神戸連続児童殺傷事から20年 元少年A「手記の印税で賠償」を遺族拒否 (MBS NEWS 2017/3/30 )

2017-04-01 | 神戸 連続児童殺傷事件 酒鬼薔薇聖斗

元少年A「手記の印税で賠償」を遺族拒否
 MBS 更新:2017/03/30 20:06
 世間を震撼させた神戸の児童連続殺傷事件から今年で20年になります。おととし事件について手記を出版した加害男性が、この手記の印税収入を賠償に充てると申し出て、遺族がこの申し出を断っていたことがわかりました。
 明石海峡を見下ろす小高い丘。見晴らしのいいこの場所に男の子は眠っています。土師淳くん(当時11)。乗り物や亀が大好きな男の子でした。今月26日、遺族の土師守さんは淳くんの供養のため、この場所を訪れました。
 「毎週ではないが、月に3回くらいは来ている。20年は一言で言うと長いように思うが過ぎされば早かった」(土師守さん)
 今から20年前の5月。神戸市須磨区の中学校の正門で淳くんの遺体の一部が見つかりました。その後、地元の新聞社に「酒鬼薔薇聖斗」と記された犯行声明文が届きます。
 周囲が騒然とする中、逮捕されたのは当時14歳の中学3年生「少年A」でした。「反社会的人格」そして「性的サディズム」。様々な心の闇を抱えていた少年は少年院で矯正教育を受け、2005年に社会復帰しますが、おととし、残忍な犯行に至った自らの精神状況や社会復帰後の生活を記した手記を出版します。
 「自分と同じ“人間”を壊してみたい、その時にどんな感触がするのか、この手で確かめたいという思いにとらわれ、寝ても覚めても、もうその事しか考えられなくなった」
 この手記の出版に遺族の土師守さんは強く反発しました。
 「重大な事件を犯した加害者が、自ら犯した事件を題材にした手記を出版するのは許されることではない。精神に対する“傷害罪”だと私自身は思っている」(土師守さん)
 このような遺族の反発にもかかわらず、手記出版の翌年、加害男性から賠償の申し出が土師さんのもとに届いたといいます。
 「金銭であがなうことはできないが、精いっぱいの埋め合わせをしたいと。出版した手記の印税の一部だと」(土師守さん)
 Q.被害者遺族としてどう思ったか?
 「そんなお金をもらうわけにはいかない」
 加害男性側からの申し出は、事件の被害者3人に対し1000万円に届かない程の額を賠償するという内容でした。その原資は「著作による印税収入」で「今の時点でできる精一杯の埋め合わせ」だと記されていたということです。
 「自分できちんと働いて稼いだお金で支払うなら受け取りますし、それではない今回は受け取ることはできない」(土師守さん)
 贖罪にそぐわないと、手記の印税による「賠償金」の受け取りを拒否した土師さん。一方、加害男性の両親の代理人は手記出版の経緯などについて、こう振り返ります。
 Q.印税を賠償に充てるつもりは?
 「あったと思います。(出版)直後に私の方にも出版社からも電話があったし、彼自身の中にあったのは間違いない」(羽柴修弁護士)
 事件から20年にあたり今月、加害男性の両親から届いたコメントでは手記出版について謝罪していました。
 「被害者、ご遺族の方々には大変申し訳なく思っています。出版に至るまでの順序が間違っているように思いました」
 「まずは(被害者遺族から)了解をとる努力をするべきだったがそれを無視し、結果的に彼は印税が欲しくて出版したと思われる。印税を被害弁償に充てるのも筋違いの話だろうし、そういう意味で順序が間違っている」(羽柴修弁護士)
 いま、加害男性はどこでどのように生活しているのか…
 Q.加害男性は両親に連絡を?
 「一方的な連絡だと思うが何回か…。とにかく(加害男性と)会って、何でこのようになったのか、事件そのものもそうだし手記の出版へのいきさつについても直接聞かねばならない。是非したいと思っています」(羽柴修弁護士)
 事件から20年。遺族への「賠償」そして「贖罪」はどうあるべきなのか…新たな課題として浮上しています。

 ◎上記事は[MBS NEWS]からの転載・引用です
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『絶歌』元少年A著 2015年6月 初版発行 太田出版 (神戸連続児童殺傷事件 酒鬼薔薇聖斗)
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〈来栖の独白 2015/06 〉
 先般(2015/5/17)亡くなった直木賞作家、車谷長吉(くるまたに ちょうきつ)氏は、『鹽壺の匙』の〈あとがき〉で、次のように云う。

 詩や小説を書くことは救済の装置であると同時に、一つの悪である。ことにも私(わたくし)小説を鬻(ひさ)ぐことは、いわば女が春を鬻ぐに似たことであって、私はこの二十年余の間、ここに録した文章を書きながら、心にあるむごさを感じつづけて来た。併しにも拘わらず書きつづけて来たのは、書くことが私にはただ一つの救いであったからである。凡て生前の遺稿として書いた。書くことはまた一つの狂気である。(略)
 私は文章を書くことによって、何人かの掛け替えのない知己を得た。それは天の恵みと言ってもいいような出来事だった。

 『絶歌』の著者、元少年Aは、〈被害者のご家族の皆様へ〉に次のように綴る。

 この十一年、沈黙が僕の言葉であり、虚像が僕の実体でした。僕はひたすら声を押しころし生きてきました。(略)でも僕は、とうとうそれに耐えられなくなってしまいました。自分の言葉で、自分の想いを語りたい。自分の生の軌跡を形にして遺したい。朝から晩まで、何をしている時でも、もうそれしか考えられなくなりました。そうしないことには、精神が崩壊しそうでした。自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの「生きる道」でした。僕にはこの本を書く以外に、もう自分の生を掴み取る手段がありませんでした。

 私事だが、私も勝田清孝が手記を出版したことで、彼の心に触れる切っ掛けを得た。犯罪者ではあるが、彼の人間性に触れることができた。「死刑囚が手記出版など、けしからん」と世の非難が集中するが、勝田は自らを問い詰め「真人間」として生きるために、孤独に文字に向かい、書きつけた。そうしないでは、僅かの日々を生きられなかった。
 被害者遺族にとってみれば、「悪」であるのだろう。
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