<少年と罪>第9部 生と死の境界で(中)贖罪 「名古屋アベック殺人」(中日新聞2018/3/5)

2018-03-06 | 少年 社会

<少年と罪>第9部 生と死の境界で (中)贖罪 許されずとも続ける 
2018/3/5 朝刊 
 洗濯ロープの端を握り、共犯の少年と思い切り引っ張り合った。数十分間、被害者二人が絶命するまで。「忘れていません。忘れることは、できません」。霜焼けで赤黒くむくんだ両手に視線を落として言った。
 「名古屋アベック殺人」からちょうど30年となる先月23日。19歳だった主犯格の受刑者(49)が、服役中の岡山刑務所で記者の面会に応じた。五分刈りの短髪、やせた体つき。普段は刑務所内の工場で金属部品を加工している。
 昨年12月。工場内の休憩室に張り出された朝刊の記事に目が留まったという。同じ19歳で4人を殺した関光彦=当時(44)=の死刑執行を伝えていた。「人ごととは思えなかった」。自身も1審判決は死刑。「生きていることへの感謝と申し訳なさを感じた」
 1審から7年後の控訴審判決は「未熟な少年による場当たり的な集団犯罪」として、受刑者の反省と強制可能性を認めた。未成年だったことが有利な情状となり、死刑が回避されて無期懲役となった。
 受刑者は当時、名古屋拘置所にいた。自分で購読した新聞で、遺族の無念と社会の厳しい処罰感情を知った。殺された2人は帰ってこない。未成年なら何をしても死刑にならないのか---。並んだ言葉を「当然だ」と受け止めつつ、目をそらしたくもなった。
 「死刑をもって償う覚悟をしていた」とは言う。「犠牲者と遺族のことを思えば、そうするべきだと考えた」。それでも検察が上告を断念し、判決が確定した時に「救われた」と感じたことも事実だった。
 法廷で「命ある限り、おわびし続ける」と語った。岡山に移って5年目の2001年から毎年、刑務作業で得た報奨金の一部と謝罪の手紙を遺族に送り続けている。「感情を逆なでするかもしれない」と分かってはいるが、ほかにやるべきことが思い浮かばない。
 4年目に、遺族の1人から初めて返事が来た。自身が殺した女性=当時(20)=の父親からだった。供養代への礼と、更生への努力を願う内容。「驚いた。うれしかった」。許されたとは思っていないが「もし仮釈放されたら、真っ先に直接おわびに行きたい」。
 同じく殺した男性=同(19)=の遺族から連絡はない。犠牲者の母親は、いまも愛知県内に住む。「息子を返してくれない限り、絶対に許すことはない」。手紙を「中身は毎年、同じことの繰り返し。捨てている」と断じた。謝って済むことではない。
 受刑者は3年前の夏、運動中にくも膜下出血で倒れた。丸一日、意識を失ったという。生死の境をさまよい「命を奪われた2人の恐怖が初めて想像できた」と話す。「遅すぎたけれど」
 大きな後遺症は残らず、昨年は職業訓練で生まれて初めてパソコンを触り、簿記3級の資格も得た。知人への手紙に「社会復帰」とつづるようになった。
 2月19日付けで、今年も遺族へ手紙を送った。「自分の行動が正しいのか、贖罪につながるのか、正直分からない。ただ現実と罪から逃げずにいたい」。面会の終了間際、記者に向けて語った。「どうか今後も、生きざまを見届けてください」(敬称略)

 ◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)

 *【<少年と罪>第9部 生と死の境界で (下)選択 2018/3/6 朝刊】は省略(=来栖)  
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〈来栖の独白 2018.3.6 Tue〉
>「どうか今後も、生きざまを見届けてください」
 例えば、上記のように云う真意を図りかねる。K君(受刑者)への疑義が芽生え、私が面会・発信をしなくなって、数年が経つ。
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◇  <少年と罪>第9部 生と死の境界で(上)市川市「一家四人強盗殺人事件」 (中日新聞2018/3/4) 
【無期懲役 獄死への不安】 死刑を免れた男たち~無期懲役囚の実態~ 岡山刑務所
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