国鉄時代は特急列車以外は停車しなかった1番ホーム。
1番線から見る2番ホームとキハ40停車中の3番ホーム
国鉄時代は、2番ホームが釧路方面、3番ホームが帯広札幌方面と指定されていた。
今回の投稿にはありませんが、北見方面へいく地北線は4番ホームがありしかも一番離れた場所に設置されていた。(奥に見える黒っぽい鉄柵辺り)
当時の地北線貨物列車(1991レ、1992レ)は仕分け線4番〜6番から出発してました。
連絡通路から見る光景。
国鉄時代は5階建マンションはもう1棟あり国鉄で働く職員官舎。
画面左側には、乗務員の詰所車掌区がありました。
当時自分は池田駅構内係として所属しており、真夜中に到着する貨物列車最後尾に連結していた、緩急車の清掃及び暖房用の燃料の補給作業をやってました。
夏場でも、走る緩急車のなかはとても寒く夏でも冬でも使っているようでした。
灯油は駅舎近くにあり、石炭は少し離れた場所に設置されており、灯油なのか石炭なのか分からないため両方持ち更に、ゴミ掃除するためのホーキと塵取りとゴミ袋を持ち、
仕分線の11番線か12番線まで行ってました。
その緩急車の清掃中に、乗務員が忘れたものを車掌区へ良く届けたました。
画面右側には、機関区があり後方に見えるワイン城は見えないほどの大きさでした。
2番ホームから見る下り釧路方面。
ホームが切れている先前方には構内係の詰所がありましたが無くなりました。一番見たかった場所でしたので、残念です。
帯広方面行きの列車が止まってました。
のちこの列車の撮影を千代田からやりました。
画面右下にあるホームの近くに4番ホームがありました。
写真左側にあるクリーム色の建物が、信号場。
構内係兼転轍係の自分は、貨物列車の入れ替え作業で手動のポイント転換をやり、終了後各ポイントの清掃を行うため、信号場の方との連絡としてたまに行ってました。
ほとんどは、構内にある専用電話機で可能でした。
その奥に見える踏切は、5線踏切で、構内係からのちの配属になった詰所を呼び作業場です。
駅に近いため、手動で門扉の開閉を行ってました。理由は渡った先の高台にある池田高等学校の生徒さん(数百人)が渡るために、自動にしたら駅舎内に列車が居れば遮断機は降りたままの状態になるため、
学生さんは登校時間に間に合わないための人力遮断機を設置してました。
自分と年齢の変わらない女子高校生と仲良くなったこともありましたよ!
おまけ
停車中のキハ40は千代田大橋近郊から撮影
2013/08/13撮影