とめどなく囁く<410>
2018/9/26 朝刊
しかし、あなたには恥ずかしくて告白できなかった。私は弱く、惨めな男だったのです。
皆と釣りに行くと嘘を吐いて、朋香の家に行き、朋香と過ごす。あなたの待つ家に戻って、釣果について嘘を吐く。
そのうち、私は疲弊してきました。父とまったく同じことをしている自分に気付いたからです。しかも、父の愛人だった女性です。
私が疲弊すると、あなたとの喧嘩が絶えなくなりました。まるで、私の父と母とそっくりな喧嘩が。
私が35歳の時、朋香から、妊娠を告げられました。彼女はすでに47歳。最後のチャンスだから産みたい、と言うのです。
実は、朋香はすでに2回も堕胎していましたから、産むなとは言えませんでした。
あなたには、子供は持たないと宣言した癖に、です。私は本当に身勝手でした。
朋香に子供が生れたとき、私は新しい命の誕生に大きな感動を覚えました。グロテスクで醜い関係だと思っていたのに、豊かで新しい展開が始まったと思ったのです。
私はこれまでの生活をすべて棄て去り、別の人間として生きるのはどうかと思いました。
あなたと別れ、両親と別れ、大学の仕事を棄て、これまでの自分を綺麗さっぱり廃棄してしまって、世捨て人になること。これまで長い間、私に寄り添ってくれた朋香と暮らすためでした。
仲の良かった佐藤幹太に相談すると、できないことはないという返事に、決心が固まりました。
加野庸介はある日をもっていなくなり、誰も知らない人となってひっそりと生きる。(略)
私と幹太は、天候を調べて、なるべく海上の視界が悪そうで凪いだ日を選び、2艘の船でそれぞれの港を出ることにしました。(略)
朋香と息子と住んでいたのは、幹太の故郷である愛知県のS市です。そこでは期間工として、自動車工場や部品工場で働きました。息子の成長だけが楽しみでした。
とめどなく囁く<411>
2018/9/27 朝刊
しかし、そんな生活も、次第に壊れていくのは、どうしてでしょうか。
戸籍のない私は、息子を認知できません。私たちは家族ですが、世間からは、家族として認められない。世捨て人になろうと思ったのに、家族がいるとそれは赦されないのです。
弱い私は、酒を飲み始めました。飲むと、暴れることもありました。そして、あなたを恋しく思うこともありました。
いえ、本当です。あなたとの正しい暮らし(こんな言い方ですみません)が懐かしかった。大学で学生に教え、本を読み、翻訳し、あなたと意見を交わす。そんな暮らしを続けていればよかったと思うことも多くなったのです。
朋香は、当然のことながら、そんな私に愛想を尽かしました。朋香は、ブラジルから来た工員と仲良くなり、私の息子を連れてブラジルに行くことになりました。それで、去年の夏に別れたのです。それからは、一人で寂しい暮らしをしていました。
あなたのご主人に頂いた二百万の金は、息子のために遣ってほしいと朋香に送金しました。すみません。ありがとうございます。
これが私の物語のすべてです。
幹太が亡くなったことは大変残念です。
彼は私の逃走を助けた後、釣り船を貸してくれた船宿の娘と結婚しました。彼女は詳しい事情は知りませんが、幹太が何か法律を犯したのでは、と疑っていたようです。
幹太の命を縮めたのは、間違いなく私のせいです。無理を通せば、何かが壊れるのだということを知りました。もう遅いですが。
最後になりましたが、あなたには本当に申し訳ないことをしました。
赦してくださいとは云いません。
どうぞ、赦さないでください。
その方が気が楽です。
私はこれから命を絶つつもりで、最後にあなたの声を聞こうと思い、電話をかけました。そしたらあなたは、私に「死んじゃってください」と仰った。それこそが、弱い私への餞(はなむけ)の言葉だと思います。
ありがとうございました。いつまでもお幸せに暮らしてください。
私たちの名前を書くのも久しぶりで、最後ですね。旧姓ですみません。そして、こんな目に遭わせてすみません。では、さようなら。 加野庸介
笹田早樹様
とめどなく囁く<412>
2018/9/28 朝刊
「笹田早樹様」という宛名と、「加野庸介」という署名だけは自筆だった。
加野早樹でも、塩崎早樹でもなく、旧姓で書かれた宛名と、「加野庸介」という自分の名前。
死を偽装した後は、違う名前を名乗っていただろうに、2人が知り合った頃のそれぞれの名を署名したところに、過去に回帰する庸介の甘えが表われているような気がした。
遭難の前の晩、庸介は普段通りで替わらず、釣を楽しみにしている様子だった。そして、翌朝、早樹と些細な口喧嘩までしたではないか。
こうした裏切りと偽りの果てに、今は悔いていると言う男は、本当に死ぬ気でいるのだろうか。
早樹は相模湾を眺めながら、これまでのことをとりとめもなく、検証し続けていた。(中略)
偽装に加担した幹太は、そのせいでアルコール依存になったか。
新城の梁で会った幼女の証言は、本当だったのか。だとしたら、あの時の絶望感は、自分の中でどう形を変えたのか。
こんな手紙で、自分は庸介を赦すのか。
いや、赦せない。早樹は海に向かって大きく首を振った。(略)
とめどなく囁く<413>
2018/9/29 朝刊
(前段略)
受け取った早樹は、庸介からの手紙を石組みの上に置いて火を点けた。
「あれあれ」真矢が驚いたように叫んだ。
「燃やしちゃっていいの?」
いったん消えかかった火は、乾燥した空気のせいで、急にめらめらと燃え上がった。
焔は、あっという間に数枚の紙片を燃やし尽くした。石の上に、紙の形に黒い灰が残り、印字された文字がまだ浮き上がっている。
だが、一陣の風が吹いて、黒い灰を辺りに撒き散らした。早樹は、石組みの上に残っている灰を、さらに口で吹いた。そのまま相模湾に飛んで行け、と念じながら。
とめどなく囁く<414>
2018/9/30 朝刊
燃え殻の灰は、周囲に四散した。「あ~あ、石が黒くなったじゃん」
真矢が石組みに残った痕を指し示す。
「いいよ。記念だから」
早樹は焼け痕を指で触りながら言う。
「何の記念?」
真矢が問い返した。
「青春の記念かな」
「よく言うよ。私たち、もう四十過ぎじゃん」
真矢が笑った。
「そう、お婆さんになる節目の記念」
「私もそうだよ」
真矢が急に真剣な顔で同意したが、真矢の気持はわからなかった。自分の思いも、誰にも伝わらないだろう。他人に伝わらない思いをひとつ抱えるだけで、老人になった気がするのだった。
ダウンジャケットのポケットに入れたスマホが鳴りだした。早樹は驚いて取り出し、発信元をこわごわ見た。「公衆電話」からではあるまいか、と未だに怯えていた。
だが、克典からだった。
「もしもし、早樹、どこにいるの? もう出掛けたのかい?」
暢気な口調で、克典が問う。
「お庭にいるのよ。真矢さんも一緒」
「何だ、家にいないから、一人でさっさと蕎麦屋にでも行ったのかと思って焦った」(略)
ほどなく、窓から二人に手を振る克典の姿が見えた。遠目で見ると、白髪の老人だ。
「真矢さん、手を振ってあげたら」
「いいよ」と、真矢は横を向いて、また煙草に火を点けた。「さっきのあれだけど、燃やしちゃってよかったの?」
「いいのよ」
しかし、早樹は克典からの電話が来たときの動揺を覚えていた。怯えつつも、何かを期待していた自分の心の正体は何か。
早樹は、スマホの着信履歴にまだ残っている「公衆電話」の文字を見直した。
『赦してくださいとは云いません。どうぞ、赦さないでください』
庸介は、自分に向かって、同じ言葉を一生言い続けるつもりなのではあるまいか。そして、自分は「赦さない」と答え続ける。
まさか、まさか。早樹は白い波の立つ相模湾に目を転じて、否定し続けた。石組みの中で眠る蛇は、自分の怯えを知っているだろうかと思いながら。 (終わり)
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〈来栖の独白 2018.9.30 Sun〉
庸介の失踪(最後になって、海での「遭難」ではなく、失踪と判明した)が核となった本連載小説。
ミステリーを好まない私には、付き合えない小説だった。が、1日の始まりとして、パンとコーヒーとサラダの食事をしながら新聞を読むことが楽しい日課である私は、毎日読んだ。「庸介は死んではいないな」と感付いた(?)のは、いつだったろう。最後まで読んだいま、巧く作ってある、と感じる。
そして、<414>
>自分の思いも、誰にも伝わらないだろう。他人に伝わらない思いをひとつ抱えるだけで、老人になった気がするのだった。
は、正に言い得て妙。「他人に伝わらない思い」が増えてゆく、私の昨今。
まぁ、これで良いのだろう。長い歳月、沢山の足跡を後ろに残しながら生きる。人は誰しも、固有の思いを抱いて生きる。
日々、読みたいものを読み、聖歌(ピアノ)を弾き、古楽を聴く。10月20日は能楽堂、定例。お城の障壁画も見て来よう。
窓を開ければ佳い香り。金木犀が咲いている。秋明菊・アメジストセイジ・・・も。神に感謝の日々。
10月1日からは、中村文則さんの連載が始まる。
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* 「とめどなく囁く」本物のお別れを告げると同時に、これまで私が何をしてきたか、書き残しておこうと思います。2018/9/20
* 『とめどなく囁く』に見る “人の心の卑しさ” 2018.9.16
* 『とめどなく囁く』<394> 「すみませんでした」途端に、早樹の全身にぶつぶつと大きな鳥肌が立った。間違いなく、庸介の声だった。 2018.9.9
* 『とめどなく囁く』<309> …ネットというツールに倫理は 2018.6.16
* 日々、感謝 食事と共に新聞小説『とめどなく囁く』2018.5.1 ネットというツールに人類の倫理は・・・
* 私の実質人生は終わっている。 夕刊は「緋の河」を読む。 〈来栖の独白 2018.9.5〉
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* 朝刊小説「逃亡者」 連載を前に 中村文則さん 2018/9/21
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