台湾治郎

自分の生涯・現在の生活

641 ブログ641 ディベイトという学習方法

2013-07-27 18:24:46 | 台湾
物事を対立的に考える方法で、ディベイトという方法がありました。
今思うと、最初からはなかったから、1980年代後半かな 。
自分でも、この方法を使うと生徒が面白いように発言する。
討論に近いが、普通にに討論をしようとすると全然しない。ところが。ある程度、何回か、ディベイト後は、ある程度討論の楽しさを味わった生徒達が乗ってくる。
テーマは、分かり易く「この世の中、男が得、女が得」など簡単なテーマ。
その理由となることを五つ上げさせ、それについて論争させます。そして、最終判断は、聞いている生徒たち。五人か六人のグループを作り、6グループで競い合いました。
クラス全体が討議することが好きになり、何が正しいか、多面的に考えるようになります。中学生でも、ほぼ大人に近い論理力を持っている生徒も居ます。それと、感情がはいり、エキサイトしますが、それは、あくまで議論上のこと。
 昔は、こういうディベイトは、なかった。今、全国ディベイト甲子園というのがあり、全国大会まであるようになってきた。日本人は、人前で意見を言うのは、苦手な民族。
大体日本の教育は、討論とか。対立的に考えるというのは、まったくしていない。
先生が賛成の者、反対の者。それで少し議論することがありますが・・・。ま、ほとんど自己主張をすることなく、教育が終える。
 少なくとも、私は、大学を除いて、人前で意見を言ったのは、たった一回。
前にブログに書きました。それこっきり。話すことも好きでなかったし、恥ずかしがり屋。だから、人の言うのを聞いているのが好きでした。自分が発言し、人と討論するようになったのは、大学のゼミ。大学生になって、初めて、ディベイトの様な学習形態を学びました。結構やってみると楽しい。それと、その人の考え方、道筋がよくわかる。
頭の良い人は、どっちに行っても、討論自体が好きらしく、乗ってきます。
今、国際化が叫ばれていますが、人前で意見を言うことは、大切なことですが、どうも、アジア圏の人達は、先生に質問も少なく、聞くことが好きなようです。ところが、欧米系の人達は、わからないことは、直ぐに質問し、納得いくまで聞いてきます。
日本の教育を受けた人間にない資質を欧米系の人達は、持って居ると言うことです。
恐らく、それは、教育の違い。日本の教育は、一斉授業。教師の話が中心。生徒は、聞き理解する活動。ところが、欧米では、教師は、テーマを投げかけ、生徒同士が議論。
討論することになれている。その違いがすべての活動に出ている。彼らは、自分の納得がいかないことは、とことん追求。その辺の違いが、国民性に出て来る。
 これからの日本の教育にも、ディベイトというな議論すること自体を楽しむ授業が合っても良いように思います。 議論することで、人前で意見を言うことを恐れない人間になります。日本人は、あまりにも、言わなさすぎ・・・それでは、国内は、何とかなるがね国際社会では生きていけない。ある程度の自己主張の出来る人間が必要に思う。
再見。

640 ブログ640 子供を見ているときが

2013-07-27 18:17:45 | 台湾
図書館には、たくさんのお母さんと、 子供が来ます。
この親子ぶりを見ているのも幸せですが、子供の歩く姿。
まだ、一歳かそこらの子供の歩く姿は、まさに、かわいい。
この言葉意外にない。中国語では、「可愛」カワイ。そう日本語とまったく同じ発音で通じます。後、おいしいという日本語も、台湾人には、通じます。
 子供と一緒に居ると、時間の経つのを忘れます。公園でも、図書館でも同じです。
子供の笑顔が大好きです。大体子供は、こちらが笑顔で接すると、笑顔で返してくれます。
これは、一度実験してみてください。私が笑顔で接したとき、あまりにも小さい子は、人見知りしますが、大部分の子供は、笑顔で返してくれます。
子供は、笑顔が可愛い。泣いているときも可愛いが、理由がわからないと・・・。困ります。もちろん、私は、子供泣かすことは、ありません。たまに怖がる子供もいるときがありますが、極々まれ。
 自分の子供という者は、他の子供より可愛い。当たり前。だから、子供は、育つのです。
昔から、「親ばか三輪、そば屋の風鈴。」こんな言葉ありましたか、今作りました。
似たような言葉がありましたが、忘れました。
 忘れないのは、自分の子供の小さい頃の想い出。
もう、それは、脳裏に焼き付いて、その子が大きくなっても、親の頭の中では、この頃の侭。親は、いつも子供のことを考えて居ます。
田舎のおじいちゃん、78歳でも、自分の娘のために、朝早く起き、餅をつきます。
杉戸町から、堀切まで、どのぐらい時間掛かりますか。約2時間。餅をつくのに、30分
餅米を炊くのに、約30分。つまりおじいちゃんは、お袋の家に来るのに、四時間ちかく書けてきています。10時に堀切に着くには。もう、五時起きで準備します。
親というのは、子供のためなら、多少の我慢します。
 治郎張は、そう言う我慢してきましたか?
ま、少しは、しましたが、余りしませんでした。彼女の授業参観に一度だけ行ったことがあります。もう、恥ずかしくて、恥ずかしくて。
駄目です。同じ職業でも、先生なんか、全然見ていません。我が子の一挙止、一頭足が気がかり・・。途中で帰りたくなりました。それほど、我が子の態度が良くありませんでした。今から、24年も前のことです。未だに鮮明に覚えています。
 子供の成長は、親は、嬉しいものです。まして、結婚とか、子供の出産。
そう言う日が早く来ないかと、一日千秋の思いで待っています。
もちろん、娘に直接言うと、セクハラになります。
けど、どの親も願っていることは、ひとつ。
 「我が子の幸せがいちばん」
だから、結婚しない人生もあるかもしれません。
子供自身の幸せを親が強制するつもりは、毛頭ありません。ひたすら、子供の応援団のつもりです。命に関わることがあれば、もちろん。守ります。他の人の命を奪っても、守る。
それが親の本音です。もちろん、意図的に、人を殺すことは、ありません。それくらい親は、子供のことが心配しているということを
言うっているだけです。
 子供の成長は、親は、安心。その安心を感じたら、もう、いつ死んでも良いと納得するものです。
 わたしは、自分の子供の幸せを見てから、あの世へ生きたい。
再見。

639 ブログ639  黒岩重吾とヤンソギル

2013-07-27 18:13:19 | 台湾
私は、この二人の書く物が大好きです。もちろん、テーマも、人物も全然違う。
けど、私は、二人の描く人間像がすごく似ているように思えます。
 黒岩は、ギャンブルに、世間に負けた人間を。ヤン氏は、在日朝鮮人の生き様を描いていることが多い。
両方に通じることは、人間の怨念にも似た執念を感じる。けっして、踏まれても、殴られても、自己の信念を捨てない強さ。自分の中には、こんな強さは、無いと思いながら、ついいつの間にか惹かれる自分が居る。
 人は、自分の持って居ない物に惹かれる。女性でも自分と同じタイプの人には、惹かれない。自分の持って居ない感性を見つけたとき、いつの間にか恋に落ちていることも多い。黒岩が先で、ヤンが後。黒岩は、すでに亡くなっているから、新しい作品は、もうない。
ヤン氏は、意欲的に新作品を書いているようだ。
 黒岩の落ちぶれて、キャバレーの宣伝マンとして、生きながら、小説家への夢を捨てない男の執念。信じられないような病気と闘いながら、生きる彼。
 社会の中で、影の存在となり、表に出られない朝鮮人の生への執念。社会の中で、影と成る少女売春、麻薬、朝鮮人の確執など社会問題を扱う。
 一言で言うなら、人間の「どろどろ」した感情が好きなのです
自分にも少しは、ありますが、彼らほど、信念を持っていきぬいていません。
だから、惹かれるのです。
 そして、こういう小説には、道徳が真逆なことも多い。生きるためには、人の物を盗むことも辞さない覚悟。もちろん、見つかれば、かなりの打撃を受けることを知ってする。潔さとは、ちがう。泥棒の図太さのような人物を書いて居る。
一生の間に逢える人の数は、せいぜい二・三千ぐらいか。
ところが本で出会う、映像、映画など出会う人を含めれば、その数は、倍に増える。
もちろん、知り合っても,何も感じない人も居るから・・・。ただ知り合うだけでは意味ない。自分の生き方に、強烈な影響をのこすような小説。そう言う小説に出会えると、良かったと思う。どこかその小説の生き方が、自分に反映していることもある。私の反骨精神は、本来持って居たか。どこか素直だが、強情な面がある。それが自分の証だと思っているところがある。
反骨精神こそ、自己存在。
と思っているところがあります。
二人の作者は、この反骨精神の持ち主。
 私も、生涯この反骨精神だけは、持ち続けたい。
ところで、何に対しての反骨なの。こそゃ、社会でしょ。いつ発揮するの・・・?
いつでしょう。それは、死ぬまで。
再見。

638 ブログ638 どこかで、運が変わることも

2013-07-27 00:18:24 | 台湾
昨日は、余り勉強せず、日本のドラマ「白い巨塔」ばかり見ていました。それから図書館に行き、ブログを書き、それをネットに載せて、帰ってから、ドラマ等を見て、全然勉強していない自分に気づき、単語だけでも、勉強しにセブンへ行きました。
私が勉強していたら、一人のベルギー人が私に話しかけて、くれました。彼は、英語教師として、現在台湾にいるとのこと。
私が日本語教師になりたいと語ると、まず、人材銀行に登録をしなさい。
たくさん学校があるから、それと、企業も日本語の出来る教師を求めている。日本語の仕事は、たくさんあることも指摘してくれました。
だから、諦めずに頑張りなさいと行ってくれた。もちろん、彼のメールアドレスも。
もし、困ったことがあったら、メールくださいと。
 私は、彼の励ましがとても嬉しかった。もちろん、直ぐに実現することではないが、ゆっくり勉強していけば、何とか希望が叶いそうな気がしました。
まだ、まだ、中国語は、発展途上ですが、なんか希望が出てきたように思います。
最高三年。仕事探しに明け暮れると思っていました。そんなに簡単だとは思っていません。物事は、全部準備がどうであるか。その人間の能力が問われます。私の場合、能力がないのだから、気持ちだけは、切らずに追い求める。そのうちに能力も、少しは、高まると思っています。
 『すべてのことは、時間とお金 』 ここでも、この原則を当てはめます。
私のこれからは、まだまだ未定です。けど、日本語教師になるという目標だけは、失わないように、自分を成長させていきたい。この気持ちを失わなければ、いつか願いが叶うと単純に考えて居ます。日本語の先生は、あなたは、どんな技術をもっているのですか。
そのレベルの人が、日本語教師になるから、迷惑しますとコメントをくれました。
みんな最初は、初心者。それがやっていく打ちに、技術は、追いつく物です。私は、37年間教師として、やっていて、本人が余程の瑕疵がある場合は、除いて、物事は、やっていく打ちに何とかなる物だと思っています。甘いと言われればそれまでですが、だれでも、みんな最初は、初心者。それで良いのです。そして、自分を成長させるのです。その成長が生徒にもきっと良い影響を与える物です。コメントをくれた方が、どんな授業を展開しているか知りませんが、少なくとも、教育者としての良心は、余り感じませんでした。
 教師の立場は、生徒を励まし、生徒に日本語を学ぶことが、自己を成長させていると感じさせることだと思うのですが・・・。もちろん、私の独断的な考えも入っていますから、的外れかもしれません。
 私も、学校で中国語を教わり、いろいろな人間性の先生と勉強しました。そのなかで一番印象的な先生は、L先生。彼女は、教えることは、もちろん、生徒共に、生活を楽しませるようにと努力してくれました。 もちろん、すべての先生がそれを出来るわけではありません。その先生の個性です。その個性が後々、生徒に伝わるのです。
 昨日、ベルギー人の先生に会ったことで、なんか「運」が変わるのではないかと思えてきました。
 では、お休み。
再見。