文芸評論家による政治評論を読む
SNSI・副島国家戦略研究所 中田安彦 NET IB NEWS 2012年10月9日12:30
文芸評論家の小川榮太郎氏『約束の日 安倍晋三試論』である。この本は音楽評論家でもある小川氏が初めて手がけた政治評論だという。一言で言えば、「安倍政権は、憲法改正を目指したり、官僚制度改革を行なったために、マスコミと官僚の連合軍によって潰された」ということを当時の新聞記事の論調の変化や関係者の証言によって解き明かしている。
似たようなコンセプトの本としては、最近では経済評論家で、自民党での参院選出馬経験もある三橋貴明氏原作の小説『真冬の向日葵』(海竜社)があった。この本と同様、小川著もマスコミによって自民党改革派が潰されたという論調である。そして、郵政民営化には批判的であるという点も同じである小泉・竹中路線は「保守自民党の本流ではない」という主張であり、その証拠として小泉氏が公務員制度改革には興味も示さなかったことが挙げられている。また、小泉政権とそれ以降を分けるのがこの系統の特徴で、小泉氏と自民党長老支配の産物と言われる福田康夫政権には批判的である。(私は必ずしも福田政権が悪い点ばかりだとは思わないが)
また、自民党支持の観点で書かれているためか、民主党の政治家に対するバッシングについてはさらりと流している。これが問題といえば問題だろう。それがこの小川著に大きな間違いとなって現れた。それは、小沢の秘書団が陸山会事件によって刑務所に入ったと書いてある(82ページ)という点だ。これは明らかに間違いである。
小川氏にしても三橋氏の安倍・麻生・中川を再評価した『真冬の向日葵』にしても、自民党のPRのための宣伝本という側面があることを割り引いて読まなければならない。ただ、「政治とカネ」に関するマスコミのバッシングというのは巧妙であり、選択的(あの政治家に対しては叩くが、この政治家は叩かないというふうに)になされるのである、という議論については私も同感である。
当時、安倍政権を年金問題と同時に揺るがした国会議員の事務所費疑惑について、小川氏は「これまでこの種の問題は問題にならなかったのに、突然マスコミが問題にした」と書いている。そのとおりであり、小川氏があまり取り上げない小沢一郎氏の政治団体「陸山会」をめぐる問題も、これまで問題にならなかった収支報告書の記載ミスの些細な問題である。スキャンダルのハードルが下がってきたのである。
結局、「政治とカネ」は他のイシューと比べれば、どうでもいい問題にもかかわらず、それはマスコミと官僚にとっては政治家と世論を切り裂く「鋭利な刃物」として頻繁に利用される。政治家にとっては、政策で国民生活の向上という成果を出すかどうかが重要であり、それは思想の左右のいかんを問わない。それを阻害しているのが、「政治とカネ」である。政治家のイデオロギーの上に超然として君臨しているのが日本の官僚機構である。ただ、小川は小沢一郎についはあまり深く述べていない。この点について知りたければ、同じく文芸評論家の山崎行太郎の『それども私は小沢一郎を断固支持する』(総和社)を読むべきだろう。
小川榮太郎氏の『約束の日』では、2006年に生まれた安倍政権の誕生から瓦解までが時系列とイシュー別(教育基本法改正、国民投票法、安倍の健康問題など)に論じられている。細かい点はいろいろあるが、ここでは述べない。
この本で重要なのは、官僚が理念型の政治家に対峙する場合、何らかの「防御装置」を発動させ、官僚がコントロールしがたいと思った政治家に対しては、マスコミへのリークや、野党へのリークを駆使して、国会論戦の報道やテレビなどの編集しやすい媒体を通じて、国民に対して印象操作を行なうということが、三橋、小川、山崎の三者の著作、そして、海外ではカレル・ヴァン・ウォルフレン氏の著作を通じてさらに明らかになったことである。
自殺した松岡利勝農水大臣の問題は別にして、「消えた年金」問題については、野党の国会質問の内容があまりに詳細であったことから、「これは官僚からのリークだ」、「社保庁の自爆テロだ」という指摘が当時からなされた、と小川氏は述べている。その根拠として、小川氏はこの問題はメディアが最初に報じてから、マスコミがバッシングに使い始めるまでのタイムラグがあることを指摘している。これは小沢氏の陸山会問題についても同じで、政権交代直前という実に絶妙なタイミングで秘書の逮捕が行なわれていた。
官僚にとっては、自民党、民主党の双方を自分たちの既得権を破壊する「公務員制度改革」に着手させないということが組織の自己防衛として、極めて合理的な選択(ラショナル・チョイス)である。そのためには、政治家同士が与野党でスキャンダルをめぐり泥仕合を繰り広げることや、くだらない些細な失言問題で大衆の感心をそらすことを狙う。そのためにはマスコミという「道具」は官僚にとっては重要な役割を果たす。
官僚とマスコミの関係とは、取材される対象と取材する側の関係であるが、取材する側は紙面や番組を埋めるために、官僚側からの報道発表文に依存している。情報を出す側が情報を選択的・差別的にリークすることでマスコミが官僚にコントロールされるのだ。日本の記者クラブに属する記者はこういう官僚からの情報コントロールというものにどっぷりと使っている。
大手新聞社の地方支局では、警察署がおもな取材先だが、そこでは広報担当の副署長が事件、事故の報道のネタを集めに来た支局記者たちを情報をどのように提供するかによってうまくコントロールする。記者の資質もあるが、たいていは地元紙の記者や読売の記者に詳しく情報を教え、朝日や毎日は冷遇するという構図になっている。警察副署長によるそのような「情報コントロール」という洗礼を受けて数年間、この構図にどっぷり使って支局記者は本社の政治部に出世していく。
そのような政治部記者たちは、官僚の選択的リークによってスクープ記事を書くことを目的にしている。つまり、情報源である官僚とは持ちつ持たれつの関係なのだ。そのような場合、官僚が政治主導を潰したい場合には、記者たちはそのことについて見て見ぬふりをして、重要ではない問題をことさらにおかしく取り上げて読者の関心を逸らしたり、ひどい場合になると、中川昭一財務大臣をローマで酩酊会見に追い込んだ大手紙とテレビ局の女性記者らのように、対米追従派の財務官僚らと結託して、政治家つぶしの謀略を行なう。(この中川昭一氏の酩酊会見の真相については三橋氏の『真冬の向日葵』が小説仕立てでではあるが、初めて具体的に論述している)
安倍政権当時の話に戻ると、マスコミは公務員制度改革を行なうと決めた安倍政権を潰すという官僚の思惑に乗ったようだ。安倍政権には渡辺喜美氏や中川秀直氏らの上げ潮派の政治家たちが、経済成長戦略の提言とあわせて、公務員制度改革を主張していた。現在の自民党からは、渡辺喜美氏が離れて「みんなの党」を結党して、安倍氏の伝統保守路線から決別した。
そして、安倍政権が崩壊して数年後には同じく、政治主導で公務員制度改革を掲げた、小沢一郎氏の率いた民主党政権が政権発足直前に政治資金をめぐる疑惑の攻撃にさらされる。小川榮太郎氏の本だけを読んでいると見えてこないが、官僚・マスコミの連合軍は、公務員制度改革という統治機構制度の組み換えを唱える政治家を順序だててバッシングしていく事がわかる。安倍氏と小沢氏は保守とリベラルという点で大きく違う面もあるが、政治主導を目指して、公務員制度改革を目指した点では共通していた。そのことに対する官僚の抵抗感は強かった。やはり、日本は「天皇を中心にする律令国家」なのである。いまも。
つまり、小川榮太郎氏に従うと、安倍氏の「戦後レジームの脱却」には、一般的によく言われる「東京裁判史観の克服」とは別に「官僚主導政治からの徐々の脱却」というものがあったことになる。私は前者のレジームの脱却論はあまり国益上有益ではないと考えるし、安倍氏が靖国神社に参拝しなかったのは正しいと思う。それは安倍氏が首相就任直後から、中国との関係を改善しようと、すぐにアメリカではなく中国に飛んだことによって、「戦略的互恵関係」が樹立されたことを考えればすぐにわかる。靖国神社問題や戦争認識の問題を争点にすると中国だけではなく、アメリカすらも敵に回すということである。
問題は、今の安倍自民党が後者の「官僚主導政治の脱却」という側面を維新やみんなに分散(こちらも理念的に先鋭化)させたことによって前者の「東京裁判史観的なもの」からの脱却を理念的に追求するのではないか、という懸念があるということだ。安倍晋三氏のアジア(具体的にはASEAN)重視の考え方は日本の国家戦略としては頷ける所も多い。憲法改正はまだまだ日本にとっては時期尚早だと私は考えるし、いまはアメリカに対しては正面切って「独立宣言」をすることはむずかしいし、あまりメリットはない。基地問題などでは日本が自衛隊だけで日本防衛ができると主張しつつ、沖縄の基地反対運動をうまく対米交渉の材料に使って、米軍基地負担の軽減を目指すというある種の「面従腹背」を取るしかないだろう。
ただ、私は小川榮太郎氏と異なり、安倍氏を全面的に支持するものではない。安倍の「戦後レジームの脱却」は、東京裁判史観の打破のことである。その史観を受け入れた吉田茂・外務省路線(この路線の問題点については、孫崎享著『戦後史の正体』が詳しく述べている)からの脱却でもある。しかし、この正面突破の自立戦略には副作用もともなうのである。性急に安倍路線を推し進めれば、アメリカ側が米軍を自衛隊の抑止に使うという冷戦時代の「瓶の蓋」論は再燃するかもしれないし、場合によっては外務省もそれに便乗していくだろう。ゆえに、私は安倍的な歴史認識の一部には理解を示すものであるが、それをすべてにおいて肯定はしない。
また、安倍晋三を熱狂的に支持する保守層が、小沢一郎氏に対しては熱狂的に批判的であるというのも、気がかりだし、それらの保守層には単に中国や韓国嫌いの排外主義者も含まれている。そういう「イデオロギー主体」(右翼・左翼論争)の議論をしているうちは、そのイデオロギー的対立が、官僚たちによって、国論分断のためのプロパガンダに利用されるだけだろう。安倍氏にしろ、小沢氏にしろ、政治家の理念というよりも外務省の権益を侵す政治家が官僚にとっては邪魔者なのだ。大衆を分断し、政治家同士の批判合戦だけを際立たせ、その背後で官僚が主導権を握る。
だから、政治家バッシングをマスコミに安易に使わせないようにするためには、メディアを消費する私達が「賢く」ならなくてはならない。マスコミは安倍政権叩きも小沢一郎バッシングも自覚的に行なっており、その結果がどう転んでも責任を取ることはない。
小川榮太郎氏や山崎行太郎氏らのように、政治の最前線ではなく、あえて一歩引いて時勢を評論するのが文芸評論家の役割である。彼らが見抜いた「メディア主導のプロパガンダ政治ショー」がいまの国益を議論することをどれだけ阻害しているのかを、私たちはもっと考えてゆかなければならない。 山崎行太郎氏は、ドイツの哲学者のフッサールの言を借りながら、「先入観や偏見、流行、他人の意見などさまざまな先行情報によって人間は目を曇らされている」と述べている。現在、私たちにその「先行情報」を与えるのはマスコミである。
この二人は、文芸評論家だけに、故・江藤淳氏の言論を多く引いている。安倍を強く支持する小川榮太郎氏が、小沢を支持した江藤淳氏を『約束の日』の終章で引用しているのも興味深いといえよう。
今回はまったく性格が違うとおもわれる小川榮太郎氏の安倍晋三論と山崎行太郎氏の小沢一郎論を取り上げ、その共通点を探ってみた。おそらく、思想的な違いから、一方の読者はもう一方は読んでいないだろうと思うからだ。ご参考になれば幸いです。
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〈来栖の独白 2012/10/10 Wed.〉
共感の書評、心強い。とても良い。以下は些末なことだが・・・。
>小川著に大きな間違いとなって現れた。それは、小沢の秘書団が陸山会事件によって刑務所に入ったと書いてある
興味のないことであっても、ペンで触れる以上は、しっかり調べて事実を書かねばならない。刑務所に入ってもいないものを、「刑務所に入った」と書く。これは大きな怠慢である。読者に対して責任が果たされていない。
が、こういう事例は、案外よくあることかもしれない。私は山崎行太郎の『それでも私は小沢一郎を断固支持する』を発行後いち早く読んだし、ブログも覗いたことがある。ブログのいつだったかのエントリで石原慎太郎氏について、「背後にアメリカがついている」(石原氏はアメリカ寄り)と書いておられた。これは大きな間違いである。石原氏の著書を読めば、氏が一貫してアメリカに抗してきたことは、歴然としている。山崎氏の書かれるものには、案外に誤字(誤変換)も目についた。
小川氏も山崎氏も評論家というが、ちょっと驚いた。
〈附記〉
>『それども私は小沢一郎を断固支持する』、くだらない些細な失言問題で大衆の感心をそらすことを狙う。
>くだらない些細な失言問題で大衆の感心をそらすことを狙う。
赤い字の部分は、誤植だろう。
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◆ 『誰が小沢一郎を殺すのか?』の著者カレル・ヴァン・ウォルフレン氏と小沢一郎氏が対談〈全文書き起こし〉 2011-07-30 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
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◆「メディアには何をやられても、メディアでやり返せばいい。」石川知裕氏と佐藤優氏が緊急対談〈1〉 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
◆「メディアには何をやられても、メディアでやり返せばいい。」石川知裕氏と佐藤優氏が緊急対談〈2〉 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
◆前原誠司外相辞任と『誰が小沢一郎を殺すのか?』〈カレル・ヴァン・ウォルフレン著〉2011-03-07
◆「政治資金規正法を皆さん勘違い。小沢さんがいなくなることはプロの政治家がいなくなること」安田弁護士2011-07-21 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
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