縄文から諸磯、勝坂式土器への変化の時期
縄文時代の集落は中央高地や関東地方の広域的な集落変革が見られ、
諸磯b式期にはじまり環状集落の五領ヶ台式期から井戸尻式期を経て曽利式期に至る3つの時期があり、
以降は拠点集落が長坂上条遺跡へ移る。
諸磯式期から勝坂式土器の時期に栽培ダイズが確認されているという
この時期の土器の変化は、それまでの縄文から大きく変わり、次のようなものになっていた
諸磯式、
勝坂式
これまでの撚り糸文や縄文という、いかにも縄文縄目という模様から離れて、勝坂式の土器となる
ヒエ、ダイズ、アズキなどの栽培種が成立して、農耕の収穫が向上して、いよいよ食料獲得の主要構成要素となり、集落の安定した生活が、狩猟から農耕の収穫へ変化したことが推察できるのでは無いか。
土偶も同じ時期に大きく変化していた
土偶は矢張り世界の古代文化と同様に、植物や農耕の豊穣に関係するものでは無いだろうか
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
世界への伝播
大豆は20世紀初頭までは、東アジアに限られた主に食用の作物であった。20世紀に入り満鉄が満州において「満州大豆」など大豆の品種改良や新種開発に乗り出してから、油糧作物および飼料作物として世界に生産が広まり、世紀後半には生産量が急拡大した。21世紀には、大豆と脱脂大豆を合わせた交易重量は長らく世界最大の交易作物である小麦と並ぶ量となった[12]。
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19世紀末以降、世界中から新たな品種を探し、新たな農法を探す調査が行われてきた。例えば Frank N. Meyer は1916年から1918年まで中国と日本を訪れ、果実や木の実の新品種採集を行った[23]。1929年から1931年にかけて、アメリカの調査団が中国、朝鮮、日本を訪れ、大豆の品種を持ち帰っている[24]。
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大豆のルーツは、シベリア、中国、朝鮮半島、東南アジアといろいろな説がありました。
しかし今日では新たな遺跡発掘や遺伝子調査などから、それぞれの地域で固有の特長があるものがみつかっていて、起源地は一つでなく複数あるのではないかと考えられているようです。
大豆とツルマメの中間体もこのエリアでみつかっていますので、
大豆は今のように世界各地にある作物でなく、古く中国、東アジアを中心に栽培されながら進化をしてきた豆といえるようです。
ツルマメは茎が細くて長く、豆は大豆と比べるとかなり小さく偏円形です。
それが、作物として栽培されている長い歴史の中で、豆が大きくなり、蔓から直立する性質に変わって、低くなったとされています。莢も、熟すと自然にはぜる本来のマメ科植物の性質を失ったものです。
ツルマメとダイズ間の遺伝的障壁はほとんどなくて、基本的に交雑可能であることが知られていて、ダイズの耐病性等についての改良を目的に、さまざまな特徴を持ったツルマメの系統がダイズの品種改良に利用された事例があるそうです。
が、ダイズとの間の雑種には蔓化、割莢等のツルマメ由来の不良形質 (? 栽培するには蔓になったりさやが割れやすかったら困るんでしょうね。) が現れ、ダイズとの戻し交配によるそれらの形質の除去が容易ではないので遺伝資源としての利用には困難が伴うとのことです。
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ダイズ栽培種の祖先種はツルマメ。アズキ栽培種の祖先種はヤブツルアズキ。
栽培起源地は中国とされてきたが、最近は東アジア多元説縄文時代早創期~早期には利用が始まっており、縄文時代中期には中部高地と関東西部の諸磯・勝坂式土器文化圏において種子の大型化がみられる。
中部高地での大型種子は、遺跡数の減少とともに見られなくなり、その後は九州地方を中心に
大型の種子が見られるようになる。
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縄文時代にマメ栽培か 九州出土の土器に痕跡
九州各地で出土した約3600?3000年前の縄文土器の表面に、栽培種とみられる大豆や小豆の痕跡があることが熊本大の調査で分かった。定説では豆類の栽培は弥生時代以降とされるが、調査した小畑弘己(ひろき)准教授らは「縄文後期には九州地方にマメ科植物の栽培技術があった可能性がある」と指摘している。
azuki bean縄文期の豆類は出土例は多いもののことごとくが炭化しているため、豆の種類や、その豆が野生種か栽培種かの特定は困難とされてきた。熊本大では「土器の作製過程で粘土に混入したマメ科種子が焼け落ちてできたとみられるくぼみにシリコーンを流し込んで型を復元、電子顕微鏡で調べる『レプリカ法』を採用」し、「九州の遺跡から出土した5万点以上の土器片から豆類とみられる痕跡について分析した」と記事は書いている。写真は「縄文土器の表面の痕跡からシリコーンで復元された小豆を電子顕微鏡で見た」ところ。記事はさらに続ける。
その結果、長崎県の大野原(おおのばる)遺跡や熊本県の三万田(みまんた)遺跡から出土した縄文土器計4点に残っていた跡を、豆の「へそ」と呼ばれる部分の形状などから大豆と特定。福岡県の大原(おおばる)D遺跡や鹿児島県の柊原(くぬぎばる)貝塚など10遺跡の土器15点でも、大豆形の跡を確認した。いずれも長さ十数ミリと、野生の大豆に比べ大きく、形も現代の大豆と似ていることから栽培種と考えられるという。
共同研究者の仙波靖子さん(熊本大)は「豆類は田畑のあぜなどで粗放栽培できる。大陸から伝わったコメやムギと複合的に栽培されていた可能性が高い」と話している。
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ダイズ土器の発見
山梨県立博物館では、土器内部の植物圧痕を観察するレプリカ・セム法[2]により栽培植物の起源を明らかにする研究を行っているが、2007年には山梨県埋蔵文化財センターとの共同研究において、酒呑場遺跡の181号土坑から出土した縄文中期の蛇体把手付土器[3]の把手部分から栽培ダイズの圧痕が発見され、レプリカ・セム法による観察で栽培植物であると確認された。また、同様の手法で山梨県都留市の中谷遺跡から出土した縄文晩期前半の土器からは穀物害虫であるコクゾウムシが検出されている。
さらに2009年には縄文中期前葉から中葉にかけての住居跡から出土した五領ヶ台式期から藤内式期の縄文片から複数のダイズ属のダイズ、ツルマメ、ササゲ属アズキ亜属の圧痕が確認され、同時に行われた北杜市大泉村の天神遺跡出土の縄文前期土器内部からもダイズ圧痕が確認されている。
ダイズの栽培についてはこれまで弥生時代であるとされていたが近年は縄文時代後期の検出例があり、さらに縄文前期にまで遡る発見としてこれらの発見は縄文農耕の観点からも注目されている。また、2009年の報告においては縄文土器内部への意図的混入の可能性も指摘され、ダイズ圧痕の意義についても検討が行われている。
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縄文時代の集落は中央高地や関東地方の広域的な集落変革が見られ、諸磯b式期にはじまり環状集落の五領ヶ台式期から井戸尻式期を経て曽利式期に至る3つの時期があり、以降は拠点集落が長坂上条遺跡へ移る。
2013年、出土品のうち土器・土製品463点、石器・石製品220点が国の重要文化財に指定された。
ダイズ土器の発見
山梨県立博物館では、土器内部の植物圧痕を観察するレプリカ・セム法[2]により栽培植物の起源を明らかにする研究を行っているが、2007年には山梨県埋蔵文化財センターとの共同研究において、酒呑場遺跡の181号土坑から出土した縄文中期の蛇体把手付土器[3]の把手部分から栽培ダイズの圧痕が発見され、レプリカ・セム法による観察で栽培植物であると確認された。また、同様の手法で山梨県都留市の中谷遺跡から出土した縄文晩期前半の土器からは穀物害虫であるコクゾウムシが検出されている。
さらに2009年には縄文中期前葉から中葉にかけての住居跡から出土した五領ヶ台式期から藤内式期の縄文片から複数のダイズ属のダイズ、ツルマメ、ササゲ属アズキ亜属の圧痕が確認され、同時に行われた北杜市大泉村の天神遺跡出土の縄文前期土器内部からもダイズ圧痕が確認されている。
ダイズの栽培についてはこれまで弥生時代であるとされていたが近年は縄文時代後期の検出例があり、さらに縄文前期にまで遡る発見としてこれらの発見は縄文農耕の観点からも注目されている。また、2009年の報告においては縄文土器内部への意図的混入の可能性も指摘され、ダイズ圧痕の意義についても検討が行われている。
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縄文中期の関東甲信地域は富士眉月弧文化圏とよばれる。
勝坂式土器とは、関東地方及び中部地方の縄文時代中期の土器型式名ないし様式名である。
勝坂式は、隆帯で楕円形を繰り返す文様など通時的な変化を追えるものもあるが、器全体を豪壮、雄大な造形で表現することに特色があり、動物、人物などの顔面把手、蛇を模した把手などがつけられる。また、水煙式と呼ばれる中部山岳地方の土器は、勝坂式の終末に出現する
勝坂式土器は、現在の神奈川県相模原市南区磯部の勝坂遺跡の発掘調査によって検出された土器群について、山内清男が1928年に諸磯式と加曾利E式の間に位置づけた。
一方、長野県八ヶ岳山麓で、井戸尻遺跡をはじめとする縄文時代中期の集落の発掘調査を行い、藤森栄一らは、貉沢(むじなざわ)式、新道(あらみち)式、藤内式I、II式、井戸尻I、II、III式の編年を1965年に提唱した。
勝坂式は古い順から、藤森編年における標式遺跡の名称である貉沢、新道、藤内、井戸尻を冠して呼称され、それぞれ勝坂1式古相、同新相、勝坂2式、勝坂3式に対応される。
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縄文文化を紹介し、研究支援活動を行う「NPO法人国際縄文学協会」によれば、縄文時代の定義は「土器を持った狩猟採集文化」。そのはじまりは17,000年ほど前とされており、当時は氷河期の真っ最中でした。約11,000年前に氷河期が終わり、いわゆる「森と海の時代」に入ります。この頃の日本国内には、ドングリやクリ・クルミが実る豊かな落葉広葉樹の森が広がり、海面上昇や土砂の堆積によって、魚介類が豊富に育つ環境が形成されていたといいます。