心理療法家という職業は、人間の変化にかかわる職業だ、と言えるだろう。
ノイローゼの人が治る、非行少年が非行をやめる、アルコール依存症の人が酒を飲まなくなる、これらのことは、何らかの意味でその人が変化することを意味している。
そのような変化を援助するのが心理療法家の仕事である。
人間は自分で何とか自分の性格や生き方を変えたいと思うときがある。
あるいは、他人の行動を変えたい、あるいは、変わって欲しいと思うこともある。
ところが、これはなかなか難しいことだ。
それが思うようになるのだったら、誰もが立派な人になったり、偉い人になったりするだろうし、別に立派になどならなくとも、少なくともあまり他人に迷惑をかけるようなことはなくなるだろう。
われわれは自分の欠点に気付いていて、それを直そう直そうと思いつつ、どうにもならず他人に迷惑をかけ続けているものである。
人間が変化する場に立ち合い続けていて、まず思うことは、「一番生じやすいのは、180度の変化である」ということである。
その好い例は、アルコール依存症の場合だろう。
大酒飲みの人が、ある日から、酒をピッタリとやめる。
皆が感心していると、ある時にまた逆転してしまう。
つまり、180度の変化が生じるのである。
非行少年に会っていてもこのようなことはよく生じる。
札つきの非行少年が急に変身して、途方もなく「よい子」になる。
周囲の人の賞讃が頂点に達した頃に、その子は180度の逆転をやって、「やっぱり、あの子は悪い子だ」という判断を強めてしまう。
「だまされた」と言って、すごく腹を立てる人さえ出てくる。
他人のことはともかく、自分の生き方を考えてみよう。
自分の生き方と父親(あるいは、母親)の生き方とを比較してみると、びっくりするほど同じことをしているか、正反対のことをしているか、に気付く人が多いのではなかろうか。
自分の親のような生き方をしない、と決心した場合、その方向を20度とか30度変更するのではなく、180度の変化をしているのが多いと思われる。
このような現象をイメージで表現するなら、風見鶏でときどき何かの加減でクルッと回転して反対向きになるのと似ているのではなかろうか。
風が吹いているとき、それに抗して20度、30度の方向に向くよりも、180度変わってしまうとらくなのである。
つまり、何かの方向づけの力がはたらいているとき、逆転してしまう方が、少し変えるよりはまだやりやすいのであろう。
このようなことがよくわかってくると、180度の変化が生じても、やたらに喜ぶことなく、じっくりと構えていられるようになる。
ここで、「じっくり構える」ことが大切で、生半可にこのようなことを知った人は、180度の変化など、「どうせ信用できない」と冷たい態度に出て、せっかくの変化をすぐぶち壊してしまうのである。
ともかく、一番生じやすいことにしろ、180度変化したことは喜ぶべきであって、何も冷たくすることはない。
実はこのときに生じた変化によって経験したことは、その人が次に自分の在り方と照合しつつ、新たな方向性を見出してゆくための参考になることが多いので、それはそれとして大切にすべきことなのである。
ただ、その時の喜び方が手離しになってしまわないところが一味違うのである。
そのような態度で接していると、その人が逆転現象を起こして元にかえっても、それほど腹が立つこともないし、悲観することもない。
このようなとき、本人は自己嫌悪に陥ったり、やけになったりするが、われわれが以前と変わらぬ態度で接していることに助けられ、もう一度、自分の生き方についての検討をはじめられることになる。
そのときになって、われわれは180度の変化は案外生じやすいものであることを話したりして、そのときに経験したことなどじっくりと話し合い、さて、次はどうするかということを共に考えてゆく。
そのためには、今まで吹いていた「風」とは異なる方向の「風」の存在を探し当てねばならないし、そうなってくると変化はだんだんと本物になってくるのである。
もちろん、180度の変化がその人にとっては本物だということもあろう。
それもじっくりと確かめているとわかることである。
こんなことを考えていたら、あるとき、よくなってこれが最終回というときに、ある方がお礼を言われて、「先生のおかげで、私も随分と変わりました。
変わるも変わるも360度も変わりました」と言われた。
もちろん、この方は自分が凄く変化したことを表現したかったのだろうが、これを文字通り受け止めても、素晴らしい変化だと言えそうな気もした。
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