生誕100年 船田玉樹展
会場:広島県立美術館
会期:1月21日(月)~2月20日(水)
毎回、恒例となった県立美術館のウェブ・レポーター。今回の船田玉樹展は日本画が中心のようだが、ワタシは日本画が門外漢(別に日本画だけが門外漢じゃないが。)とあって、書けることがあるかどうか思いっきり不安なのだが、それでも参加するのだから、ずうずうしい。
船田玉樹(「ぎょくじゅ」と読む。教えてもらうまで「たまき」と読んでいた。)は呉出身の日本画家で、これだけの作品数が集められた展覧会は初めてらしい。日本画だけでなく、油彩やガラス絵といったその他の作品も多く、その作品の幅広さを見るだけでも楽しいと事前に県立美術館の担当に教えてもらい、ちょっと安心。
最初に屏風作品が2点、展示されており、迫力に圧倒される。結論から書いてしまうと、一番、見ごたえがあるのが、これらの屏風の数々。他にも多くの作品が展示されているが、表現手法にも凝った屏風画を目にすると、それらしか記憶に残らない。
この展覧会のメインビジュアルの1つ「花の夕」などは実物を目の前にすると、あざやかな赤とその異質な迫力に引き込まれそうだ。
屏風作品には「暁のレモン園」など画面が暗い作品もあるのだが、残念なことに作品保護のアクリル板が低反射ではないため、ほとんどの作品で自分が映り込んでしまう。中にはアクリル板で保護していない作品もあって、これらは見やすいのだが、作品保護と鑑賞との間で痛し痒し。
中盤に資料展示されている本人の自書「私はいかにして画家になったか。」は、どんな経緯でこの文章を書き記すことになったか分からないのだが、じっくり読んでみると、これが実に面白い。アーティストとかクリエイターの心のうちが赤裸々に語られたものは、時代や作風を問わず興味深いものだ。
事前に教えられているようにこの展覧会、前半と後半で全然、作風が違う。とても同じ作家とは思えない。(「007スカイフォール」みたい。)何でも脳梗塞によるものらしい。
後半の作品群の中でも、墨画による河童シリーズはそのユニークさと他の作品との激しい作風の差に吹き出してしまう。「泥酔」とか「月下酒宴」なんかは酒好きだと絶対、気に入るような作品。この展覧会のメインビジュアルは「紅梅(利休像)」なのだが、それがこの河童シリーズだったりしたら、きっと来館者の客層も相当異なっていたことだろう。
最後に圧巻なのは屏風作品を集めた「屏風の競演」。最後の最後で床の高さ近くに展示された作品を見て、見え方、迫力が全然、異なることに気付く。そう思って他の作品を見直すと全部、違う高さで展示されている。なかなか凝った趣向だが、背の高いワタシは中腰ともしゃがんでいるともつかない変な格好で観覧することになってしまった。できれば、全ての屏風作品を畳の間で座って見たかった。
ただ、「どのような観覧環境を設定すれば、もっとも作者の思いに近付けるか?」という問題はずっとついて回ることだと思う。
例えば、宮廷画なら、美術館内に宮廷を再現するのが望ましいのだろうが、さすがにそうはいかない。
もっと言えば、これは映画においても思うことで、ホームシアターの充実やディレクターカット版の登場の度に、「結局、どの条件が本当に映画を観ていると言えるのか?」という命題にブチあたってしまう。監督やプロデューサーが最終的にGOを出した時点の最高に整った条件もあれば、ボロい劇場で観覧環境が良くなくても上映時に観客が盛り上がるイベント状態もあるし、ホームシアターで描かれた映像や音声全てを独占して味わえる環境もあり、いまやスマホで鑑賞するという選択肢まである。
映画などは興行である以上、個人的には上映当時の世相や観客、映画館の状態も存在してこそ、「映画を観た」と言えるのではないかと思う。まあ、そうなると旧作などはタイムマシンでも無いかぎり、観たと言えなくなってしまうのだが、逆に時代とともに存在したライブ感も重要なのであって、デジタル・リマスター版が出ようと出まいと、あまり心を揺さぶられないのであった。(←映画ファンとは思えない発言)
と、やはりいつものように話が迷走してしまいました。
そうそう、同展では着物で来館すると記念品があるほか、このご時勢では珍しいくらい、かなり豪華な賞品があたる抽選にも応募できるらしい。ワタシもぜひ参加したいのだが、着物はゆかたしかもっていない。
担当者曰く「ゆかたでもOKですよ。」
いや、この寒さでは白島あたりで行き倒れます。
会場:広島県立美術館
会期:1月21日(月)~2月20日(水)
毎回、恒例となった県立美術館のウェブ・レポーター。今回の船田玉樹展は日本画が中心のようだが、ワタシは日本画が門外漢(別に日本画だけが門外漢じゃないが。)とあって、書けることがあるかどうか思いっきり不安なのだが、それでも参加するのだから、ずうずうしい。
船田玉樹(「ぎょくじゅ」と読む。教えてもらうまで「たまき」と読んでいた。)は呉出身の日本画家で、これだけの作品数が集められた展覧会は初めてらしい。日本画だけでなく、油彩やガラス絵といったその他の作品も多く、その作品の幅広さを見るだけでも楽しいと事前に県立美術館の担当に教えてもらい、ちょっと安心。
最初に屏風作品が2点、展示されており、迫力に圧倒される。結論から書いてしまうと、一番、見ごたえがあるのが、これらの屏風の数々。他にも多くの作品が展示されているが、表現手法にも凝った屏風画を目にすると、それらしか記憶に残らない。
この展覧会のメインビジュアルの1つ「花の夕」などは実物を目の前にすると、あざやかな赤とその異質な迫力に引き込まれそうだ。
屏風作品には「暁のレモン園」など画面が暗い作品もあるのだが、残念なことに作品保護のアクリル板が低反射ではないため、ほとんどの作品で自分が映り込んでしまう。中にはアクリル板で保護していない作品もあって、これらは見やすいのだが、作品保護と鑑賞との間で痛し痒し。
中盤に資料展示されている本人の自書「私はいかにして画家になったか。」は、どんな経緯でこの文章を書き記すことになったか分からないのだが、じっくり読んでみると、これが実に面白い。アーティストとかクリエイターの心のうちが赤裸々に語られたものは、時代や作風を問わず興味深いものだ。
事前に教えられているようにこの展覧会、前半と後半で全然、作風が違う。とても同じ作家とは思えない。(「007スカイフォール」みたい。)何でも脳梗塞によるものらしい。
後半の作品群の中でも、墨画による河童シリーズはそのユニークさと他の作品との激しい作風の差に吹き出してしまう。「泥酔」とか「月下酒宴」なんかは酒好きだと絶対、気に入るような作品。この展覧会のメインビジュアルは「紅梅(利休像)」なのだが、それがこの河童シリーズだったりしたら、きっと来館者の客層も相当異なっていたことだろう。
最後に圧巻なのは屏風作品を集めた「屏風の競演」。最後の最後で床の高さ近くに展示された作品を見て、見え方、迫力が全然、異なることに気付く。そう思って他の作品を見直すと全部、違う高さで展示されている。なかなか凝った趣向だが、背の高いワタシは中腰ともしゃがんでいるともつかない変な格好で観覧することになってしまった。できれば、全ての屏風作品を畳の間で座って見たかった。
ただ、「どのような観覧環境を設定すれば、もっとも作者の思いに近付けるか?」という問題はずっとついて回ることだと思う。
例えば、宮廷画なら、美術館内に宮廷を再現するのが望ましいのだろうが、さすがにそうはいかない。
もっと言えば、これは映画においても思うことで、ホームシアターの充実やディレクターカット版の登場の度に、「結局、どの条件が本当に映画を観ていると言えるのか?」という命題にブチあたってしまう。監督やプロデューサーが最終的にGOを出した時点の最高に整った条件もあれば、ボロい劇場で観覧環境が良くなくても上映時に観客が盛り上がるイベント状態もあるし、ホームシアターで描かれた映像や音声全てを独占して味わえる環境もあり、いまやスマホで鑑賞するという選択肢まである。
映画などは興行である以上、個人的には上映当時の世相や観客、映画館の状態も存在してこそ、「映画を観た」と言えるのではないかと思う。まあ、そうなると旧作などはタイムマシンでも無いかぎり、観たと言えなくなってしまうのだが、逆に時代とともに存在したライブ感も重要なのであって、デジタル・リマスター版が出ようと出まいと、あまり心を揺さぶられないのであった。(←映画ファンとは思えない発言)
と、やはりいつものように話が迷走してしまいました。
そうそう、同展では着物で来館すると記念品があるほか、このご時勢では珍しいくらい、かなり豪華な賞品があたる抽選にも応募できるらしい。ワタシもぜひ参加したいのだが、着物はゆかたしかもっていない。
担当者曰く「ゆかたでもOKですよ。」
いや、この寒さでは白島あたりで行き倒れます。
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