メソポタミア地域のシュメール文明に先行する小麦栽培を始めた、ナトゥーフの小麦を主食とする文化と
ドングリやマメ類を食用とする文化の差違はどうなのか
縄文時代には、少し潰せば良いという程度の処理 あく抜きのため砕く
石皿は少しへこんでいる程度 それ程固くは無いものを砕いていた
小麦などの種は固く、ゴリゴリと磨り潰して粉にする文化
すりこぎ棒と深く抉れたボール、
容器として使えそうなほど凹んでいる。もちろんここには土器はまだ無かったから容器として使ったのだろう。小麦の穂の採取にも、編み籠が使われていた。小さい種で籠から漏れてしまうため土器を必要としたマメ類と違い、麦には容器としては編み籠それで十分だった。
小麦を粉にすることは大変な重労働であったというそうだ。
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
シリアにある、11500-7500年前頃とされる新石器時代の遺跡、アブ・フレイラ遺跡から出土した人骨には、脊髄損傷、足指の重い骨関節炎、大腿骨や膝の骨の変形といった、旧石器時代の狩猟生活を送っていた人類の骨には見られない特徴が確認されている。このことは、当時の農耕が、狩猟と異なって、いかに過酷な重労働であったかを物語っている。
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殷が滅びたあとに周(しゅう)が興り、甲骨文字を発展させて、漢字により近い金文という文字をうみだしています。 そして、『我に来牟(らいほう)を胎る』という言葉を残しました。 これは良いムギの種が西方からやってきて豊かになったことを意味します。
周は紀元前1000年頃に国を統一しているので、伝わった良いムギとは小麦をさしたものでしょう。
小麦は大麦とちがって臼(うす)でひいて粉にしなければ食べられません。大麦は搗いて皮を取りのぞけば食用になりますが、小麦は麦粒に皮が癒着していて剥けないので碾き臼(ひきうす)で粉にするのです。
この碾き臼が中国で広まったのが紀元前700年ころ。やはり周の時代です。
そして小麦が広がることで華北地域は、大麦の粒を食べる生活から小麦の粉を食べる生活へと移っていきました。
こうした麦が日本へ伝わったのは、大麦が紀元前1000年前の縄文時代の晩期とされ、小麦は紀元前200年あたりの弥生時代前期と考えられています。
そのときから日本人は大麦やコメの粒を食べてきました。それが最近、急にパンやピザ、スパゲッティ、麺など小麦の粉を大量に食べるようになり、主食が粒食から粉食へ変化しています。