産経ニュース 2018.1.21 16:26更新
評論家・西部邁さん死去、多摩川で自殺か 78歳
21日午前6時40分ごろ、東京都大田区の多摩川河川敷で、通行人から「男性が川に飛び込んだようだ」と110番通報があった。駆けつけた警視庁田園調布署が男性を救助し、病院に搬送したもののまもなく死亡が確認された。
同署によると、死亡したのは評論家の西部邁(すすむ)さん(78)。目撃情報などから自殺とみられ、同署で当時の状況を調べている。
◎上記事は[産経新聞]からの転載・引用です
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◇ 西部邁さん死去 2018.1.21 「俺は本当に死ぬつもりなんだぞ」 自裁死を選択する可能性を示唆
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◇ 『日本を貶めた戦後重大事件の裏側』菅沼光弘著 第4章 安保闘争と左翼陣営の舞台裏
(抜粋)
第4章 安保闘争と左翼陣営の舞台裏
p148~
評論家の西部邁(にしべすすむ 1939-)さんは、1960年の安保闘争のころは、全学連の最高幹部として、安保闘争を指導していました。彼があちこちでよく言っていますが、「あの当時、日米安保条約の条文なんか誰も読んでいなかった」。安保闘争は、言うならば「反米闘争」だったと言っています。
p152~
あの当時の多くの国民はみんな安保反対だったのだけれども、しかし、よくよく考えてみると、前の日米安保条約というのは、サンフランシスコ講和条約調印のとき、吉田首相がただ一人、密室で調印した不平等条約でしたから、岸さんが変えようとしたのは無理もないのです。
その条約では、アメリカは日本を守る義務がない。要するに、ただ「占領中の現状のまま米軍の基地を日本に置く」ということを約束した条約なのですから。そこで岸さんは、「これじゃいかん」というので、「日本を米軍が守る」ということを意味する条文を入れたわけです。だからこれは、本当は日本にとってはいい改定だったのです。反対する理由はない。
では、当時なぜああいう反対運動になったのかというと、やはり反米感情です。あのころの一番若い、学生世代が、戦争中の体験をした最後の世代です。
その上の世代で戦争に参加した人たちは、戦争の悲惨さというのを身近に考えているものだから、安保条約が戦争につながるということを信じていたかもしれない。一番若い世代の学生は、もう単純な反米です。誰も安保条約そのものを読んではいないのですから。しかし、だからこそ、あれだけ盛り上がったのです。
岸信介さんは、東条内閣の商工大臣をやったり、満州でいろいろ活動したりしていましたが、物凄い秀才でした。(略)60年安保のころの世論では、岸さんがどういう人かということをいっさい考えないで、単に、東条内閣の閣僚だった、戦争犯罪人だったというのが先に立つものだから、大変だったのです。
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◇ 世界に恥を晒した「憲法9条ノーベル平和賞」申請 戦争放棄を謳った憲法は99カ国に存在 織田邦男
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西部邁さん死去=多摩川で自殺か、遺書も-警視庁
2018年01月21日 18時13分 時事通信
21日午前6時40分ごろ、東京都大田区田園調布の多摩川で、「人が川に入った」と110番があった。駆け付けた警察官が男性を救出したが、約2時間後に病院で死亡が確認された。男性は評論家の西部邁さん(78)で、警視庁田園調布署は自殺とみて調べている。
同署によると、西部さんは21日未明から行方が分からなくなり、捜していた長男(48)が多摩川に入る西部さんを発見し、通報した。近くの河原に遺書が残されていた。
西部さんは北海道出身。東京大教授などを歴任し、保守派の論客として知られた。評論活動のほか、深夜のテレビ討論番組にもたびたび出演した。 時事通信
◎上記事は[@niftyニュース]からの転載・引用です
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