産経WEST 2016.9.3 16:00更新
【亀岡典子の恋する伝芸】能を難しくする“3つの壁”こそ、実は面白くしている要素 大槻文蔵の人間国宝認定に思う
人間国宝に認定された能楽観世流シテ方の大槻文蔵さん=大阪市中央区(安元雄太撮影)
■詞章が理解できない、物語に起承転結がない、舞の意味が不明…
今夏、うれしいニュースが飛び込んできた。
大阪を本拠に全国的に活躍する能楽観世流シテ方、大槻文蔵さんが、人間国宝に認定されることが発表されたのだ。
決して活況とはいえない大阪の能楽界にとって朗報であり、能の活性化につながる喜ばしいニュースであった。
文蔵さんの舞台を初めて見たのはもう、四半世紀前になるだろうか。
当時、伝統芸能の担当になったばかり。歌舞伎や文楽は見たことはあったが、能は学生時代に一度見たきりで、恥ずかしながら、自分の中に、何かしら思いがとどまるものではなかった。つまり、能の素晴らしさがわからなかったのだ。
だから、それが仕事になったときは正直、あせった。果たして能を理解できる日が来るのだろうかと。
なぜ、能は難しいのか。第一に、詞章がよくわからない。古文の上に、謡(うたい)の節で謡われるからだ。第二に、ストーリーに明確な起承転結がない。第三に、劇中の舞が何を意味しているのか、よくわからない。
ほかにも能が難しいと思われる理由はあるが、見始めて最初の頃はこの三つの壁が立ちはだかった。
■シンプルなストーリーだからこそ想像の余地がある
しかし、繰り返し舞台を見ていると、三つの壁こそが実は能をおもしろくしている要素であることに気付き始める。謡の詞章は観劇前に声に出して読んでいくと、耳にすっと入ってくるようになった。また、その詞章の美しいこと。さまざまなレトリックが駆使され、作者の博識ぶりに驚かされる。
ストーリーはあまりにシンプルだが、だからこそ想像の余地がある。舞もそうだ。延々と続く「序の舞」の中に死者の強い思いがあることにある日、気付く。
まあ、そうは言っても、まだまだ能がわかったとは言えないところが、またおもしろいではないか。愛、裏切り、業、罪、老い、死…。自分の人生と重ね合わせ、能はどんどん深く、親しくなってくる。
そんな私に、舞台で能のおもしろさを教えてくれたのが、文蔵さんであった。
弁慶が主人公の「安宅(あたか)」を初めて見たとき、人間の知勇の輝きに驚嘆した。「清経(きよつね)」では、平家の公達の気品と悲劇的な死に、作者の反戦の思いを感じた。能の最奥(さいおう)の曲のひとつ、「姨捨(おばすて)」では、山に捨てられた老女が無心で月と戯れるさまに、宇宙の中の人間の営みを感じたものだ。
先日、人間国宝の報を受けて初めての舞台が、本拠地の大槻能楽堂(大阪市中央区)であった。文蔵さんは復曲能「樒天狗(しきみてんぐ)」を勤めた。美貌と信仰心の厚さを驕(おご)った慢心から魔道に落ち、天狗に熱湯と熱鉄の塊(かたまり)を飲まされ、炎と化す六条御息所の永遠とも思える苦悩を妖しく描き、人間の業の深さを見せてくれた。
■能は絵画と似ている 本物以上の美を表現
能を演じることは、人間を考えることではないか。文蔵さんは、難曲「定家(ていか)」で、「なぜ、式子内親王の霊は、男の執心が葛(かずら)の蔓(つる)となって巻き付いている墓に再び自ら入っていくのか」という私の問いに、「愛において喜びと苦しみは一体のもの」と答えてくれた。
そして、「能は絵画と似ている。画家が自分の思いを入れることで本物以上の美を表現するのと同じで、能楽師も自身の思いや人間性が反映される」と。
舞台だけでなく、そういう言葉の一つ一つも、能を見る上で、私を導いてくれるものとなった。
10月29日には、重要無形文化財認定記念として、「大槻文蔵 裕一の会」が開かれ、文蔵さんは、自身大好きな曲という「景清(かげきよ)」を勤める。70代を歩む文蔵さんの舞台がどんな深化を遂げるのか、楽しみでならない。
・亀岡典子(かめおか・のりこ)
産経新聞文化部編集委員。芸能担当として長らく、歌舞伎、文楽、能など日本の古典芸能を担当。舞台と役者をこよなく愛し、休みの日も刺激的な舞台を求めて劇場通いをしている。紙面では劇評、俳優のインタビューなどを掲載。朝刊文化面(大阪本社発行版・第3木曜日)で、当コラムと連動させた役者インタビュー「平成の名人」を連載中。
◎上記事は[産経新聞]からの転載・引用です