
渡辺和子 挫折のない人生はない
PHP Biz Online 2015年10月23日 公開
渡辺和子(ノートルダム清心学園理事長)《『幸せはあなたの心が決める』より》
■求めたものが与えられなくても 挫折のすすめ
毎年4月に入学してくる学生たちの中には、この大学を第一志望としていなかった人も何人か必ずいて、私は「仕方なく入って来た」とわかる学生たちの顔を見ながら考えます。
人生は、いつもいつも第一志望ばかり叶えられるものではありません。そして必ずしも、第一志望の道を歩むことだけが、自分にとって最良と言えないことだってあるのです。
これは、私自身が今まで何回か、第二志望を余儀なくされて思うことです。
まず、小学校。どういうものか私は、幼稚園に行かせてもらえず、お手伝いさんによって育てられました。多分、当時4、5年の間に、北海道-東京-台湾-東京とめまぐるしく変わった父の転勤のためだったのかも知れません。
かくて、学習院の小学部を受験した私は、幼稚園に通っていたなら、きっと答えられたようなことが答えられず、見事に不合格となりました。
人生で味わった最初の挫折です。そして成蹊小学校に入学。
雙葉高等女学校を無事卒業して、当時女性に開かれていた唯一の高等教育の場である専門学校を受ける段となりました。
私立の学校ばかり歩いて来た私は、国立に憧れてお茶の水女子大学を受け、見事、不合格。補欠の2番ですと言われ、プライドをいたく傷つけられたまま、聖心女子専門学校(現・聖心女子大学)に入学したのです。
そして、挫折のきわめつきは、修道会入会。これは、永年想っていた恋人にふられたようなものでした。
他にもいくつかの修道会とかかわっていながら、私の心はいつも女学校時代を過ごした雙葉にあって、修道会に入るならサンモール会(雙葉を経営する修道会、現・幼きイエス会)と決めていたし、そのためにフランス語も習い、フランスに旅した時は、修道会の母院に1カ月半も滞在させてもらったほどの思い入れようでした。
修道会の方でも、家庭の事情で入会の遅れている私を気長に待っていてくださると、自分では考えていたからです。
ところが、世の中、何か起こるかわからないものです。いよいよ時節到来、修道院に入る自由が与えられた時に、それまで、私の家庭事情も理解し、かわいがってくださっていたフランス人管区長の任期が終わり、日本人のシスターが管区長におなりになりました。一面識もない方です。
そして私は、その方に、見事に入会を断られてしまったのです。かくて、洗礼を雙葉のチャペルで受けてから11年間、想いに想っていた「恋人」から捨てられたのでした。
お断りになる側にはそれなりの理由があって、その当時、29歳といえば、入会のギリギリの年齢であり、それも、慎ましやかな生活を送っていた者ならともかく、修道生活を希望する真意を疑われても仕方がないような派手な生活をしていたこともありました。
「あなたより早く修道院に入っている、ずっと年若い人の命令に従うことができますか。どんなことにも従えますか。たとえば、ほうきで掃いた後、ハタキをかけなさいと言われて、それができますか」と尋ねられ、「修道院に入ろうと望む人なら、口紅などつけていないはずです。ピンクや赤のセーターは派手すぎます」と言われて、とても悲しかったことを今も覚えています。
それは私にとって、さほどたいせつなことと思えなかったからです。
私も、好きで修道会入りを延期していたのではなく、1つには、すでに年老いて、苦労の多い一生を過ごしてきた母の傍にできるだけ長くいてやりたかったことと、1つには、生意気なようですが、終戦後、医学部に入学した兄の卒業と結婚式を無事に済ませてから、自分の心に決めた道へ行かせてもらおうという気持ちがあったためです。
それだけに、初対面で「年を取りすぎています」と言われ、難色を示された時はショックでした。
「ああ、結構です。それならそれで、別のところを探します」
生来勝気な私は、頭を下げてまで入れてもらおうと思わず、11年にわたる「恋」に潔く終止符を打って、ある人のすすめで、まったく見も知らないノートルダム修道女会の門を叩いたのです。
第一志望ばかりが自分にとって最良とは限らない。
挫折したからこそ出会えるものがある。
挫折は自分をきたえ、きっと成長させてくれる。
■失ったものではなく得たものに目を向けて生きよう
1つひとつの挫折をふり返り、私は学習院でなくて成蹊でよかった、お茶の水でなくて聖心でよかった、サンモールでなくてノートルダムに入れていただいてありがたかった、と負け惜しみでなく、しみじみ思います。
ある時、学生たちに「人間というものは、失ったものに目を向けず、得たものに目を向けて生きないとダメ」と話した時、学生の1人が「シスター、今日の話は、すごく真に迫っていた」と言いましたが、それもそのはずなのです。
もちろん、第一志望が叶えられたら、おめでたいことだし、良いことです。しかしながら、挫折を経験することは人生にとっては非常にたいせつなことであって、その時にはそれなりに、しっかり苦しんだらいい。ただ、それに打ちのめされることなく、それだけが自分を生かす唯一の道ではないのかも知れないと考えるゆとりがほしいものです。
所詮、人間が見通せることには限りがあって、長い目で見ると、案外、物事は異なる評価を持つものですから。
「神の思いは、人の思いにあらず」という聖書の言葉が、本当にそうだと思えるようになるためには、いくつかの挫折を経験し、そこから、自分の「思い」の浅はかさに気づくことが、どうしても必要なようです。
謙虚さ(Humility)は、はずかしめ(Humiliation)を受けずには得られないと習ったことがありますが、そういうことなのかも知れません。
挫折のない人生はない。 挫折は自分を考え直すチャンスなのだ。
人間が見通せることには限りがある。長い目で見ると、挫折したおかげで、と思えることも少なくない。
<筆者プロフィール>
渡辺和子(わたなべ・かずこ)ノートルダム清心学園理事長
1927年、教育総監・渡辺錠太郎の次女として旭川に生まれる。1951年、聖心女子大学を経て1954年、上智大学大学院修了。1956年、ノートルダム修道会に入り、アメリカに派遣されて、ボストン・カレッジ大学院に学ぶ。1974年、岡山県文化賞(文化功労)、1979年、山陽新聞賞(教育功労)、岡山県社会福祉協議会より済世賞、1986年、ソロプチミスト日本財団より千嘉代子賞、1989年、三木記念賞受賞。ノートルダム清心女子大学(岡山)教授を経て1990年3月まで同大学学長。現在、ノートルダム清心学園理事長。
著書に『美しい人に』『愛をこめて生きる』F愛することは許されること』『マザー・テレサ愛と祈りのことば〈翻訳〉』『目に見えないけれど大切なもの」(以上、PHP研究所)『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎)など多数。
◎上記事は[PHP Biz Online]からの転載・引用です
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〈来栖の独白 2015.10.24 夜 〉
さっきまで私は、弊ホームページ『勝田清孝と来栖宥子の世界』を閉じるための作業をしていた。残しておきたい記事はブログの方へ、少しだが移した。・・・ブログだって、「水面に浮かぶうたかた(泡沫)」で、いつ消えるとも知れないものだが。・・・「ヤフーカテゴリー」や「FC2」へは、登録の解除を申し出た。気分的に重く、疲労感が強い。
そんなとき、上記事に出会った。本の表紙の明るさにホッとさせられた。振り返れば、Sr.渡邉さんだけではなく、何人ものシスターから良いことに気付かされたり、力を戴き、励まされてきた私。また、まるで荒唐無稽を云っているような旧約聖書にも、私は日々元気を与えられている。旧約聖書同様、ヴァチカンや教皇フランシスコの在り方には、大いに疑問を感じざるを得ない私だが、それでも聖書やカトリックの人から力を貰っている。私も思う。立教大学に入れて戴いてよかった。カトリックで洗礼を受けさせて戴いてよかった、と。神さま、ありがとう。
HPを閉じることは本年に入って考えるようになった。清孝の帰天から来月で15年になる。「清孝は、もう世間から忘れてほしいのではないか」という思いが、ふと私に兆した。113号事件勝田清孝の真実を知ってもらいたいとの私の勝手な思いでHPをやってきたが、しかし、もう、このあたりで終わりにしてよいのではないか。
そんなことをつらつら考えるようになって、少しずつお仕舞の準備をしている。すべてに「時がある」。HPも「終わる時」が来たと考えることで、幾らか静穏な気持ちになれるようだ。
旧約聖書 コヘレトの言葉(伝道の書) 3章
1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
2 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
3 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
4 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
5 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
6 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
7 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、
8 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。
9 働く者はその労することにより、なんの益を得るか。
10 わたしは神が人の子らに与えて、骨おらせられる仕事を見た。
11 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
12 わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。
13 またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。
14 わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。
15 今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。神は追いやられたものを尋ね求められる。
16 わたしはまた、日の下を見たが、さばきを行う所にも不正があり、公義を行う所にも不正がある。
17 わたしは心に言った、「神は正しい者と悪い者とをさばかれる。神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである」と。
18 わたしはまた、人の子らについて心に言った、「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせられるのである」と。
19 人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空だからである。
20 みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。
21 だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。
22 それで、わたしは見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼をつれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか。
◇ YAHOO!カテゴリ 「犯罪 > 死刑」に関するサイト 2015/10/24 (弊HP閉じるにつき、控え)
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