台湾治郎

自分の生涯・現在の生活

603 ブログ603 昔の日記より    奇跡。

2013-07-16 15:58:25 | 台湾
生きて居ると奇跡があることが、信じられる事もあります 。

私は、今、六一。

私には、まだ、六歳の君。

君は、幾つになりましたか。 もうそんな年齢になったのか。

いつか君に会える日がくる。

人生の奇跡を信じて生きて居ます。君が私を励ましてくれました。

いつも、笑顔で。

君の笑顔とてもかわいい。

 お父さん、僕、幾つだと思っているの?

僕は、もう三七。子供じゃないから、笑顔が可愛いなんて・・・。

けど、嬉しいことが一つ。お父さんが、お母さんの「愛」に気づいてくれたこと。

 ありがとう。おとうさん。僕は、ずっーとお父さん・お母さんが大好きです。

お母さんの、笑顔をいつも見ていたい。

 それと、僕の妹も、面倒見てね。

そして、お父さんが、日本に帰ったとき、家族で、暖かい食事をしてください。

 ぼくは、きっとそこにいます。お父さん・お母さんのそばに。

 おとうさん、奇跡って、ほんとうにあるんです。



ありがとう。


                          再見。

602 ブログ602   私の運命の人

2013-07-16 09:38:41 | 台湾
一人だけ、上げろと言えば、そりゃ奥さん。
彼女との出会いは、前ブログに書いた記憶があります。それと、彼女は、私が家族のことを書くことを嫌うから・・・。
 今は、もう先がないから、人間の歩みが大体見えてきました。61歳になると、見えてきます。人生を「悟」と言うことです。彼女とは、もう人生の三分の二共にしています。
良い人と出会えたと思っています。子供のような私を・・・、いつも諭してくれました。
私にとって、先生であり、妻であり、人生の朋。
 私は、今幸せを求めて、台湾で生活しています。外国にいることで、感じる。
幸せとは、特別なことではなく、ただ普通の生活。
ふたりで、畑仕事したり、昼寝し合ったり、テレビをみたり、二人で散歩したりすることが幸せと思えるようになりました。歳とって、物の見方が、大人に成ったのかもしれません。別に旅行しなくても。日々共に生きていることが。
 人生は、長いようで、短い。私の人生の八分の六が終了。
八分の一は、きっと、台湾になる。そうすると、残りの八分の一。
その八分の一は、共に歩むことにします。台湾が嫌いなわけではありません。
むしろ快適。楽しいし、日々いろんな事が起こり、ま、勉強も楽しい。
台湾居ることで、日本では味わえない、人生の大切さ。運命の大切さを学ぶことが出来ました。
 人は、誰と出会うかで、運命が変わります。私は、彼女と出会え、いろいろなとこに住み、今。わかりました。
 人生とは、それぞれの出会いに感謝することだと言うことを・・。
もちろん、私を苦しめた先生やOさんにも。
 それぞれの運命。学ぶことは、一生。あることを教えるために、私の人生に登場してくれた。そう考えると、意味のない人は、一人もいない。
それぞれがかけがえのない出会い。そう「一期一会」。
 私は、この気持ちさえ、失わなければ、幸せの人生の侭終わることが出来る様な気がしてきました。
 そして、自分が最期の時に、
妻に言うだろう。
 「ありがとう。私と共に歩んでくれて・・・。
また、来世にも、逢いたい。けど、もう良いです。私の子守は、本日を以て、お開きとさせていただいて。来世は、別の人と、別の人生を。
あなたが幸せになることが一番大切です。」
再見。

601 ブログ601 一生は、一生。

2013-07-16 09:33:53 | 台湾
その人によって、一生が長く感じる人も、短く感じる人もそれぞれ。
わたしは、とても短く感じています。もう61歳。
ついこの前まで、新聞配達に苦労したのに・・・。
時間の経つのが教師成って以来、最近特に早く感じます。それは、その人なりの一生。
 蝉は、生まれて、七日間が地上に生きてられる期間。
わたしら、人間は、今は、80歳ぐらいが平均寿命。その時代で、寿命が違いますが、
その人が幸せならば、・・・。これは、天命ですから、中には、病気等で早い人も居るかも・・・。それでも、生きて居る現在を大切に生きていけば・・・・。
 最期に何を語るのか。
私は、「ありがとう。この年まで、私を面倒見てくれて、何も残せなかったが、自分の人生に悔いは、ないです。天国で、みんなの幸せを願っています。そして、兄ちゃんとのんびり遊びます。ま、彼の生前出来なかった一緒に遊ぶことをたっぷりしています。今度、もし生まれ変わっても、この家族を選びたいと思います。
謝。謝你們」
どんな一生であれ、その人なりの値打ちがあります。私のお袋・親父・義理の母。
確かに、苦労もたくさんあったようですが、子供達も、みんな大きくなり、自分務めは、果たして、天国へ行かれ、きっと天国でも、幸せな生活をしていることだろう。
 時々、親より、早くなる子供がいる。それ自体は、とても親不孝な事ですが、
自殺とか自分自ら、命を絶つのは、大罪です。どんなに苦しくとも、命を落とす気構え
でやれば、世の中のかなりのことが、改善できます。だから、自殺は、これに含みません。
自殺を決して、肯定してはいけない。最近非常に「いじめ」等で亡くなる方が多いのが気がかりです。社会事情等いろいろありますが、誰かに訴え、現状改善を図るのが良いと思うが、・・・。
 最近は、何かを教えるために亡くなったと考えるようになりました。何を・・・。
『命』の大切さ。日々の生活の大切さ。そんなことは、命を落としてまで、教えることではないのでは・・・。ところが、頭でわかって居ることと、実際子を亡くした、親の気持ちは、みんな一緒。どうしてどうして、自分の子供が選ばれてしまったのか。
それは、わたしもわかりません。運命を司っている神様・仏様が何を基準にしているのか。六歳の人生 。十五歳の人生。こればかりは、寿命。
 命。
天命を全うしてこそ、意味あります。私は、自分の天命を全うし尽くしたい。
再見。

600 ブログ600 高校時代の親友Kへ

2013-07-16 09:25:23 | 台湾
これは、本人の了解の基で書いて居ます
私の高校時代の友達にKが居る。彼とは、二年生ぐらいから、知り合い、友達になりました。彼とは。ともに受験勉強をした仲間。
 彼の希望と私の希望が同じだった。だから、電話で、数学の問題を夜中まで、解いたのを覚えています。当時、電話は、何時間掛けようと、一会話料金だった。
だから、何時間掛けようと、十円。今から、44年前。昭和43年ぐらい。かれは、体操部。
私は、バスケット部。結構かれは、筋肉が強かった。けど、背が小さかった。めがねを掛けて、いつも、問題を解きながら、ひげを抜く癖がありました。
 女が大好きでした。結構彼は、行動派でした。当時、車の免許を持っていました。当時は、軽自動車の免許取ると、バイクも乗れました。彼の家は、文具店の息子。だから、バイクや車に乗れる高校生は、私の知る限り、彼だけ。
 だから、女の子をバイクに乗せて・・・・。その先は、知りません。
私も、その先は、余り聴きませんでした。けど、何でも彼は、私より行動的で積極的でした。
彼に勝てるのは、勉強ぐらいか。
面白い奴で、自分の夢に向かって三年もがんばり、結局。人間医者ではなく、動物のお医者になりました。今も、開店しています。
彼の奥さんは、たしかS予備校の何回か会った覚えがあります。かわいい子でした。
ま、毎ペースの見本の様な奴。めげない・くじけない・自分の目標に向かってまっしぐら。
そんな奴でした。ある意味私の先生でした。
お互いライバルでいながら、互いの持って居ない物を求め、友達とは、不思議です。
 その彼が、どういう訳か、今日我が家に来たようです。会いたかった。
どうも、頭が白髪だらけになったようで・・・。そりゃそうだ。現在彼も、61歳。
奥さんと一緒に。家内にあって、いろいろ話をしたようです。
私が台湾に生活していること、教えなかったかも、しれません。
 彼の『笑顔』大好きでした。彼のメガネを上げる癖も。彼の筋肉も。
昔、彼と仲間で、数学研究会などという同好会作り、十五人ぐらいで合宿。
場所は、戸隠の民宿で、そこで、みんなで数学時会ったり、互いの夢を語り合ったりしました。塩原先生に一緒に行って、貰いました。楽しい旅行でした。
 君との思い出で、一番覚えているのは、あの文化祭の出来事。3年の文化祭で・・・・。
そんな事もありました。あれ以来、Y君とは、没交渉になったような気がします。
青春とは、不思議なエネルギー。なんとも、いつも欲級不満で、それをスポーツや勉強に向けていないと・・・・。ま、若かった互いに。
 いつも、我々は、問題を解いていました。数学が結構得意だった。微分・積分おてのもの。私は、物理が苦手。君は、国語・社会・・・・。英語は、まあまあ。
要は、数学、物理、化学だけが得意。それでも、互いに、負けず嫌いで、競い合っていました。私は、成績だけは、君に負けなかった。負けると悔しいから、必死に勉強し合いました。立石図書館で。おのころ、Oもいた。彼は、社会科が、抜群。どうして、そんなに地理・歴史が得意なんだろうと思いました。彼は、今にしているのか?
わかる訳ないよな。この前の同窓会の名簿にもね住所もなかった。
 いろんな奴がたくさんいた。あの落研の「M」は、下田の森林保安官。あいつも個性的。
いろんな珍しい・ユニークな人間に恵まれて楽しかった。もう一度、あの時代に戻れたら、また。きっと同じことします。
 では。我々の青春に乾杯。