ある企業内でカウンセリングをしておられる方が次のようなことを言われた。
「カウンセリングというのは不思議な仕事ですね。相談に来られた人に対して、私は何も別にしていないのに、その人がいろいろと努力されて、自分の力でよくなってゆかれたなあ、と思う人は、終わってから感謝の言葉を言われたり、時には何かちょっとしたものを持ってきて下さったりします。
ところが、私が大変苦労して、あちこち走りまわったり、お話を聞いているだけでも胸が苦しくなるような体験をしたり、そのようなことを何年も続けているような方は、めったに感謝の言葉を言われないのです。
何だか話が逆になっているように思うのですが」
これに対して、私が申し上げたのは、「感謝できる人は強い人です」ということである。
他人に心から感謝する、ということは大変なことである。
まず、そのためには、自分が他人から何らかの援助や恩義を受けた事実を認めねばならない。
弱い人はそもそもそのような現実の把握ができないのである。
それにつぎつぎと襲ってくる不幸や災難に対処してゆかねばならないので、それに追われていて他人のことなど考える余裕がないのである。
あるいは、あまりにも理不尽な不幸や苦しみを体験するので、自分に対してある程度の助けがあって当然であるとも思えてくる。
実際、気の毒な人たちは、自分の責任ではないのに不幸に陥らされるので、そのようなことを生ぜしめる「世界」から、何らかの助けがあるとしても、別に感謝すべきこととも思われない。
それどころか、自分の不幸に比べると、それほどの助けではすくなすぎるという不満さえ感じることだろう。
一人の人間と一人の人間との関係として見ることができず、自分は世界(世間)から害を受けているのだから、そこから少しぐらいのお返しがあって当然、というわけで、カウンセラーを「世界」の代表のように思われるのである。
ところで、誰か他人から恩義を受けたとか、援助を受けた、ということを認めた場合、下手をすると、その人の方が自分より「上」であり、自分がその「下」であると認めねばならない、と思う人がある。
別にそこには上下の関係などはなく、援助したりされたりして人間は生きているのだから、別にそれを有難いと感じても、上下関係ではないのだが、そのように受け取ってしまう人がある。
それが嫌だから、何のかんのと理由をつけて感謝しない人もある。
あるいは、感謝をするという感じではなく、一種の「重荷」としてそれを感じてしまう人もある。
そんな人は他人の援助を不必要にはねつけたり、受けたとしても、重荷に耐えかねて、かえってその人を嫌に感じたり、何かと非難することを見つけたりする。
こんなわけだから、感謝するのはなかなか難しいのである。
なかには、感謝するのが難しいものだから、やたらに「すみません」を連発して、あやまり倒すような人も出てくる。
感謝をすると、そのことは心に抱いてずっと持っていなくてはならぬので、それを保持し続ける強さをもっていない人は、「すみません」を連発して、心の中にはいってくる前に、水際ではねのけているようにさえ感じられるときがある。
このようなことがわかってくると、カウンセリングをしていて、感謝されなくとも、おかしいと思ったり腹が立ったりするよりも、まだそのくらいの段階なのだと思ったりして、納得がいくようになる。
そして、このような人がカウンセリングの経過のなかで、感謝の言葉を言われたりすると、ああ、随分と強くなって来られたのだな、と思ったりする。
感謝と言っても、適切な感謝ということが大切で、不必要に有難いを繰り返されたり、不相応な贈物をもって来られたりするときは、感謝の拒否と同等のことが心の中に生じていると思ってまちがいないだろう。
自分の受けた恩義を適切に評価し、これに相応した感謝の心を持ち続けて、しかも、自分の存在は何らおびやかされることがない、となると、よほどの強い人でないと難しいことがわかるであろう。
ある人がどの程度の強さをもっているかを前もって知っておくことが必要なときがある。
そんなときに、その人が適切な感謝をする力があるかどうかは、相当に信頼できる尺度のように私は思っている。
繰り返しになるが、ここで「適切な」というところが重要で、感謝病にかかっているような方は、あまり強くはない。
だいたい感謝の心というものは、それほど外にギラギラ出てくるものではないからである。
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