Green;私の心の語らい

日々学んだこと、感動したことなどを、絵、文章、写真で紹介していきます。

インド結婚式出席そして観光(4)

2012年11月02日 | 旅行
8月12日の続き

3月21日(土)
今日のデリー観光予定は半日コースで9時に出発し2時までの予定。
ホテル専属タクシー(1400Rs.)の運転手はヒゲおやじ。
5年前のバンガロールでは車は日本の中古車ばかりでスモッグもすごかった。
私の姉が4年前にデリーに来た時もスモッグとホコリがすごかったとのこと。
「マスクは絶対に持って行った方が良いよ」との忠告でマスクは一杯持ってきてあった。しかしデリーの街に日本の中古車は殆ど走っていない。
車はTATA、Hyundai、Multi SUZUKIが殆どだが、総じて日本車は少ない。
スモッグもない。
会社に戻ってから Srinivas に聞くと、「デリーでは20年以上経った車は乗れない。
バンガロールではその規則がないので未だスモッグがあるよ」とのこと。
ゴルゴーン市からデリーに入った。どこへ行っても人が一杯。
歩道ではあちこちで散髪屋が開業していた。
後で歩道を歩いた時に見たら、切った髪はそのままで掃除は全くしてなかった。
「ここは新しいお寺ですけれど見ていかれますか」「見ようか」。
本当に新築中で入場料もタダ。
それ程広くも無く写真を撮っただけ。


次にみやげ物店に入った。
キーホルダー350ルピーというのを320ルピーに値切ったまま宝石店へ移った。
ここは高く12,000Rs.の宝石を出して来た。
「2000ルピーなら」「それはだめ。それじゃ銀を見てください」
「銀は要らない」帰ろうと車に乗るとキーホルダーのおやじが
「これはどうしますか」
「要らない」
「250ルピー」
「要らない」
「じゃ200ルピー」
「買おうか」
これでも高価と思ったが、象、らくだと神様のキーホルダーを3つ購入した。
日本に戻って、サッチンにキーホルダーを見せたら「50ルピーだね」と言われた。
次に寄ったのは“クトゥブ・ミナール複合建築群
これは世界遺産に指定されており、インド最古とされるイスラム遺跡群である。
高いタワーはクトゥブ・ミナール記念塔でクトゥブディーン・アイバクが戦勝記念として1119年から建てさせ、次代アールタットミシュ王のときに完成したもの。
アイバクの後継者により拡張されたモスクが延々と続き、まるで異次元の世界に入りこんだようである。
ラール・コートの基礎はガッシリと静かなたたずまいを見せている(ガイドブックより)。
これらの建築物に朝日が当たって影が大きく伸びていた。
人は少なく静かでとても広く2人で十分な写真が撮れた。







野良犬の仔が妻の所に寄って来た。
妻が飴をあげると尻尾を振って喜んだ。
それからズット妻の後を着いて来た。
しばらくして子犬のお母さんがいた。
「孤児じゃないんだ。良かったね」
高いタワーに向かって体を曲げて写真を撮ろうとしていると「向こうから全景を撮れますよ」とアドバイスしてくれた人がいた。
成る程、広い芝生の広場の端から妻と2人で伸び伸びと十分な写真が撮れた。



この寺を出るときに小学低学年生や外人さん達がドヤドヤと入ってきた
「早く来て良かったね」
小学生は制服を着ていた。
つまり私立小学校の生徒達である。
次はデリー門へ行った。
ここは公園で中へ入ると広い芝生の広場となっていた。





たくさんの人たちが遊んでおり、小学生がピクニックに来ていた。
その中の1人の女の子が由美にニコニコと 近づいて来た。
先生らしき人がいたので「写真を撮りましょうか。
撮った写真は日本から送ります」
皆とても喜んで整列、イヤ中々整列できなかった。
君はコッチ、あなたはアチラ・・・。
何とか集合写真が撮れた。
女の先生に「日本から写真を送るから住所を書いて」と手帳に書いてもらった。
男の先生に「写真は何枚送ったらいい?」と聞くと「5枚・・・6枚」欲しい。
結局日本からは写っている人数分(20枚)の写真を送った。
別れる時に小学生達は何度も何度も手を振ってくれた。





昼食はニューデリーの「田村」へ向かったが、何と定休日であった。
この店は庭も広く豪華そうであった。
ドライバーは電話を入れて他の店を聞いていた。
途中でガンジー公園、ネール公園の前を通ったが広くて綺麗であった。
この当りはミニスターが住む地域とのことで1軒1軒の家が大きく庭がとてつもなく広い。
一般のインドとは別世界のようである。
一般地域に入るとゴミゴミとして、車がひしめいている。
あちこち回って「この当たりなのですが…」“MIYAKO”と書かれた店があった。
「ここだ」2人で階段を上がると、狭いが綺麗な店であった。
客も何人か入っていた。
店員は皆インド人である。






「コックは日本人か?」
「そうです」
「お前は日本語を話せるのか」
「話せません」
親子丼と私は野菜味噌汁、由美はスープを頼んだ。
「この味噌汁は美味い本物だ」
味噌汁は腹にしみ込んだ。
親子丼も美味しい。
米も日本の物だ。夕食用におにぎりを5個買った。
1個90ルピーと高かった。
またみやげ物店に寄った
「インド人も入る安い店だから」とドライバー。
我々が何かを買うとドライバーにも一部のお金が入るようだ。
サファイアの宝石を見せてもらった。
妻に聞くと「日本では5万円くらいする」
相手が350ドルから私が150ドルから始めて195ドルで決めたが、100ドルからスタートして150ドルに決めるべきだったかな?
「50ドルくらいどうでも良いよ」と由美。
ここでもキーホルダーの4個入り×3を400ルピーを250ルピーで購入した
ドライバーは「次の寺に行きましょうか…」と言ったが、「Yumiどうする。
もう1つ寺があるんだって」
「もう良いよ。いくつ見ても同じだから。早く帰って休もう」
「ドライバー、我々のスケジュールは3個所の見学だ。
もう3箇所行った。観光は終わりにして帰る」。
道路は場所によってはひどい混雑で
「とても日本人にはここで運転できないね」
「インド人でも女性では無理だろ」
女性ドライバーは殆ど見なかったが
「アレッ女性が運転しているよ」
「ワッすごい」車の渦の中を走ると言うよりすり抜けていた。

ホテルまでは30分以上かかった。
途中でドライバーが「ここは空軍基地です」
「この辺には Marriage garden がたくさんあります」の説明。
この時はまさか本当にMarriage garden が“庭だけ”とは思わなかった。
ホテルには15時5分に着いた。
ゆっくり休んでチョット外出してみた。
歩道は凸凹でオウムを売っていた。駄菓子屋も出店していた。
ちょっと怖くて遠くへは行けなかった。


ホテルに戻ってラビンさんと話をした
「デリーにスモッグがあるかと思ったがありませんね」
「最近は大分綺麗になりました。15年前が一番ひどかったです」。
夕食は大きなおにぎりを1個ずつ食べたが、全く美味しくなかった。
塩が付けてなく代わりに醤油が入っていた。
海苔もとっても小さいのが付いていただけ。
小さいカップヌードルを食べて夕食は終わり。
私がチョット部屋から出ている間に「竹島さんから電話があったよ」と妻。
2人の部屋を訪ねてみた。
「今日はデリー発5時半の列車に乗るはずだったけれど、列車は2時間遅れ。
おまけにタージマハルへ行ったら金曜日は開いていない。
遠くからタージマハルの写真を撮っただけだ。
あれは日本のツアー担当者のミスだ」と憤慨していた。
日本へ抗議の電話をしたようだ。
「担当者は会社には言わないでくれって言ったけど、やっぱり言わないとね。
インドへ来て世界遺産のタージマハルを見ないんじゃ話にならないもんな」
「列車にはイヤと言うほど乗ったよ。
色々な食物が出てね。
私達は全部食べましたよ。
私達は食べ物なら何でも食べられるんです」
「列車はどうでした」「ひどく汚い。外の景色を見ようとしたけれど、窓が汚くて見えない。内側を綺麗にしたら外も汚くてやっぱり見えない。車掌に頼んでデッキを開けてもらって、1つ写真を撮った。
2等車はインドの人たちと同じだった。
これが座席の写真です。ひどいでしょ」
「トイレもひどかった。トイレの写真も撮ってきたよ」と見せてくれた。
「110Vの電源がここにはあるので、デジカメの電池の充電が出来ますよ」と教えてくれた。

2月22日(日)
昨夜9時半に眠りについた。
ところが2時頃、大音響で目が醒めてしまった。
音楽はいつになっても終らない。
太鼓が鳴る度に部屋が「ビビーン」と響いた。何とすごい音楽を聞く人がいるんだ。
しかもこんな夜半に・・・。
もうじき終るかな、未だだな・・・。段々イライラして来た。
当然妻も目が覚めている。
「一体誰だろうね。迷惑なこと・・・」
3時半とうとうボーイを呼んで「このノイズは何だ」
「下がディスコなんです。ヤバイんです」
「何だって!ずっと寝られない。私の怒りをお前のマネージャに伝えろ」さんざ文句を言った結果、しばらくしたら「前の部屋に移ってください。
マネージャはお詫びとして帰りの空港までのタクシー費用1000ルピーを無料にすると言っていました」と。
帰りの空港までのタクシー費用が1000ルピーするはずはないと思ったが議論しても仕方ないので合意した。
前の部屋は普通の2人部屋で良かったが、わずかにディスコの音楽が聞こえた。
あまり興奮したので部屋を変えてもズット朝まで眠れなかった。
もう一度別な部屋に変えてくれとフロントに頼んだが中々対応しない。
妻が「もう一度催促してよ」
「何で俺ばかり動かすんだ。俺はお前のメイドじゃない」と言って寝ていたら、妻が電話で「Change room hurry」これが効いてボーイがすっ飛んできて、すぐに部屋を変えてくれた。
「何で由美の単語はあんなに効果があるんだ・・・」あまり興奮したので結局朝まで眠れなかった。
とにかくツイン・ルームに代わって落ち着いた。
既に時間は8時になっていた。
何となくアグラ行きの汽車のチケットを見ていると、帰りの時間が日本で16:30と予約したはずなのだがチケットは20:30」となっていた。
「20:30アグラ発ではホテルに帰るのが深夜の1時頃になってしまうよ」
すぐにホテルのフロントに相談に行った。
話が分からないので日本語の通じるインド人フロントマン(ラビン氏)の家に電話をして事情を話した。
ラビン氏がフロントに電話で話しをし、その後の調査結果として鉄道からの返事は「これは日本側の間違いである」これではお話しにならない。
部屋に戻るとサッチンから電話が入った。
最初は妻が電話で話して私に代わった。
「Greenさんお元気ですか。Greenさんに会いたいです。」良いタイミングであった。
「We have many troubles. Help me !」サッチンは30分くらいで妹さんと一緒に来た。
妹さんは予想していたよりもとても品の良いお嬢さんであり、妻にパンジャブ・ドレスを持って来てくれた。
ブルーで綺麗に出来ている。
最近のインド女性はサリーを殆ど着ない。
より簡単で動きやすいパンジャブ・ドレスを着ている。
妻も日本から持ってきたお土産を妹さんに渡した。
どちらも嬉しそうであった。
この4年後に妹さんが結婚した時の写真では彼女はデップリと太って、この時の清楚なイメージは全く無くなっていた。




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