タロット柊

考えること、感じることの記録

17日(日)教皇「宗教的、信仰心的」

2022-07-17 20:31:32 | タロット2022・7月

教皇。

このブログで初めての登場。

 

今、社会的に宗教の、ある側面がクローズアップされているが、

実際、宗教について考え出すときりがない。

 

私自身、宗教に縁が深く、最初の大学時代は仏教考古学を専攻していた。

それは、宗教というものを様々な角度から見るためであり、

また、人と信仰心というものの関係を理解したいと思ったからだ。

 

 

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長い進化の過程を経て、人類としてただ1種、生き残ったわれわれサピエンス。

いつから信仰という行為を始めたのだろうか。

行為は、何らかの証拠として発掘される可能性があるが、信仰心がいつ芽生えたのかは分からない。

だが、その心が芽生え、感情がわき、行為としてあらわれ、

それがやがて一つの形となる。

それを宗教というのだろう。

 

教皇のカードで、真っ先に浮かぶのは、

あなたの信じること、それによる行為が、

宗教的なのか、それとも信仰心なのか、ということ。

 

宗教的とは、ある形(理論)があり、それを信じる(用いる)ことで、

ものの見方に意味付けすることだと捉えている。

つまり、さまざまな出来事を、ある一つの視点(基準)から捉えて解釈するということで、

例えば、法律などもそうといえるかもしれない。

なので、

それに従えば、善悪や正誤の判断も、ある意味、自分の責任から逃れることができるともいえる。

 

 

信仰心とは、

なぜだか分からないけれど、そうしてしまう、ということだと捉えている。

例えば、

苔むした巨石にしめ縄が掛けられているのを見ると、

思わず手を合わせてしまう、という行為。

 

長い年月をかけて継承されてきた伝統や、慣習、因習などは、

はっきりと記憶になくても、いつの間にか身についている。

刷り込まれていると言ってもいいし、

思い込まされている、信じ込まされているとも言ってもいいだろう。

そうやって醸成された信仰心は、

社会によって、あるいは国、民族によって異なるが、

あまりに自然に、自らのうちに存在するために、自分の正当性が勝ってしまう。

 

 

教皇のカードは、

宗教的な考え方であれ、信仰心的な考え方であれ、

今、あなたが正しいと信じているものから少し離れ、

なぜ、正しいと思うのかを考えてほしいと促している。

なぜ?を繰り返し、その答えを紐解き、

さらにあらゆる角度から眺めてほしい。

 

今の世界が、これほど盲目的なのは、なぜだろう。

自ら名付けたサピエンス<賢人>に、

私たちはなったのだろうか。


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