<少年と罪>第2部 「A」、20年 (特集)雨宮処凛さんに聞く
中日新聞 2017/7/8 朝刊
世界と距離縮め 決別 熱狂は錯覚だった
「世界との向き合い方を知ってAと決別した」と語る雨宮処凛さん=東京都杉並区で
神戸連続児童殺傷事件から20年。14歳の中学3年生だった「少年A」による残虐な犯行は、その後の少年法改正につながった。戦後の主な少年事件を振り返るとともに、作家の雨宮処凛さん(42)に、事件を巡る当時といまの「思い」を聞いた。
神戸事件の犯人が14歳の「A」だと知って、衝撃というより、熱狂しました。「やってくれたか」と。
私は当時、22歳。キャバクラ勤務のかたわら、右翼団体の活動に参加し、経済的にも精神的にも不安定。日々、満たされない気持ちで「世の中がむちゃくちゃになればいい」と思っていました。そんな中、現れたのがA。薄暗いアパートで、過熱するテレビ報道に夢中でした。
彼と同じ14歳の頃、中学校でいじめに遭いました。生き地獄の毎日。競争主義が支配する教室にも社会全体にも、いじめを否定する論理がなかった。自分を拒絶する社会を憎んだまま大人になり、Aを「世界を破壊した英雄」と勘違いして、心を寄せていました。
今は、錯覚だったと分かります。
彼は、ひどく強引な、身勝手な方法で、世界に自分の存在を認めさせようとしたのでしょう。でも、罪のない子どもを手に掛け、難解な声明文を書いたところで、受け入れてもらえるほど現実社会は甘くない。
Aの手記『絶歌』で気付いたことがあります。
一つは同時代に生きた人間として、接してきた文化がほぼ一致すること。1990年代後半、殺人や死体を嗜好する暗いブームが確かにあった。その影響をまともに受けたAは、大人の悪ふざけが生んだ「世紀末のあだ花」かもしれません。
もう一つ、少年院退院後の流転の日々から、いまのAが、生きづらい社会でもがく一人の普通の人間だと分かりました。その点、かつてと違う意味の「共感」を抱いたのも事実です。
私はいま、格差や貧困など「生きづらさ」の正体を見いだそうとしています。取材で接する非正規労働の若者と今のAの姿は、そう遠くない。自分のしでかしたことに、もがき苦しむ一人の人間に見えました。
私は社会問題に取り組むことで世界との向き合い方を知り、Aと決別しました。自分と世界の距離を縮める方法が見つかれば、彼のやり方が絶対に間違いであると気付けるはずです。
あの事件に若者が興味を持つこと自体は否定しません。誰だって関心があるから、犯罪報道もこれだけ盛んになる。社会にあるのは「正義でけ」のはずがない。そこを認めた上で、事件から何を伝えられるのか。この20年、大人たちが問われ続けているんです。
「社会と時代を反映」
戦後の貧困・差別型 ⇒ 集団型 ⇒ 単独型
長く少年事件に携わってきた元家裁調査官で京都工芸繊維大の藤川洋子・特定教授(犯罪心理学)は「少年犯罪は社会と時代を映し出す」と話す。少年事件史をひもとくと、戦後の「貧困・差別型」から、高度成長期以降の「集団型」、そしてインターネット時代の「単独型」へ変遷してきたことが読み取れる。
戦後しばらくは貧困や在日朝鮮人差別、差別などを背景に「食べるため」や社会への不満が引き金となる事件が相次いだ。典型例が、在日朝鮮人の少年=当時(18)=が1958年に女性2人を殺害した「小松川高女子生徒殺害」。極貧家庭で育った永山則夫・元死刑囚も、19歳だった68年、盗んだ短銃で4人を射殺し、法廷で「貧乏が憎い」と叫んだ。
高度成長期以降、少年犯罪の動機は主に「遊び」の延長へ変わり、暴走族に象徴される集団犯罪が目立つようになる。83年には少年の刑法犯検挙数が戦後最多の26万1000人に上り、88~89年の「女子高生監禁殺人」など、集団による残虐なリンチ事件が起きた。
97年の神戸事件では、犯人が「酒鬼薔薇聖斗」を名乗る犯行声明を出した。その後に普及したネットによる情報・通信革命で、過去の事件情報を誰でも容易に得られるようになった。神戸事件後は「A」に感化された少年少女が1人で犯行に及ぶなどの「単独型」事件が頻発している。
藤川氏は「神戸事件は、人間関係を築くのが苦手だったり、疎外感を持ったりする子どもらに『同世代でも社会を震撼させられる』と誤って響いてしまった」と指摘する。
◎上記事は[中日新聞]からの書き写し ※後段[改正続く少年法 遺族「厳罰化より適正化を」]は省略(=来栖)
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◇ 神戸連続児童殺傷事件20年 <少年と罪 「A」、20年> 第2部(6)拒絶 (中日新聞 2017/7/1)終わり
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