秘密保護法 野党とメディアの大声 60年安保に酷似 岸元首相は言った「サイレント・マジョリテイを信じる」

2013-12-08 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉

深谷司の言いたい放題 第492回 2013年12月07日「秘密保護法成立に思うこと」
 12月6日深夜、参議院本会議で賛成多数で可決した。韓国や特に中国の、日本を脅かす理不尽な行動が激しくなりつつある今、国家の主権を守り国家国民の安全保障の為に、法や機能を整備することは急務である。
 国家安全保障会議の創設が必要だし、そのためには世界と情報を共有しなければならない。しかし、日本は情報の垂れ流し、スパイ天国、情報管理が出来ていない。これでは世界で全く信用されず、確かな情報も入ってこない。秘密保護法は、こうした状況の中、まさに喫緊の課題で、これが成立したことは本当によかったと思っている。この法は今月中にも公布され、公布から1年以内に施行される。
 それにしても、野党の動きはいい加減で、世論に迎合して右往左往、茶番劇の連続であった。
 採決にあたって、維新の会は退席したまま、みんなの党は衆議院で賛成したのに退席した者、反対した議員と対応はバラバラで、全く政党の形を成していなかった。民主党は一旦退席し、やっぱり反対票を投じようとまた舞い戻る醜態ぶりであった。
 11月7日に自公、維新、みんなの4党が、修正案をまとめたのだが、あれは一体なんだったのか。中身は賛成だが、国会の運びが悪いからと維新の松野幹事長は弁解していたが、審議しているのは法案そのものであることをわきまえていないのだ。(実際は党内に若手の反対があり分裂を避けるためだが・・・)
 近ごろの若い国会議員は、おしなべて、どうも真剣さが足りないように思えてならない、国家国民の為に命さえ捧げるとういう気概が無い。周りを気にして周章狼狽している。マスコミや世論の動きに迎合して、己の確固たる信念が無い。プチプル政治家が多くなっては国の将来が心配でならない。
 マスコミ報道は相変わらずだ。朝日新聞を中心に、勝手に限りなく拡大解釈を繰り返し、さも軍国主義に戻るかのように書いて大騒ぎしている。朝日新聞の一面で「治安維持法を含め、この種の法律は拡大解釈を常としていた」と決めつけているが、民主主義が定着し、成熟していることを、ことさらに無視している。 
 国民の意識の高さや判断力の正しさも考慮しようとしない、自分たちだけが利口だと思っている。要は国民を馬鹿にしているのではないか。
 私は、今回のマスコミの動きを見て、60年安保騒動の時とそっくりだと感じている。
 1958年(昭和33年)、安保条約の改定の話し合いが、岸信介首相、藤山愛一郎外相とマッカーサー駐日大使の間で始まった。岸首相は「日米関係の一層の緊密化は必要だが、吉田首相時代に見られたような対米従属の時代は終わった。対等の立場で協力し合うものでなければならない」と考えていた。その為には、まず「日本は基地を提供するが、日本防衛の義務はない」とする片務性を変え、双務的な相互防衛条約にし、米軍の日本防衛義務を明らかにしようとした。極めて正しい政治判断であった。
 ところが、「新安保によって日本が戦争に巻き込まれる」と、労働組合、全学連などが中心に大反対運動が起った。
 1960年、野党抜きでこの新安保条約を承認したが、国会周辺は連日10万人を超えるデモ隊で埋まった。「岸を倒せ」から「岸を殺せ」とシュプレヒコールはエキサイトしていった。警官隊との衝突で学生樺美智子さんが亡くなったのもこの頃であった。革命を起こせとの空前の騒ぎであった。
 アイゼンハワー大統領訪日の打ち合わせの為に来たハガチー氏は、羽田空港でデモ隊に囲まれヘリコプターで脱出するという事件もあった。
 その頃私は、全学連を批判する保守派の学生を集めて「全日本学生雄弁連盟」を組織し代表理事になり、全学連と対抗していた。ハガチー事件の時は、バス10台に学生を乗せ、羽田の弁天橋あたりで全学連の連中と乱闘したりしていた。
 やがてこの騒ぎも収まっていくのだが、その背景に、一般国民の「過激な行動への批判」「こんなことで民主主義と言えるのか」との声が高まったことがあった。
 猛烈な反対運動を展開した知識人や学生達も、条約が成立し、騒ぎが収まるとやがて次々と転向していった。反対運動の中心学習院教授の清水幾太郎氏などは国粋主義者になり、核武装すべきとまで言いだした。
 朝日新聞は「戦争に引きずり込まれる」と論陣を張ったが、安保改定以来、日本は平和の中で過ごすことが出来た。この新聞は今も同じことをやっている。まるでオオカミ少年だ、恥ずかしくないのだろうか。
 朝日ばかりで恐縮だが、2面ブチ抜きで「反対諦めぬ、戦中に戻すな」の大見出し、本当に呆れる。記事の中に「怒り列島を包む」で、「京都の市民団体が呼び掛けたデモに約120人」とあった。え!これっぽっちと、思わず数の間違いかと思った。安保の時は全国で連日500万人だったぜ・・・。
 賛成派はデモもしないし喚きもしない。岸さんは「声なき声、サイレント・マジョリテイを信じる」と言ったが、今同じことが言えるのではないか。
 但し、これから大事なことは運用の仕方を慎重にすべきだという点だ。国家の安泰を守りつつ、国民の基本的権利を侵さない、正しく運用されていく状況を、きちんと監視していくことも必要だと私は思っている。
*深谷司プロフィール
 浅草生まれ。終戦を満州で迎えた。一年後、引き揚げて長崎県佐世保市浦頭港に上陸。祖国日本の「土のあたたかさ」、迎えてくれた「日本人のやさしさ」に感動。その思いを胸に政治家を志した。  27歳で台東区議会議員に当選。33歳都議会議員を経て、37歳で衆議院議員となる。当選9回。  郵政大臣、自治大臣、国家公安委員長、通産大臣(2回)、予算委員長、テロ対策特別委員長を歴任。自民党三役総務会長。東洋大学大学院客員教授。  現在は自民党東京都連最高顧問、TOKYO自民党政経塾塾長として、未来を担うリーダーの育成に務める。
 ◎上記事の著作権は[深谷司の言いたい放題]に帰属します *強調(太字・着色)は来栖
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「秘密保護法」 敵に漏れれば国の安全が脅かされる情報を国が秘密にすることは当たり前の事 深谷司  
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◇ 憲法改正で「日本」を取り戻せ 誤った歴史観を広めるメディア・教育界に風穴を 『Voice』4月号 
  『Voice』4月号2013/3/9(毎月1回10日発行)

      

  憲法改正で「強い日本」を取り戻せ いまこそ誤った歴史観を広めるメディア・教育界に風穴を開けるときだ
 対談「渡部昇一(わたなべしょういち・上智大学名誉教授)×百田尚樹(ひゃくたなおき・作家)」
〈抜粋〉
p45~
■サイレントマジョリティの声を聞けるか
百田 同じように、戦後長らく左翼的な勢力が跋扈しているのが、新聞やテレビなどメディアの世界、そして教育界です。(略)
 まずメディアについていえば、第1次安倍内閣は『朝日新聞』をはじめとする新聞やテレビに過剰なまでにバッシングされ、短い期間で残した実績が国民に十分に伝わらないまま、退陣に追い込まれてしまいましたね。
渡部 ベストセラーになった約束の日 安倍晋三試論(幻冬舎)で小川栄太郎さんが書いているのですが、昨年11月に亡くなった政治評論家の三宅久之さんは、かつて朝日新聞社の主筆だった若宮啓文氏に「どうして『朝日』はそこまで安倍さんを叩くんだ?」と尋ねたところ、「社是だからだ」といわれたそうです。
百田 ただ、いまでは「安倍たたき」をするか否か、メディアも少し慎重になっているようにもみえます。リベラルな論調を出すことで読者が減るのではないか、と懸念しているのでしょう。
渡部 1月にはアメリカのニューヨーク・タイムズ』紙が安倍さんを「右翼の民族主義者だ」と強く批判しました。『ニューヨーク・タイムズ』の東京支局は、朝日新聞社と同じビルにあります。これは邪推かもしれませんが、『朝日新聞』の記者が、自分たちの発言力が落ちていることに危機感を抱き、『ニューヨーク・タイムズ』の記者をけしかけて、社論を書かせたと解釈することもできます。
百田 ここ数年でインターネットが発達し、とくに若い世代を中心に「マスコミの情報が必ずしも正しいわけではない」という意識が芽生え始めたのも大きいですね。
p46~
渡部 2012年から現在にかけては、脱原発運動の旗振り役になり、いかにも国民全体が「脱原発」の意見をもっているかのような記事を掲載した。しかし先の総選挙では、「日本未来の党」をはじめとする、脱原発政党は軒並み議席を減らしています。マスコミのいうことと、「サイレントマジョリティ」の意見は違うということが露呈しました。
百田 60年安保のときと状況はよく似ています。当時も日本全国が「安保反対」のような気運でしたが、自然成立とほぼ同時に岸内閣が倒れ、その数か月後に行われた総選挙で自民党が圧勝した。メディアの声はあくまでも「大きい声」にすぎず、それが大多数の声を代表しているとは限らないということです。
(略)
百田 岸信介はいみじくも、安保デモを前に「私には国民の声なき声が聞こえる」と発言しました。それは正しかったんです。いくら国会を群集が取り囲んでも、私の両親のような大多数の庶民は、そのような問題に何ら関わりはありませんから。サイレントマジョリティの声を聞くというのは、政治家の大きな資質の1つだと思います。 *強調(太字・着色)は来栖 
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 ◇ 『日本を貶めた戦後重大事件の裏側』菅沼光弘著 第4章 安保闘争と左翼陣営の舞台裏 

     

(抜粋)
 第4章 安保闘争と左翼陣営の舞台裏
p148~
 評論家の西部邁(にしべすすむ 1939-)さんは、1960年の安保闘争のころは、全学連の最高幹部として、安保闘争を指導していました。彼があちこちでよく言っていますが、「あの当時、日米安保条約の条文なんか誰も読んでいなかった」。安保闘争は、言うならば「反米闘争」だったと言っています。
p152~
 あの当時の多くの国民はみんな安保反対だったのだけれども、しかし、よくよく考えてみると、前の日米安保条約というのは、サンフランシスコ講和条約調印のとき、吉田首相がただ一人、密室で調印した不平等条約でしたから、岸さんが変えようとしたのは無理もないのです。
 その条約では、アメリカは日本を守る義務がない。要するに、ただ「占領中の現状のまま米軍の基地を日本に置く」ということを約束した条約なのですから。そこで岸さんは、「これじゃいかん」というので、「日本を米軍が守る」ということを意味する条文を入れたわけです。だからこれは、本当は日本にとってはいい改定だったのです。反対する理由はない。
 では、当時なぜああいう反対運動になったのかというと、やはり反米感情です。あのころの一番若い、学生世代が、戦争中の体験をした最後の世代です。
 その上の世代で戦争に参加した人たちは、戦争の悲惨さというのを身近に考えているものだから、安保条約が戦争につながるということを信じていたかもしれない。一番若い世代の学生は、もう単純な反米です。誰も安保条約そのものを読んではいないのですから。しかし、だからこそ、あれだけ盛り上がったのです。
 岸信介さんは、東条内閣の商工大臣をやったり、満州でいろいろ活動したりしていましたが、物凄い秀才でした。(略)60年安保のころの世論では、岸さんがどういう人かということをいっさい考えないで、単に、東条内閣の閣僚だった、戦争犯罪人だったというのが先に立つものだから、大変だったのです。 *強調(太字・着色)は来栖
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孫崎亨著 『アメリカに潰された政治家たち』  第1章 岸信介 / 第2章 田中角栄と小沢一郎 2012-10-28   
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