『親鸞』完結編 自然に還る(4) 心の動きと関係なく、自然に涙がこぼれおちたのである。

2014-07-06 | 仏教・・・

『親鸞』完結編 360 [作・五木寛之][画・山口 晃]
 中日新聞朝刊 2014/7/4 Fri.
 自然(じねん)に還(かえ)る(4)
 11月のはじめに雪がふった。
 前の晩にふりだした雪は、夜が明けてもやまず、午の刻をすぎても、なおふり続いた。
 親鸞は覚信と蓮位がとめるのもきかず、杖をついて雪の庭にでた。ふしぎなことに、寒さがそれほどこたえない。手も足も冷えきって氷のように感じられるが、寒いとは思わないのだ。
 身につけている分厚い襟巻のあいだから、雪が入りこんできて、大きな嚔(くしゃみ)がでた。
「お風邪をひかれたら大変です。もう、おもどりください」
 覚信が声をかけたが、親鸞は手をふって、雪の中にたたずんだ。
 最近では、昔の日々を思いだすこともあまりない。しかし、こうして雪の中にいると、越後で恵信と暮らした冬のことが不意に浮かんできた。
〈あれは、何年前のことだったのだろうか〉
 50年、いや、もっと前かもしれない。35歳のときから7年を雪国ですごしたのだ。
 雪がはげしくなった。
 親鸞はそろそろと白い雪を踏んで、家の中へもどろうとした。そのとき思いがけず足がもつれた。とくに何かにつまずいたわけではない。
 杖が雪の上に落ち、親鸞は枯れ木が倒れるように転んだ。体をかばった右手首が、いやな音をたてた。
「親鸞さま!」
 覚信と蓮位がかけよって親鸞をかかえおこした。
「だいじょうぶだ」
 と、親鸞はいったつもりだったが、言葉にならなかった。蓮位にかかえられて、親鸞は居間にはこばれた。床に体をよこたえると、思わず涙が頬をつたった。
「どうなさいました?」
 覚信が小指で親鸞の目もとをぬぐって、顔をのぞきこんだ。
 親鸞は自分が涙を流したことがふしぎでならなかった。何が悲しいわけではない。転んだ自分を情けなく思ったわけでもない。心の動きと関係なく、自然に涙がこぼれおちたのである。
 親鸞はその日、夕餉をとらなかった。
 翌日も、翌々日も、親鸞は床にふしたままだった。覚信がいくらすすめても、ほとんどものを口にしなかった。

 [お断り:原文は漢数字でしたが、算用数字で転写させて戴きました。=来栖]
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〈来栖の独白〉
> 親鸞は自分が涙を流したことがふしぎでならなかった。何が悲しいわけではない。転んだ自分を情けなく思ったわけでもない。心の動きと関係なく、自然に涙がこぼれおちたのである。
 別のエントリでも触れたが、老いた者の心理描写が五木さんは際立って巧みだ。いや、巧みというのではなく、自然な筆遣いなのだろう。痛いほど、胸に刺さってくる。うまい。もはや「哀しい」のか、何なのか、わからぬ、言葉にならぬ哀しみが「老い」には、ある。
 いま一つ、私はうっかりと読んでいたが、
>覚信がいくらすすめても、ほとんどものを口にしなかった。
 五木寛之氏と立松和平氏との対談『親鸞と道元』に、「自然死」という言葉があったことを思い出した。

『親鸞と道元』対談<五木寛之×立松和平> 祥伝社刊
p245~
*最期はどうやって死んでいけばいいのだろうか
立松 五木さんはどうやって死にたいと思います?
五木 僕ですか? うーん、そうだなあ。もう一人で旅ができなくなったときかなあ。
立松 旅の人でしょう、五木さんは。
五木 旅ができなくなったときに死にたいですね。できれば85まで、カバンを下げてあちこち出歩いて、付き添いなしで地方の駅を乗り換えて旅をしていたい。それが理想なんだけれど、やっぱりそれができなくなったときは、もう自分で幕を引くしかないような気がする。
立松 自分で死んでしまうということですか。たしか五木さんはご著書で、自殺はいけないと。
五木 いや、いけないとは書いてないです。若くして自殺するのはまずいと言っているんです。
p246~
立松 即身成仏しますか。
五木 そうですね。空海は五穀を断って成仏したといわれるんだけれど。それを僕は自然死といっています。自分を殺すのが自殺。自然に死ぬのが自然死。
立松 円空もそうです。日本人の究極の憧れというか、仏教徒の究極の憧れは、即身成仏だと実は思っているんです。たとえば、お蚕さんってあるでしょう。お蚕さんは絹を出す虫だけれど、いうなればイモ虫ですよね。けっして美しくはないでしょう。あれが何回か眠って、そのつど大きくなって、最終的にサナギになるんだけれど、首を振って、自分をきれいな糸で巻いていくんですね。これが繭ですよね。
 このきれいな糸が絹糸なんだけれども、毛虫のような虫がだんだん白い糸の中に入っていって、そのとき頭を一生懸命に振っているんだけれど、まるで生きながら仏になっていく即身成仏のような姿だと僕は思っているんです。(略)
p247~
五木 柳田國男の『遠野物語』にも出てくるけれども、『楢山節考』みたいに、年を重ねて、これで現役引退というふうに決めたら、子どもたちに運んでもらって、山の大地の一角に置いてもらう。こういうのがやっぱり大事な気がしますね。死にどころというものをきちんと決めるというか。長生きすれば目出たかった時代は、すぎたんです。これからは、ただ長寿だけでなく、世を去る道こそ考えるときにきたんじゃないでしょうか。
*ガンジスのほとりで考えたこと
立松 このあいだ、ちょっと遠野へ行ってきたんです。あのへんを案内してくれる人がいて、でんでら野とか、ダンノハナとかを回りました。でんでら野っていうのは姥捨ての場所ですね。昔は60歳になると、日中は里に下りて農作業を手伝い、夕方、わずかな食糧を持ってここの小屋に戻り、みんなで寄りそうようにして死期を待ったのだそうです。ダンノハナは、昔は囚人を斬った場所で、いまはお墓になっています。それがあまりにも村と近くてびっくりしました。(~p248)

『親鸞と道元』 対談<五木寛之×立松和平> 祥伝社刊 平成22年11月5日初版第1刷発行 2014-03-10 | 仏教・・・/親鸞/五木寛之 
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◇ 『親鸞』 作・五木寛之 / 画・山口 晃  完結編 362 自然(じねん)に還る(6) 最終回 2104.7.6 Mon. 2014-07-07 | 仏教・・・/親鸞/五木寛之
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