独り自室で「ミサに倣って」みる/六祖慧能

2011-04-07 | 日録

〈来栖の独白〉
 被災という言語に絶する苦難と哀しみのなかを生きることを余儀なくされた多くの皆さんを思う、そんな日々が私に続いている。胸が痛み、ともすればぼんやりとしている自分を発見する。献金したからといって、済むものではない。我々(私)が電気を必要としてきた。手で開ければよいものを足、或いはセンサーでドアを開け、夜も、昼間と見まがうほど明るく灯をともした。このような我々の快適な生活の犠牲を強いられたのが、被災された方たちである。我々が電気を過度に必要とした。「電気を」と言っていては事の本質は見えてこない。「電気」というワードを、すべて「原発」というワードに言い換えるべきだ。被災地の方々は、我々が「原発」を過度に必要としたための犠牲になった。出荷停止された野菜生産農家の方々、汚染水を投棄された海の魚たち、すべてすべて犠牲となった。この犠牲(被害)は、我々が等分に受けねばならないもののはずだ。一方的に偏って被害を受けられた方々への申し訳なさ、いたましさに、私は気力が根底から削がれるような日が続いている。
 私は何とぼんやりと生きてきたことだろう。このような私は、どのように生きればよいのか、深い迷いの中にある。虚ろだ。何にも心を打ち込むことが出来ず、ただ独り自室で「ミサに倣って」みる。ミサの次第に沿って、オルガン(エレクトーン)を弾きながら典礼聖歌を口ずさむ。典礼の季節は、今、四旬節だ。答唱詩編、アレルヤ、聖書朗読・・・を祷る。独りで捧げるミサ。「聖体」は要らない。「聖体」というカトリック教会が定めたルールは、必要としない。そうするなかで実感する。典礼聖歌は矢張りタダの歌ではない、と。「みことば」がそのままメロディという天衣を纏って人の心に届けられる。そのことを実感する。それを私は指でなぞり(オルガンを弾き)、声に出して歌う(祷る)。
 そんな私に、毎朝届けられる新聞小説『親鸞』は人間の闇について示唆に富んで多くを考えさせるが、本日は五木寛之さんの紀行をBSで観た。六祖慧能の話し。
 六祖慧能は、禅を広めた、言ってみれば禅の中興の人といえる。「頓悟禅」という言葉がある。「人は誰でも仏性が具わっており、それに気づくことが『悟り』であって、誰でも即座に悟ることが出来る」。
 人間は本来無一物で、知恵や悟りに必要なものなど、無い。きれいな鏡(明鏡)や台も、要らぬ。本来、無一物。塵や埃も、付きようがない。本来、人間には煩悩などなく、自らに具わった仏性に気づきさえすればよい。
 『六祖壇経』(ろくそだんきょう)は、「悟った人というのは、最後は市井に還ってきて、飄々と人の中を生きる」と説く。
 次のようにもいう。
「修行しようと思うならば
 家に在てもよろしい
 寺におらねばならぬということはない
 家にいてよく修行するならば ちょうど東の国にいて
 心がけの善い人のようなものである
 寺にいても修行せねば
 西方にいて悪い人のようなものである
 心さえ清ければ
 そのまま自己の
 本性という西方にいることになる」
 『六祖截竹図』には、竹の枝を落とす慧能が描かれている。自ら率先して農作業をしている。それが修行である、という。
 六祖慧能の最後の偈。『六祖壇経』より
「心地含種性 法雨即花生 頓悟花情己 菩提果自成」
 心という土壌は、仏性の種を含んでいる。教えの雨を受けると、智慧の花が開く。即座にこの花の心を悟ってしまう。悟りの果実は、自ずから実る。


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