『ベロニカとの記憶』
(2017年 アメリカ/イギリス映画)
監督 リテーシュ・バトラ
脚本 ニック・ペイン
原作 『The Sense of an Ending/終わりの感覚』(2011年度ブッカー賞受賞)
ジュリアン・バーンズ 著 土屋政雄 訳(新潮社)
出演 ジム・ブロートベント(トニー)/
シャーロット・ランプリング(ベロニカ)/
ハリエット・ウォルター(トニーの元妻)
https://longride.jp/veronica/
誰にだって、あまり思い出したくない過去はあるもんだ。
人と争ったこと、人を陥れたこと。
「誰かに何かをされた」イヤな事実も忘れてしまいたいことだけれど、でも知らず知らずに記憶から消していた過去の事実って、案外、自分が加害者のときのほうが多いんじゃないか。そんな気がする。
(私にも、2つばかり、そんな過去があります。判明したのが2つということで、忘れたつもりのものはもっとあるかも)
主人公のトニーは趣味が高じたカメラの店を経営しつつ、離婚した妻ともシングルマザー直前の娘とも、いい塩梅?の距離を保って自立した生活を送っている。
家は清潔に保たれ、公園でのランチの風景には心の余裕と自由な風が感じられて、孤独も適度でうらやましい晩年。
実は心許なかったり寂しいと感じる夜もあるんだろうけど、でも私にはまあまあの・・・、いやむしろ恵まれた老後に見える。
(この余裕があるからこそ、初恋の女性やその母親との思い出につながって、親友だった男の最期に思いを馳せることになるのだろう)
そんな彼に、若き日の思い出の女性ベロニカの「母親」からの遺言が告げられる。「多少の金銭と、彼の親友の日記」。「なぜ、私に?」と。
そこから、ちょっとミステリアスな母娘との思い出、親友フィンとのやりとり、そして彼の自死という形での最期が、急に姿を露わにする。
トニーの戸惑いがそのまま私たちの「?」になり、嫉妬心から投函した手紙の文面が明らかになる。
フィンはそれが原因で死を選んだわけではないけれど、思いかけず辛辣な文面を目にして、それを書いたことすら忘れていた自分に愕然とする。
冒頭にも触れたように、若き日の過ちとは、そういうものだ。
トニーがかつて心を寄せた女性ベロニカは、愛した人フィンと自分の母親との間に誕生した弟の世話をしつつ(弟は知的障害を抱えている)、長い年月を生きてきたことを知るに至る。
その事実を知ったときのトニーの驚きは想像に余りある。
そして、シャーロット・ランプリング扮するベロニカの影と自意識に守られた毅然とした振る舞いに、人生の濃さを見せつけられる。
(シャーロット・ランプリングといえば、衝撃的な『愛の嵐』までさかのぼってしまう私です)
再会から、二人の間に何かが始まるわけではない。ただ、トニーの中では変化が生じる。
過去の自分を向き合ったことで、初めて自分自身を振り返ることになる。あんな年齢になっても、「変化」が起こるんだ、という小さな驚きが私を勇気づける。
知的で優しい妻がなぜ自分との暮らしを捨てたのか・・・そんなことにも気持ちが動く。
ベロニカとの思い出、フィンとのこと、ベロニカが貫いた彼女の人生・・・それが交差して、頑固なトニーの胸の中に少しずつ新しい空気を注ぎ込む。
それにしてもだ。離婚した妻との関係、身重の娘とのつながり。
そこに柔らかで無限の包容力を感じ、それはドラマだから? 国民性? なんて無味乾燥な疑いももちつつ、それでも文句なく、ステキだなと思うワタシがいることが、なんだか愉快だった。
支離滅裂な感想で、あとで自分で読んでも、「あれ、どんな映画だっけ?」と戸惑う可能性大だ!
75回目の終戦の日。
そして、私の母の誕生日。
早朝に母の施設まで歩き、カードを郵便受けに入れてきた。
「あなたの誕生日は、年々暑くなっていく。あなたの幼いころは、もっとしのぎやすい暑さだったのでしょうね」
赤くなった西の空を見ながら、世話になっていた親戚の家族と逃げた空襲の夜を語ることはあったけれど、それよりも軍の役所に勤めていた関係で優遇されていたことを「恵まれていたのよ」と最後に付け加えるくらいで、レベルの低い証言者だと、娘の私は思っている。
けれども、ひょっとすると、私の尋ね方次第で異なる話をしてくれるかもしれない。
そんなことを今頃になって考えるなんて。
残された日々は限りなく短いだろう。次にゆっくり会えたときに、優しい気持ちで尋ねてみよう。
さっき電話で話した友人は、一人暮らしの父親を手伝えないこの夏を嘆く。そして私も久しぶりに父を思い出す。
こうして、私の8月15日は暮れようとしている。
もう少ししたら、マスクをせずに歩けるコースで汗を流してこよう。
そして、今日の私に刺激を与えてくれた一人一人に感謝。
スピッツの『オーロラになれなかった人のために』から、「田舎の生活」を久しぶりに。
良き時代の味わいのある「夏」を思い出せる幸せ。
曲の中では、「なめらかに澄んだ沢の水」も「懐かしく香る午後の風」も、ひょっとすると「根野菜の泥を洗う君」も「縁側に遊ぶ僕らの子」も、ネガの世界の幻なのかもしれないけれど、私の夏にはそれに似た光景が確かに存在していた、と思える幸福感。
この曲の作る寂しさや拠り所の危うさを感じながらも、幸福な切なさに包まれる時間をこの季節のこの楽曲で味わえる。