超有能な彼らはなぜ麻原彰晃の元に集まったのか? <教団エリートの「罪と罰」(1)>遠藤誠一 井上嘉浩

2018-07-20 | オウム真理教事件

超有能な彼らはなぜ麻原彰晃の元に集まったのか? <教団エリートの「罪と罰」(1)>
2018.7.6 18:33 週刊朝日#オウム真理教
 医師、弁護士、科学者……「宗教国家」を夢想した麻原彰晃の下には、高学歴で才能あふれるエリートが集まっていた。6日に死刑が執行された、「麻原四女の“許嫁”」遠藤誠一死刑囚と、「側近中の側近」と呼ばれた井上嘉浩死刑囚。地下鉄サリン事件から17年となった2012年。最後の特別手配犯3人の逃亡生活にピリオドが打たれた年に発売された『週刊朝日 緊急臨時増刊「オウム全記録」』では、オウム真理教を徹底取材。麻原の操り人形として破滅へと堕ちていった彼らの、封印されたプロファイルをひもとく――。
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■細菌兵器研究した 麻原四女の“許嫁”

  
<遠藤誠一(えんどう・せいいち)>
(1)生年月日:1960年6月5日
(2)最終学歴:京大大学院医学研究科博士課程中退
(3)ホーリーネーム:ジーヴァカ
(4)役職:第1厚生省大臣
(5)地下鉄サリン事件前の階級(ステージ):正悟師
 ボツリヌス菌や炭疽菌など細菌兵器を研究し、サリンの製造でも中心的役割を果たした。麻原の四女の“許嫁”としても知られる。
 北海道出身で、学生時代はおしなべて「まじめ」「いい人」といった評判だった。獣医を志し、帯広畜産大学獣医学科に入学。しかし、徐々に遺伝子工学やウイルスの研究に傾倒していき、進学した京大大学院では、エイズウイルスの遺伝子解析などを行った。
 この頃に麻原の著書を読んで興味を持ち、1987年3月に入信する。麻原のDNAを研究するように言われ、実験室も与えられた。
 麻原は自分の血液を採取させ、リンパ球の培養とDNAの増殖に成功すると、「京都大学医学部で検査した結果、DNAに秘密があることが判明し、これを飲むことは効果がある」
 などと教団が出版する書籍に掲載させた。
 教団内の「世界記録達成部」でコーチも務めていた。この部は「大きなマラソン大会でオウム真理教のユニホームを着てトップを走り続ければ、2時間以上にわたってテレビに映る」という宣伝効果を狙って結成され、菊地直子容疑者も在籍していた。
 当時の部員によれば、コーチとしても上司としても「とても怖くて厳しい人」だったが、部員と2人きりの場面では「なのよ~」「だわ」と女性言葉を使っていたという。この部員は、東京国際女子マラソンにも出場したが途中棄権。遠藤は、「尊師から頼まれた仕事で初めての失敗だ。悔しい」
 と落ち込んでいたという。
 一方、“許嫁”だった四女は、遠藤を「とても子どもっぽい人だった」と振り返っている。一緒にトランプをすると、勝つまでやめないところがあったという。
 第2厚生省の大臣だった土谷正実死刑囚とはライバル関係にあり、麻原への帰依を競うように化学兵器や薬物を次々と生み出していった。遺伝子工学を専攻していた遠藤は細菌兵器の研究に力を入れ、土谷はサリン、VXなどの化学兵器を研究対象にしていた。
 競わせることが教団の利益になると思ったのか、麻原はそれぞれの研究棟を隣接して建設。先を急がせるように、成果を求めた。
 地下鉄サリン事件後は、逃走資金を受け取って九州地方に逃走。温泉地などで豪華な宴会を繰り広げていたというが、山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)の教団施設に戻り、95年4月26日、秘密地下室に潜んでいたところを逮捕された。「ライバル」の土谷と一緒だった。
 裁判当初は、「包み隠さず、すべてをあらわにしたい」と語っていたが、ほかの被告が都合の悪い証言をすると「作り話だ」などと言い立て、「サリンで人は死なないと思っていた」などと自己弁護に終始した。
 拘置所から四女に送った手紙には、こう綴っている。「あなたを守ってあげられるのは尊師と私しかいません(中略)。今生の今後も、そして来世も、私をずっと愛し続けてください」
 判決は一、二審ともに死刑で、2011年11月に上告が棄却された。

■裏を仕切った「側近中の側近」

  
<井上嘉浩(いのうえ・よしひろ)>
(1)生年月日:1969年12月28日
(2)最終学歴:日本文化大中退
(3)ホーリーネーム:アーナンダ
(4)役職:謀報省大臣
(5)地下鉄サリン事件前の階級(ステージ):正悟師
 16歳で入信すると、すぐに麻原に目をかけられ、「新通並びなき者」「超能力者」と評された。地下鉄サリン事件当時は弱冠25歳にして諜報省の大臣。麻原に寵愛された「側近中の側近」だった。
 中学まではサッカー好きの活発な少年で、高校は京都市内の進学校へ進んだ。両親の期待は大きかったが、同級生も親も気づかないうちにオウム真理教に出会い、高校2年のときに入信した。
「先祖の因縁があって、おれは絶対がんになる。因縁を断ち切らなあかん」
 同級生にはそう語っていたという。学校でも授業中は座禅を組み、休み時間には瞑想していた。仙人に関する本や『ノストラダムスの大予言』をむさぼるように読み、「仙人」とあだ名されたという。
 高校3年のとき、教団機関誌に井上の「空中浮揚」の写真が掲載された。友人はいぶかって、
「ウソちゃうか。本当に浮いたんか」
 とただしたが、井上は「ほんまや」と答えて笑った。
 両親の説得に加え、麻原が「大学に行きなさい」と諭したことで、いったんは大学に進学したが、半年もたたずに退学して出家した。当初は心配していた母も、後に入信している。
 修行熱心で知られ、息をとめて水中に潜る「水中クンバカ」や、一度に十数リットルの水を飲んでは吐くといって、修行の中でも肉体的苦痛の大きな荒行を積極的にこなした。教団の宣伝用のビラをまく枚数もケタ外れに多く、熱心な修行や活動ぶりは、信徒の間で語り草になっていたという。後の裁判では、自負してこう語っている。
「自分のことを言うのはなんだが、それなりに能力が高かった。それ(信徒獲得やお布施)に関連する、その側面で麻原に重宝されていた。(成績は)ダントツに並ぶ一つです」
 その一方で、オウムの教義では「破戒」(戒律を破ること)になる女性との関係は派手だったようだ。50人ほどの女性信徒が、他の幹部に井上との関係について相談していたといわれる。麻原は、そうした状況を事実上黙認していた。
 1994年に「省庁制」が導入されると、諜報省の大臣に任命され、教団の非合法活動を裏から取り仕切った。VX殺人事件や元信徒の落田耕太郎さん殺害事件、仮谷さん逮捕監禁致死事件などに深くかかわり、地下鉄サリン事件では実行犯チームの現場指揮を担った。「裏の仕事」を積極的にこなした背景には、麻原への絶対的な忠誠心のほか、高学歴の株が多い中で自身は大学中退というコンプレックスを埋める意味合いもあったようだ。裁判ではこう話している。
「(教団内の高学歴エリートに対して)屈折した心が現場にいてあった」
 第一審では無期懲役だったが、第二審で死刑判決が下された。一審では、地下鉄サリン事件での井上の立場は「後方支援にとどまる」とされていたのに対し、二審では「総合調整役」と認められたためだ。
 2009年12月に上告が棄却され、死刑が確定した。一審で無期懲役になりながら、二審で死刑となった唯一の教団幹部だった。
「オウム真理教家族の会」の永岡弘行会長は、井上が関与したVX事件で瀕死の重傷を負い、いまも後遺症が残る。しかし、それでも判決後、「死刑は残念」と言い、こう語った。
「明るく笑う青年がなぜ、償えないような大罪を犯してしまったのか。それが悔しくてたまらない」
 一審判決が出たときは、泣きじゃくりながら聞いていた。入信した16歳のときに成長がとまったような、子どもの側面が垣間見える人間だった。
  ※週刊朝日 臨時増刊『オウム全記録』(2012年7月15日号)
 
 ◎上記事は[dot. ]からの転載・引用です
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