地下鉄サリン事件前に強制捜査の機会も
NHK NEWS WEB 2015年3月20日 19時16分
オウム真理教による地下鉄サリン事件から20年。
NHKが複数の捜査関係者への取材を進めたところ、地下鉄サリン事件の4年前に警視庁が“極秘捜査”を進めていたほか、事件の2日前に都内の教団施設を捜索するため、準備が進められるなど、事件の前に教団に強制捜査に入る機会があったことが明らかになりました。
13人が死亡し、およそ6300人が被害を受けたサリンによる世界初の化学テロを防ぐ機会はなかったのか、NHKは、当時、オウム真理教への捜査に当たった複数の捜査幹部や捜査員への取材を進めました。その結果、事件の3年7か月前の平成3年8月、警視庁捜査1課が、平成元年に横浜市で起きた坂本弁護士一家殺害事件の捜査を極秘で進めていたことが分かりました。
“極秘捜査”は、「ロス疑惑」など数々の難事件に携わり、のちに捜査1課長となる寺尾正大氏の下、捜査員およそ10人が、佐伯こと岡崎一明死刑囚が事件に関与しているという情報を入手し、都内の教団施設などの捜査を進めていたということです。しかし、坂本弁護士一家の事件は、神奈川県警の管轄内で起きた事件で、当時は、警視庁に捜査する権限はなく、2か月で中断を余儀なくされていました。
さらに、平成7年にも、警視庁捜査1課が地下鉄サリン事件の2日前の3月18日に都内の教団施設に捜索に入るため、準備を進めていたことが分かりました。
NHKは、当時、捜査1課と東京地方検察庁との間で交わされたやり取りの内容を独自に入手し、それによりますと、地下鉄サリン事件の3週間前に都内で公証役場事務長の假谷清志さんが拉致された事件の捜査で、捜査1課の幹部が「都内の教団施設を3月18日にも捜索したい」という意向を伝えていました。
しかし、平成6年に起きた松本サリン事件を受けて、東京地検や警察庁は、教団が強制捜査に対してサリンを使って反撃に出るおそれがあるとして、都内だけでなく、サリンの製造が疑われていた山梨県の旧上九一色村の教団施設も含めて一斉に強制捜査に入るべきだという意見を伝えたということです。
協議の結果、強制捜査は一斉に行われることになり、ガスマスクなどの装備を自衛隊などから集めるために、時間が必要だったことから、3月22日に行われることが決まりました。
強制捜査は、20日に地下鉄サリン事件が起きたあと、予定どおり22日に行われましたが、結局、事件には間に合いませんでした。
■“極秘捜査”の記録
地下鉄サリン事件の4年前に、警視庁捜査1課が平成元年に横浜市で起きた坂本弁護士一家殺害事件の“極秘捜査”を進めていたことが、NHKが独自に入手した元捜査員の日記から明らかになりました。日記には、捜査が始まって中断するまでの、いきさつや捜査した項目が記されていて“極秘捜査”の全容を知ることができます。
この日記は、警視庁捜査1課の元捜査員、小山金七氏が書き残したものです。小山氏は、平成12年に亡くなりました。
小山氏は、のちに警視庁捜査1課長となる寺尾正大氏から指示を受けて、およそ10人の捜査チームのリーダーとして“極秘捜査”に関わっていて、日記からは、捜査が始まって中断するまでのいきさつや、捜査した項目など“極秘捜査”の全容を知ることができます。一連の記述は、平成3年8月9日の欄の「寺尾理事官より神奈川県内の弁護士一家失踪事件の下命」という内容から始まり、地下鉄サリン事件の3年7か月前に、警視庁によってオウム真理教に対する“極秘捜査”が始まっていたことが分かります。
およそ2週間の日記には、「オウム真理教都内拠点系統図作成」や、「オウム真理教の関連出版書籍捜す」などと記され、教団や信者に関する情報を徹底して収集している様子がうかがえます。9月に入ってからは、「佐伯一明の内偵」という記述があり、のちに坂本弁護士一家殺害事件の実行犯と判明する佐伯こと岡崎一明死刑囚を、すでに事件の重要人物とみて内偵していたことが分かります。しかし、9月17日には、「神奈川県警から捜査内容確認のTEL」と記されていて、それ以降、捜査は縮小し、10月に中断されます。当時の複数の捜査関係者らによりますと、このとき坂本弁護士一家の事件を捜査する神奈川県警に、警視庁の“極秘捜査”の動きが伝わり、当時の警察の管轄権の問題から捜査を中断せざるをえなかったということです。
■“極秘捜査”の元捜査員
地下鉄サリン事件の4年前に行われた警視庁の“極秘捜査”に携わった当時の捜査員がNHKの取材に応じ、当時、オウム真理教の都内の施設などの捜査を進めていたことを明らかにしました。
警視庁捜査1課の捜査員だった高野正勝さんは、地下鉄サリン事件の3年7か月前の平成3年8月から坂本弁護士一家殺害事件の“極秘捜査”に携わっていました。
高野さんは、捜査チームのリーダーだった小山金七氏の下で、都内にあるオウム真理教の施設の張り込みなどを行って、活動の実態を調べたということです。
複数の教団施設の周辺を歩きながら、敷地内の駐車場にとめてある車両の写真を撮影したりナンバーを記録したりして捜査を進めたということです。しかし、2か月後、小山氏から捜査が中断することになったと伝えられたということです。
高野さんは当時を振り返り、「オウム真理教はいずれ東京でも事件を起こす可能性があるとみて、当時、極秘で捜査を進めていた。もし、あのとき一歩踏み込んで捜査ができていれば、地下鉄サリン事件は起きなかったかもしれない」と話していました。
■教訓はどう生かされたのか
オウム真理教による地下鉄サリン事件で浮き彫りになった課題に対して、警察は、さまざまな対応を取りました。
当時の警察は、サリンに対応できる装備が不十分で、防毒マスクなどを自衛隊から借りなければならず、強制捜査の準備に時間がかかったことから、毒物や細菌を使った生物化学テロに対処できる専門部隊や対策班が全国の警察に整備されました。
メンバーはおよそ500人で、テロが起きた場合、素早く原因物質を除去し、被害者の救出や避難誘導に当たります。
また、当時、化学兵器に関する知識が不足していたことから、毒物の研究や鑑定法の開発を行う科学警察研究所の化学部門を強化したほか、毒物を使った特殊な事件などを指導する「特殊事件捜査室」が設けられました。
さらに法律の整備も行われ、サリンやサリンのような毒物の製造や所持を禁止し、サリンを発生させた場合、最高で無期懲役とする罰則を設けた法律が成立しました。
また、当時は警察の管轄権の問題で広域捜査が課題になりましたが、平成8年に警察法が改正され、広域で行われる組織的な犯罪に対しては、警視庁と各警察本部が従来の都道府県単位の管轄区域にとらわれず捜査できるようになりました。
警察庁長官が複数の県警にまたがる広域事件の合同捜査を指示できるようにもなりました。
当時の検証作業に携わった警察庁刑事局の露木康浩審議官は、「宗教法人としてのオウム真理教がテロ組織へと変貌していくそのプロセスに直接切り込む手段が、当時は不十分だった。ああいう事件を2度と引き起こしてはいけないということを常に肝に銘じ、制度や組織体制の点検を行っていきたい」と話しています。
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