々と歩く。
やがて、JA全農の工場前、黒川を渡りながら眺める
山並み。筑波は左にかなり離れ、奥の方の高い山は栃木の
那須連山か?いやもっと北だろう。
黒川を渡った先、やはり上り坂が始まると小美玉市から
茨城町に入る。この日の三宿目、小幡宿は次回。