久田恵著『母のいる場所』とヨハネ黙示録

2006-10-20 | 日録
 カトリック名古屋正平委のときの友人、Kさんと電話で話。(正平委をKさんは何年も前に辞め、私は名前だけ置いている状態)
 Kさんの妹さんである久田恵さんの書かれた『母のいる場所』をKさんから寄贈され、感動のうちに繰り返し読んでいる。ここで私の目をひくのは、Kさん・久田さん姉妹のお母上である。すぐれた短歌を詠まれ、趣味教養豊かで、感性鋭く、誇り高いお母様が、病に倒れ、失語症となって、介護を得なければ自分で排泄すら出来なくなられたことだ。美しく表現することを生涯の課題となさった方が、ものさえ言えなくなった。人一倍気位高い女性が、病院で、老人ホームで、己が体を家族や他人に晒さねばならない。この苦痛は想像に絶する。そんなことを、Kさんと話した。苦痛を最大限甘受した果てに、諦めがあったのだろう。生きることは、壮絶な苦痛を甘受することだ。
 私に明確に照らし出されるものがあった。ヨハネの黙示録7,14~である。
 「この白い衣を着た者たちは、だれか・・・・」「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。・・・彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。・・・神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」
 Kさんのお母様の悲しみと苦しみが、いま私をしっかりと受け止め、救ってくれている。人の苦しみを救うのは、(聖書の勉強会などで学ぶ)言葉ではない。人の経た苦しみである。Kさんのお母様の経られた想像に絶する苦しみが、今私を救い、私に立ち上がる力をくれている。私のような者にも、人並みの悲しみがある。釈迦の弟子ウッパラヴァンナーは、彼女の経た苦悩のゆえに、多くの悩める女性の心を救済した。彼女に苦悩を聞いてもらうだけで、いや、彼女の涙を思うだけで、多くの女性が、心救われていったのである。
 15日朝聴いたベートーベンも、そうだった。あのアダージオに私は暫し安らいだのだ。
 電話の終わりのほうで、「Kさん、私ね、人の一生って、寂しさ、人恋しさとの闘いだろうと思っていた。だけど、どうも違うようだと最近思うようになった。このごろは、さっぱり、人が恋しくもないし、寂しくもない。一人がいいね。枯葉が人知れず地に落ちて、放って置かれて、やがてそれが形を成さなくなって・・・。そのように独り死ねるといいと思う」と私が言うと、Kさんも「そうね。私も執着がなくなった」と。
『久田美知歌集』より
 去来する思いに閉づるまなうらの吾の無明に雪降り止まず
 ひそやかに老年は来よとろとろと金柑きんの色に煮つめて
 凍ててなほ山茶花紅し迷ふてもロトの妻にはなるなかれ娘よ
 それぞれの小さき城をまもりいて家族といへる言葉寥しも
 関節の響(な)る音さみし六十年生きて背負えるしがらみの量

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