昨日昔引っ越ししたときの荷物を整理していたら、20数年前のモノがいろいろと出てきて懐かしい想いがしました。葉書や写真を見ていると、これはいかんなと思いつつ、ついつい時間が過ぎてしまいます。昔読んで、内容はほとんど忘れていた本まで出てきて、改めてペラペラとめくってみると、(イギリス近代)競馬の始まり(ブックメーカーの出現)について書いてある箇所がおもしろかったので、今日はいつもと趣向を変えて、この部分を引用して、ブログに残しておきたいと思います。以下、引用です。
……自分の持ち馬を他馬と競わせる。そして、それに何がしかの財貨を賭ける。これは、おそらく人類が馬を家畜として飼い馴らし、かつそれに騎乗することを知って以来、営々として続けてきたことであろう。見えない結果に対する投企の意志、いわゆる射幸心は、人間のかなり本源に近い欲望のひとつと考えられる。それは肉眼では太陽を直視できないように、素手では空を飛べないように、人間が未来を知り得ないという時間の絶対的な拘束を受けているからである。
それはともかく、射幸心とは「偶然の利益を狙う心情」なのだから、賭けの対象も、常に偶然の結果が出るように仕組まれていなければならないことになる。皆だれしも必然の結果を期待して投企するのだが、必然の結果など予め知り得はしないのだから、当然のことながら射幸心も絶えることがない、というわけだ。
……18世紀後半以降に起こった近代競馬成立の転換点のひとつは、少頭数によって複数回のレースで勝者を決めるヒート競争から多頭数による一回勝負へとレースの形態が大きく変化したことであった。この一事だけでも、偶然性の度合いが格段に増したことが判るだろう。ヒート競争は、おなじ出走馬によって競争を繰り返すわけで、何よりも耐久力が基本となり、ヒートを重ねるうちに偶然性の確率が低くなっていくからだ。それに対して、出走頭数の多さはもとより、一回の競走だけで決着する方式がいかに偶然性に満ちているか、容易に想像できよう。
ヒート競走が盛んに行われている頃、賭けは一対一で交わされるのがふつうであった。素朴な形態のレースでは、馬主自身騎乗するのが一般であったから、賭けも騎手同士、つまり賭けと賞金の区別はなかったわけだ。見物衆もこれに賭けるのはもちろんだが、それでも基本は一対一であった。グランド・スタンドがまだ整備されていない時代のこと、多くの見物は各自の馬に乗って訪れ、レースが始まると、それと一緒に、しかも掛け声(賭け声)を怒鳴り合いながら走ったという。レースの当事者からすれば、さぞ喧(やかま)しかったに違いない。
しかるうちに、棒、杭などを打ち立ててコースが確定するようになると、出走馬と併走するなどという賑やかなこともできなくなった。ちなみに、後年、一般的になる「ステークス競走」のstakeは、元はこうした杭の謂い(いい)で、この杭の上に賭け金(賞金)を置いたところから来ているという。……
見物衆の賭けの場はどこになったかというと、「蛇の道は蛇」の諺どおり、自ずと集まる処はできるもので、その目印として杭が立てられるようになる。これがBetting Postと呼ばれる杭棒である。賭けをしようとする人々は、この杭の周りに集まってきて、自分の賭け率(オッズ)を大声で呼び掛け、それに応じる相手を探すのである。……
こうした「ベッティング・ポスト」に集まって賭けが交わされる場合、参加者の数が増えてくれば、そのオッズによっていくつかのグループが分かれることが出来する。オッズによって纏まりができることを「マーケットが成立する」というが、それをはっきりさせるために柵で囲いを作るようになっていく。そうしてできた囲いをringといい、これが今日、各競馬場で設定されている観覧席の区画「リング」の始まりになった(それぞれのコースで趣向を凝らした名称をつけているが、いずれもリングを付している)。どこでも一般席はSilver Ringと呼んでいるが、これも銀貨で賭けを楽しむ中低所得者層の入る区画という意味から来ている。……
18世紀も後半になり、競馬場の整備が進むにしたがい確固としたグランド・スタンドが建設されるようになると、……競馬の賭けは出走馬のオーナー、関係者、コースのメンバーといった範囲をはるかに越え、不特定多数の人々のあいだで行われるようになってくる。……いまでは電子取引に仕事場を追われてしまったが、東京の兜町や大阪の北浜にある証券取引所には「場立ち」と称する人びとがかつていた。株の売り買いや銘柄、数量などを腕や手・指の独特な動きで遠方の相手に伝えるのが彼らの仕事だった。それとまったく同じ役割を受け持っていたのがテイクタク・マン tic-tac manである。出走馬の情報は、その馬主や調教師が握っていることはいうまでもないわけで、この人々のあいだで交わされる賭け、とりわけそのオッズはもっとも信頼性の高いものだ。これをいち早く摑んで、外にいる仲間に伝えるのが男たちの役目であった。その奇妙な仕草は、長いあいだイギリスの競馬場の風物詩ともなっていたが、ここ数年で、携帯電話などの通信機器の急速な普及で、すっかり見られなくなった。
はなしをもういちど18世紀に戻そう。レース形態の転換期まで盛んだったヒート競走は、二頭による一騎討ちという印象があるが、これは誤りで、勝者を決めるまで何回かヒートを繰り返すというのがその真意である(一騎討ちの競走はマッチ・レースである)。ということは、三頭以上の出走馬によるヒート競走もあったわけだが、そういう場合でも、賭けは一頭について、一対一の相対で行うのが通例であった。つまり、ある一頭かその他大勢かというわけだ。当時はこれをone and the field といっていた。頭数が増えても、マッチ・レース時代の感覚で賭けをしていたということだろう。だが、考えてみれば、これは今日の「単勝」と同じ謂で、ある一頭の勝者に賭けるという意味では、これこそが競馬の賭けの真実なのかもしれない。
ところが、18世紀後半になり、……出走頭数の増加が不可避になってくると、賭け金の点で折り合いのつく相手を見つけるのが難しくなってきた。出走馬の実力が伯仲する、つまり偶然性の度合いが高くなれば、尚更であった。……不特定多数の観衆が挙(こぞ)って賭けに興ずるようになったこと(もあって)、……比較的小さな集団なら、そのなかで相対の賭け相手に金額を提示したり、あるいは引き受けたりすることも可能だろうが、集団が大きくなれば、大勢のなかから相手を得るのは簡単ではない。
されど、どんな時代でも知恵者というものがいるもので、こうした時代の趨勢を機敏に察知し、才覚を発揮する人びとが現れる。Bookmekerの登場である。
ブックメーカーの創意は、考えてみればコロンブスの卵のようなことだが、当時は大胆な発想だったに違いない。つまり、出走するすべての馬に、それぞれ別のオッズをつけたのである。それまで、これだと思う馬一頭に賭け額を提示し、これを引き受ける人間と個人的に賭けを行っていたのが、すべての馬それぞれに払い戻しの倍率をつけて、それに賭けようとする人間に示したのである。
こうしてみると、ブックメーカーに「賭け屋」という日本語を当てているが、じつはこれも正確ではなく、厳密には「賭け屋の引受屋」が正しいのである(その証拠といえる話がある。街のベッティング・ショップへ行って、「今度のクリスマスに雨が降るという予想に五倍のオッズをつけ、10ポンド賭けたいが」と窓口で申し込むと、認められれば、これを引き受けてくれるのである)。
ブックメーカーは賭けを大衆のものにしたともいえよう。(以下略)
(山本雅男『競馬の文化誌』、松柏社、2005年、163-169頁)
明日は、3/26(日)高松宮記念の日の中京のレースを馬券戦術から振り返ってみます。今日もお読みいただきありがとうございました。今日も一日がんばりましょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます