エースのカードは、人知を超えていることを示すそうだ。
どのエースも、雲から手が出ていて、
お釈迦様の手と孫悟空の話を思い出してしまう。
もし、私たちの人生も、
人知を超えた手から出ることはできないとしたら、
その手が差し出すものを、
どうであっても受け取らざるを得ないだろう。
四つのスート(ワンド、カップ、ソード、ペンタクル)が示す、四つの世界。
エースは、その始まりなき始まりであり、終わりなき終りである。
常に慈悲深く、清らかで、愛あふれ、枯れることを知らないカップのエース。
もし神を信じるなら、
カップのエースはまさに神の愛の表れだと、
神の慈悲を私たちは受けているのだと解釈することもできるだろう。
けれども私は、
カップのエースが示す意味を、神の愛とは考えない。
(最終的にそうだったとしても)
その理由は単純で、
神の愛だ、慈悲だと言って納得する人に、
タロットは必要ないからだ。
しかし、
それなら、カップのエースは、私たちに何を差し出しているのだろう。
それは、選択だと、私は思っている。
私たちは、
限られた肉体を持ち、限られた時間の中に生きながら、
無限とも思われる情報を内部に刻んでいる。
そこから生まれる、一瞬一瞬の選択が、
私たちを私たち足らしめている。
それは、全く意識することも、理解することもできないかもしれないが、
確実に、今の私たちを存在させている。
私たちは、命ある限り、人生から選択を受け取っている。
カップのエースが示すのは、選択であり、
その先にある可能性であり、希望である。
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