教皇。
このブログで初めての登場。
今、社会的に宗教の、ある側面がクローズアップされているが、
実際、宗教について考え出すときりがない。
私自身、宗教に縁が深く、最初の大学時代は仏教考古学を専攻していた。
それは、宗教というものを様々な角度から見るためであり、
また、人と信仰心というものの関係を理解したいと思ったからだ。
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長い進化の過程を経て、人類としてただ1種、生き残ったわれわれサピエンス。
いつから信仰という行為を始めたのだろうか。
行為は、何らかの証拠として発掘される可能性があるが、信仰心がいつ芽生えたのかは分からない。
だが、その心が芽生え、感情がわき、行為としてあらわれ、
それがやがて一つの形となる。
それを宗教というのだろう。
教皇のカードで、真っ先に浮かぶのは、
あなたの信じること、それによる行為が、
宗教的なのか、それとも信仰心なのか、ということ。
宗教的とは、ある形(理論)があり、それを信じる(用いる)ことで、
ものの見方に意味付けすることだと捉えている。
つまり、さまざまな出来事を、ある一つの視点(基準)から捉えて解釈するということで、
例えば、法律などもそうといえるかもしれない。
なので、
それに従えば、善悪や正誤の判断も、ある意味、自分の責任から逃れることができるともいえる。
信仰心とは、
なぜだか分からないけれど、そうしてしまう、ということだと捉えている。
例えば、
苔むした巨石にしめ縄が掛けられているのを見ると、
思わず手を合わせてしまう、という行為。
長い年月をかけて継承されてきた伝統や、慣習、因習などは、
はっきりと記憶になくても、いつの間にか身についている。
刷り込まれていると言ってもいいし、
思い込まされている、信じ込まされているとも言ってもいいだろう。
そうやって醸成された信仰心は、
社会によって、あるいは国、民族によって異なるが、
あまりに自然に、自らのうちに存在するために、自分の正当性が勝ってしまう。
教皇のカードは、
宗教的な考え方であれ、信仰心的な考え方であれ、
今、あなたが正しいと信じているものから少し離れ、
なぜ、正しいと思うのかを考えてほしいと促している。
なぜ?を繰り返し、その答えを紐解き、
さらにあらゆる角度から眺めてほしい。
今の世界が、これほど盲目的なのは、なぜだろう。
自ら名付けたサピエンス<賢人>に、
私たちはなったのだろうか。
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