この憎しみに終わりはない~小沢一郎×和子夫人 『週刊現代』2012/8/4号

2012-07-31 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア

この憎しみに終わりはない 小沢一郎×和子夫人 「妻の復讐」あの手紙のあとで
現代ビジネス「経済の死角」2012年07月31日(火)週刊現代
 夫の許しがたい裏切りを知った時、一度は妻もそれを受け止めようとした。だが、その覚悟は微塵も夫に伝わらなかった。もはや夫婦関係の修復は不可能。妻の逆襲に、今度は小沢氏が怯える番である。
■隠し子を引き取る覚悟
 「和子さんの小沢さんへの復讐が、例の手紙の公開だけで終わるわけがないと、周りは戦々恐々としています。怖いのは、解散総選挙のタイミングです。新党を結成して選挙に臨む小沢さんですが、その直前に"第二弾"が出たら、ただでさえ少ない小沢さんの女性票は、完全に消滅します。小沢さんは終わりです」
  そう慄くのは、小沢一郎"国民の生活が第一"党代表に近い議員の一人だ。
  民主党を飛び出して新党を結成した小沢氏だが、船出は順調とは言えない。
  共同通信の世論調査(7月14日、15日実施)によれば、新党「国民の生活が第一」に対しては、「期待していない」と答えた人が81・8%。「期待している」という人はわずか16・5%で、人気がないというより、はっきりと不人気である。
  凋落の原因は、もちろん民主党離党時のゴタゴタや、それ以前の小沢氏の言動に原因があるが、一方で、直前に発覚した「離婚騒動」の悪影響も否定できない。
  小沢氏は、およそ40年も連れ添った和子夫人に三行半を突きつけられ、のみならず、恨みと怒りに満ちた直筆の手紙を満天下に晒されてしまった。
 〈(地元の)岩手や日本の為になる人間ではない〉
 〈国難の中で放射能が怖いと逃げたあげく、お世話になった方々のご不幸を悼む気も、郷土の復興を手助けする気もなく、自分の保身の為に国政を動かそうとするこんな男を国政に送る手伝いをしてきたことを深く恥じています〉
「手紙」には、小沢氏は人間のクズであると言わんばかりの怒りに満ちた言葉が綿々と綴られていた。
  実はこの手紙にも綴られていた小沢氏の"秘密"について、地元の岩手県奥州市(旧水沢市)では、驚くべき情報が流れている。
  和子夫人を中心とした、小沢氏の女性支援者の集まりだった「水和会」のメンバーだった女性の一人は、本誌の取材にこう語った。
 「ここら辺でも、『和子さんから手紙が来たよ』って言う人があちらこちらでいる。だども、なんで和子さんはあんな手紙をばら撒いたのかねえ。私ら女は同情するけども、老いてから今さらこんなこと……。
  そういえば、水和会の中で聞いた話です。手紙には、小沢さんの愛人や隠し子のことがありましたよねえ。実は、和子さんはそれを知ったとき、覚悟を決めて『その愛人から子どもを引き取って私が育てる』とまで言ったそうなんです。でも、小沢さんから『そんなのダメだ』と反対され、そこから本当に関係がおかしくなったんだって。
  本当かどうかは知りませんが、周りでは『本当だと思う』ってことで話が伝わっているんです」
  小沢氏には、和子夫人と出会う前から深い関係のあった、有名料亭の若女将(当時)がいた。
  夫人の手紙によれば'02年ごろ、別の女性との間に隠し子がいることが発覚。すでにその時点で、子どもは二十歳を過ぎていたという。小沢氏はその子を元女将に預けたうえ、〈一生、毎月金銭を払う約束で養子にさせた〉とされる。
  当然、この件で夫婦間に大きな亀裂が生じたが、小沢氏は夫人を〈どうせ、お前も地位が欲しかっただけだろう〉〈お前に選挙を手つだってもらった覚えはない。何もしていないのにうぬぼれるな〉などと罵倒し、
 〈あいつ(元女将)とは別れられないが、お前となら別れられるからいつでも離婚してやる〉
  と言い放ったという。
  夫人の手紙には、この暴言が小沢氏を見限る決定的なきっかけになったと記されている。ところが、それほどまで屈辱的な思いをしながら、和子夫人は気丈にも隠し子を、「小沢家の子」として引き取る覚悟までしていたというのか。
■すべてを捧げてきたのに
  小沢家と和子夫人のことを知る関係者の一人は、こう話してくれた。
「和子夫人はそれまで、本当に献身的に、政治家・小沢一郎の銃後を守ってきました。選挙活動で有権者との握手を頑張りすぎ、手を腱鞘炎で腫れ上がらせてしまったくらい、地元・水沢で尽力してきました。そんな和子さんだから、一度はすべて呑みこみ、隠し子すら受け入れようとした可能性は十分にあります。
  ただ、小沢さんはもともと、和子夫人のそうした気持ちなど、一顧だにしない人だったのでしょう」
  小沢氏は夫人を、「何もしていない」と罵倒したというが、本当にそう思っていたのならば、あまりに無知で身勝手が過ぎる。
  和子夫人と水和会で活動していた主婦・岩田文子さん(仮名)はこう話す。
 「私も後援者の人たちと一緒に、東京の和子さんの自宅に行ったことがあります。そのときは、大根サラダや煮つけを和子さんが作ってくれたのかなあ。東京から横浜とか、観光で和子さんと一緒に回ったこともあります。日光東照宮に行ったこともありました。
  和子さんは、そういうときにも私たちに気を遣って、全然、お高くとまるとかそういう部分がない人ですよ。でも、選挙のときには気丈に振る舞って。腱鞘炎で握手できなくなったときも、『握手したいのですが、手が痛くてすみません』って言いながら、挨拶周りをしていました」
  また、同じく水和会で活動をしていた大泉洋子さん(仮名)も、夫人の思い出をこう語る。
 「気丈だっていう人もいますけど、私にとっては優しいし、涙もろいところもある人で……。いつだったか、選挙のときに和子夫人が奥州市文化会館で演説なさったことがあるんですけど、疲れもあって胸がいっぱいになったのか、『小沢の家内でございます。皆さん本当にご苦労様でございます』って、泣きながら挨拶したこともあって。その後も、『小沢をお願いします、お願いします』って言いながら皆さんと握手するんですけど、手は腫れ上がっちゃってね……」
  支援者が子息の結婚式の来賓として小沢氏を招いた際には、代理で和子夫人が出席し、「そんなことまでしてくれる政治家の奥さんなんていない」と、親戚一同を感激させたという。
  また、夫人中心の水和会ではなく、小沢氏本人の後援会組織「一雄会」の関係者によれば、「毎年定期的に、新潟の和子夫人の実家から、オカキが贈られてきた」という。夫人の実家とは、小沢氏の壮年期を資金的にバックアップしていたとされる、新潟県の中堅ゼネコン・福田組。夫人は実家も巻き込み、まさに"すべて"を政治家・小沢一郎に捧げてきたのだ。
  だが、結婚から数十年して発覚した隠し子問題に際し、夫から与えられたのは、謝罪の言葉でも、もちろんねぎらいの言葉でもなく、開き直ってすべてをぶち壊しにする暴言だった。
〈頑張ってきたという自負心が粉々になり、一時は自殺まで考えました〉
 支援者にそう訴えるほど、和子夫人は心に大きな傷を負ってしまった。
■「剛腕」が恐れていること
  本誌は今回、和子夫人がひそかに所有していたと思われる、東京・千代田区のマンションの一室も訪ねたが、夫人の姿はなかった。夫人同様、小沢氏のこれまでの仕打ちに対して強い憤りの感情を抱き、夫人に付き添っているとされる次男の姿もそこにはなかった。
  和子夫人は今、何を考え、新党騒ぎを起こした小沢氏の言動を見つめているのか。
  民主党幹部はこう語った。
 「小沢夫婦が手紙にあった通りに離婚したのか定かではありませんが、実際にそうなれば、小沢氏に明らかに多大な非がある以上、慰謝料として巨額のカネを取られる。有権者の反感以上に、新党結成に際して"金欠"を囁かれた小沢氏にとって、大きなダメージになるでしょう」
  7月に公開された国会議員の所得報告書('11年分)によると、小沢氏の年間所得の総額は4548万円。ただし議員としての給与所得は1546万円で、残りの約3000万円の大半は、新興宗教団体「ワールドメイト」の教祖が代表を務める「菱法律経済政治研究所」の顧問料だ。収入の半分以上をこうした団体に頼っている現実が小沢氏の懐事情を物語っている。
  だが問題は、不動産だ。小沢氏は東京・世田谷区深沢の自宅、岩手県奥州市の実家、港区青山のマンションなどを所有しているが、それだけではない。
 「明らかな個人資産に加え、小沢氏は別途、自分名義で10億円を超える不動産を持っています。個人事務所がある赤坂のマンション(約1億7000万円)など6戸と、世田谷の自宅近くにある約4億円相当の秘書寮です」(小沢氏の資産問題に詳しいジャーナリスト)
  これらの不動産は政治資金で買い漁っておきながら、小沢氏の個人名義になっていた曰くつきの物件だ。'06年6月3日号の本誌記事『小沢一郎民主党代表の"隠し資産"を暴く』で明らかになり、小沢氏は本誌を訴えるも敗訴。その間に国会で取り上げられ、政治資金規正法が改正され、小沢氏は赤坂周辺のマンションを次々と贈与・売却した。その残りが、前出の約10億円分の不動産である。
  前出のジャーナリストがこう語る。
 「これらの不動産について、小沢氏は自身の政治団体『陸山会』のものだと主張していますが、裁判所は所有者についての判断を留保している状態です。もし、和子夫人が『小沢個人のものだから慰謝料として要求します』と主張して裁判を起こしたら、裁判所の判断によっては、これらのマンションの大部分が、和子夫人のものになる可能性がありますね」
  民主党から追い出され、資産は和子夫人に持っていかれ、いまや身ぐるみ剥がされる寸前の帝王。政界に怖いものなし、肩で風を切ってきた男が、いまは夫人の"最後の一刺し"に怯え続けている。
 「週刊現代」2012年8月4日号より
======================================================
小沢一郎支持者 拡大中 政治資金パーティー、過去最高の集客866人 「日刊ゲンダイ」2012年7月28日 
===========================================
本物だった 小沢夫人の離縁状  
==================================================
小沢家の悲劇「妻・和子の手紙」の真相 週刊ポスト2012/7/6号(2012年6月25日発売) 

        

小沢家の悲劇「妻・和子の手紙」の真相 
週刊ポスト2012/7/6号(2012年6月25日月曜日発売)
 政治家とて人間である。人に知られたくないプライバシーもある。それが政治家としての資質や政治活動の理非曲直に関わるのであれば、国民にはそれを知る権利がある。報道が社会の木鐸として政治家の私生活を取材することは悪ではない。
 ただし、政治家のプライバシーが公共の問題たりうるという名分をいいことに、政治謀略や個人攻撃の材料にすることは許されない。そう思う。日本の権力構造に詳しい政治学者のカレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、政界、マスコミ界、さらには司法界まで一体となった小沢一郎氏への個人攻撃を「人物破壊」と指摘し、世界の政治史に残る重大な汚点だと厳しく論難した。
 消費増税、原発再稼働、さらに政界再編の胎動が重なったこのタイミングで小沢氏に降りかかった夫婦の重大問題は、それだけ見れば報道に値するテーマであるとしても、なぜそれが「今」なのか、「小沢」なのかを考えると、背景に見え隠れする日本のグロテスクな権力の暴走を看過するわけにはいかない。
 政治の節々に結節する小沢問題。小沢に何が起きたのか、政治謀略に終止符を打つ真実をここにレポートする。(文中敬称略)

小沢を苦しめた和子の変調
 今から数週間前、小沢和子から1通の書簡が小沢に届けられた。文面を一読した小沢は、
「来るべきものが来た」
 と覚悟を決めたに違いない。政治家として、あるいは一個人としても、小沢は親しい者によくこう語る。
「俺は人として、男として、妻と家族を守る事を第一に考える。家族を守り、そして地域社会を守り、その延長線上で国家を守ることが政治の根幹でもある」
 その信条からして、書簡は小沢に忸怩たる思いを抱かせるものだった。関係者らの話によれば、和子からの慰謝料の協議を求める内容と思われる。
 それはつまり、法的に離婚手続きが取られた事を意味している。
 実は小沢は数年ほど前から離婚の問題を妻・和子に委ねていたという。本当に離婚の意思があったかは余人の知るところではない。そうすることで、一時は和子も心の平穏を取り戻したかに見えた時期があり、夫婦の関係は小康を保っていたらしい。
 小沢は人知れず苦しんできたと思われる。ある時は、こんな言葉を吐いた。
「すべては俺の不徳だ。妻を守れない。家族を守れない。そんな人間が、何の政治家であるものか。天下国家を語れるものか」
 聞く者には苦悶に満ちた自問自答の苛烈な心象風景を思い浮かべさせる。小沢を近くで見てきた者には驚くべき変調と映った。家族、コミュニティ、国家を守ることを同心円の問題と語ってきた小沢にとって、一見、筋の通った話にも聞こえるが、しかしこれまで、どんなに自分や家族がマスコミの集中砲火を浴びても、事実でない誹謗中傷を浴びせられても、天下国家のためには耐え忍ぶしかないとしてきた小沢の態度とは明らかな段差を感じさせた。
 小沢の変調は、和子の変調と軌を一にしていた。
 家族愛に燃え、政治家・小沢を支える一点に人生を懸けてきた和子との二人三脚は大きく歪み、音を立てて崩れ、その度を深くしていたのである。
 何があったのか。その始まりは和子の「もうひとつの家族愛」と無関係ではなかっただろう。小沢との間に生まれた3人の息子と同じように、親同然に愛してきた実弟(福田実・福田組社長)が、03年、癌で突然この世を去ったことと符節を合わせている。54歳の若さだった。続くように実父・正も09年逝去。和子は激しく動揺した。
 最愛の肉親を2人失った寂寥感、心の空洞を小沢にぶつけたとしても、それは責められるべきことではないだろう。多くの女性にとって、親を失う時期は、心身の変調に苦しむ人生の壁と重なる。そこに愛する弟の死が重なり、心のありようや家族の形にも変化が生まれることは、どの家庭にも起こり得る。
 小沢と和子の間で、どのような衝突、格闘があったかは、すぐれてプライベートな問題だ。そこに踏み込むことは報道としても意味をなさないが、結果として、数年の時間を掛けて2人の関係は修復できないものになってしまった。
「別居」と政権奪取の狭間
 和子の変調は小沢の地元や支持者の間では早くから知られていた。
 それまでの和子は、永田町での活動に集中する小沢の代わりに、文字通り「金帰火来(きんきからい)」で毎週のように選挙区に帰って、いわゆる「票田の草刈り」に没頭した。後援会を切り盛りし、有権者の声を聴き、それを小沢に伝えた。小沢も和子を政治的にもかけがえのないパートナーと頼り、和子が岩手から戻ってくる日には、いつも利用していた夜10時着の新幹線を東京駅で迎えることが習いとなった。
 一方で、これも多くの家族が抱える問題として、小沢の母・みちと和子の微妙な関係も存在した。みちは夫・佐重喜、そして息子・一郎を支えた鉄壁の後援会を築き上げた原動力だった。その自負と小沢への愛が、あるいは和子を嫁として迎える心のハードルになっていたのかもしれない。
 やがて、みちが病に倒れてからは、後援会を支える重責は和子の双肩にかかり、和子はその役目を見事に果たしたが、病床のみちは和子を完全に受け入れはしなかった。その献身的な看護を拒否することもあったという。時には医療スタッフの世話さえ善しとしない頑迷さを見せたとされる。
 当時、若き自民党幹事長として飛ぶ鳥落とす勢いだった小沢は、妻と母の確執の間で、母の介護という難題も抱えることになった。時には、小沢自ら母の口に食事を運ぶこともあった。
 みちは95年に他界した。
 それからの和子は、小沢王国の大黒柱として駆け回ったが、その頃から政界、マスコミ界の絨毯爆撃のような小沢への人物破壊が激しさを増し、和子の使命感や誇りにも影響を与え、心身の屈折を生じさせたようだ。
 和子の言動に変化が生じてきたことは、家族だけでなく、後援会でも心配の種になった。日に日に変わっていく姿に周囲の心痛は大きかったに違いない。小沢にも悔恨が沈殿していった。時にはありもしないことを口走り、根も葉もない中傷と知る噂で小沢を激しくなじることもあったという。
 自分の内面、ましてや家庭の“阿鼻叫喚(あびきょうかん)”の様を語ることなどありえない。内なる葛藤を抱えながら小沢は政権奪取にひた走った。それを止めることは誰にもできない。それこそ小沢における政治家の摂理なのだ。夫婦の関係は難しくなるばかりだった。
 やがて和子は世田谷区にある小沢邸の敷地内に別棟を建て、そこで生活するようになった。それが「別居」と報じられたこともある。
 和子は、あんなに心血を注いできた後援会活動にも、実弟が亡くなった10年ほど前から、ぷっつりと姿を見せなくなって家に閉じこもるようになった。これは後援会関係者なら誰もが知る事実だ。「小沢家の問題」を取材するマスコミも、きちんと地元に行けば簡単に確認できるはずである。
 その頃でも小沢は、毎夜9時過ぎには自宅に帰ることを決め事にしていた。和子との会話はほとんどできなくなっていたが、それでも、指呼の間(しこのかん)にいる和子が昔日のように「パパ!」と声を掛けてくるかもしれない。そんな期待も秘めていたのだろう。
 しかし現実の和子は、ますます猜疑心や妄想にとらわれるようになり、最も信頼している次男以外の言葉は受け入れないほどに憔悴を見せるようになった。いきなり秘書に小沢のスケジュールを詳細に報告させ、その立ち寄り先に片端から連絡して、「小沢は本当にそこに行ったのか」と詰め寄る異常な行動が周囲を驚かせる“事件”も起きた。
 次男と小沢の関係にも暗雲が立ち込めた。和子の心を救いたいと、実家である福田家の関係者が話し相手になって支えた時期もあったが、そうした努力は誰の目にも不毛で、和子を訪れる人は少なくなっていった。
 父と母、父と弟の間に立って辛苦を引き受けてきた長男も、ついに家を出る決心をした。
 そして小沢は、求められるまま和子に離婚のフリーハンドを与えた。家族の絆を取り戻すことはますます難しくなった。
「手紙」に書かれた数々の矛盾
 半年ほど前、小沢後援会の婦人部の何人かに、「小澤和子」から手紙が届いた。
 すでに『週刊文春』が報じ、その直後に何者かが文面のコピーをネットに広く流出させたものだ。そこには小沢への激しい非難と離婚の事実が綴られていた。
 手紙が和子の手によるものか真贋はわからない。書かれた内容には、明らかに事実ではないことも多い。
 数年間、「別居」していた和子が「小沢邸での政治密談」を暴露してみせたり、小沢家の所有する不動産に関する記述が間違っていたりと、少なくとも正常な判断ができる状態なら書かない内容が多く見られる。かつて一部の新聞、通信社が「スクープ」と報じ、事実は違った「総選挙で小沢が京都から出馬する」という捏造情報をそのまま書いていることも不自然だ。
 人物破壊に加担する多くのマスコミは、手紙の内容を確認しないまま事実であるかのように報じているが、それを信じる国民の間で最も批判の強い「大震災の際に放射能を恐れて逃げようとした」というくだりは明らかに常軌を逸している。なぜなら、震災の少し前から和子の変調は激しくなっており、現在まで1年以上も小沢と会話も交わせない状態が続いているからである。放射能から逃げる、逃げないで小沢と揉めたという記述には疑問がある。
 そもそも手紙では、放射能から逃げたい小沢が地元には近づこうとせずに「長野の別荘地」に避難場所を購入したというのだが、仮に「別荘地」が軽井沢だとすれば福島第一原発からは約250km、ちょうど岩手県都・盛岡までと同じ距離である。さらに震災後に千葉で釣りに興じたという記述もあるが、これも東京より原発に近く放射線量も多い地域なのだから、事実とすれば小沢の行動はあまりにも支離滅裂である。
 付言すれば、現実には震災直後の小沢は地元対応に寝る間もなかったようだ。これもマスコミは知り尽くしているはずだが、地元・岩手は、達増拓也・知事はじめ県政中枢部に小沢派が多い。彼らが震災対応で小沢に刻一刻と報告を入れ、政府への橋渡しや支援を要請していたことは誰でも想像できるはずで、実際、県政関係者はそう本誌に明かしている。しかし、人物破壊勢力は、あえてそうした常識的な判断から目を背け、確認取材もしないまま「和子の手紙」を事実として垂れ流すのである。
 また、「離婚した」としながら、旧姓の「福田和子」ではなく「小澤和子」と署名していることも奇異な印象を与えていた。
究極の狙いは「骨肉戦争」?
 ある後援会の関係者は、書かれた内容そのものより、和子の心がそこまで深刻な状態になってしまったのかと衝撃を受けた。また、達筆で知られた和子の直筆にしては、あまりに筆が乱れていること、さらに内容がこれまで小沢への攻撃材料にされた”疑惑”をなぞるように書かれていたことから、「何者かが捏造したものではないか」と疑う関係者も少なくなかった。
 ただし、事実として明らかなのは、冒頭に書いたように和子が小沢との離婚を決意し、慰謝料の協議を申し入れたことだ。その点で、手紙には重要な部分で真実が書かれている。
 人物破壊を進める勢力にとっては百万の味方を得たようで、欣喜雀躍とする様子を隠そうともしない。
 手紙が報じられる2週間ほど前、人物破壊の工作に深く関与してきた政界関係者が、「いよいよ小沢を潰す時がきた。息の根を止めるものすごい情報が近く報道される」と、一部政界関係者に触れ回っていた事を本誌は確認している。そして前述のように、報道の直後から、タイミングを計ったように文面のコピーがネットに流出した。政界でよく見る怪文書による「紙爆弾」の手法である。
 手紙の内容にも、この紙爆弾の性格を窺い知るヒントがある。
 なぜ、数年来、没交渉だった後援会に宛てられたのか。また、「慰謝料を取れば、それを岩手に寄付したい」と書かれたのか。
 ある後援会関係者は、「これは小沢家の悲劇の始まりになるかもしれない」と苦痛の表情を見せた。
「書かれた内容は後援会の人間ならデタラメがほとんどだとわかるものだが、和子さんと、それを支える次男が小沢先生に反旗を翻している事実は変わらない。誰かに唆されて書いたものか、あるいは捏造されたものかにかかわらず、私たちが心配するのは、このアクションが後援会と地元に向けられた点だ。家族の問題で小沢先生の政治生命に打撃を与えようという意図がはっきり出ている。それを望む人たちは、例えば次男や和子さん自身を小沢先生の対抗馬として擁立して泥沼の骨肉戦争をさせるなどして、小沢先生を決定的に痛めつけようとするかもしれない。
 そうなっても、たぶん小沢先生は家族と争うことはしたがらないだろう。引退とは言わないかもしれないが、ある意味では検察の捏造した政治資金問題以上に苦しい問題になる」
 その懸念が現実になるかはわからないが、離婚が事実である以上、そして政治資金問題がマスコミや権力者による捏造だったと判明した今、家族の問題が人物破壊の主要テーマになっていくことは間違いなさそうである。すでに、新聞、テレビニュース、ワイドショー、果ては国会での野党質問にまで「和子の手紙」は利用され尽くしている。
 妻や息子から恨まれる小沢は、本人が言う通り不徳のそしりは免れないかもしれないが、その家族の問題さえ、執拗で容赦のない人物破壊の結果だったという面が否めないことは、まさに悲劇である。
 この国の政治と権力のどす黒い醜態は、ウォルフレンが言うまでもなく、世界の日本不信の根本原因になっている。それに振り回される有権者、国民もまた悲劇の当事者である。
===========================================
小沢一郎 妻からの「離縁状」全文 週刊文春6月21日号

           

===================================================
前原誠司外相辞任と『誰が小沢一郎を殺すのか?』〈カレル・ヴァン・ウォルフレン著〉 

          

p47~
 歴史が示すように、日本では政党政治は発展しなかった。しかも1世紀以上を経たいまなお、それはこの国にとって大きな問題であり続けている。だからこそ民主党は与党となっても悪戦苦闘を続けているのだ。政党政治が発展しなかったからこそ、軍事官僚が、当時の日本の10倍にも達する産業基盤を有する国アメリカを相手に戦争をはじめても、それに対して日本はなんら対処することができなかったのだ。
p48~
 小沢氏をはじめとする改革派政治家たちはみな、彼らにこそ国家を運営する権利があり、義務があると信じている。官僚が国に滅私奉公する善なる存在であるなどと、彼らはもちろん考えてはいない。我々が一歩退いてみるとき、小沢氏のような政治家をつぶそうとするメカニズムは、近代国家の道を歩みはじめたばかりの当時の日本で、すでに機能していたことがわかる。つまり日本の近代化が推し進められるのとときを同じくして、政治家に対する陰謀も進行していったということだ。そして小沢氏こそ、この百数十年もの長きにわたり、連綿と続けられてきた陰謀の犠牲者にほかならないのである。
p50~
 そして体制の現状維持を危うくする存在であると睨んだ人物に対して、その政治生命を抹殺しようと、日本の検察と大新聞が徒党を組んで展開するキャンペーンもまた、画策者なき陰謀にほかならない。検察や編集者たちがそれにかかわるのは、日本の秩序を維持することこそみずからの使命だと固く信じているからである。そして政治秩序の維持とは旧来の方式を守ることにほかならない。そんな彼らにとって、従来のやり方、慣習を変えようとすることはなんであれ許しがたい行為なのである。この種の画策者なき陰謀で効果を発揮するツールこそがスキャンダルである。そして検察や編集者たちは、そのような人物があらわれたと見るや、まるで自動装置が作動しているのではないかと思えるほどに、予想に少しも違(たが)わない反応を見せる。
p60~
 欧米諸国を参考とした大日本帝国憲法もほかの法律も、専制的な権力から国民を守ることを想定したものではなかった。つまり日本の当局は欧米の法律を参考にしはしても、その「精神」を真似ることはなかったというわけだ。そして今日、もちろん不当なあつかいから国民を守るべきだという理念はあり、それが過去数十年で強められてきてはいても、現実には、それはいまなおきわめて曖昧模糊とした感情の領域に押しとどめられている。そのため大抵の日本人はいまだに、法律というのは単に政府が人々の行動を抑制するための手段なのだ、と見なしている。これに関して忘れてはならない事実がある。東京大学法学部というのは、日本の政治システムの最上部を占める高官を輩出することで知られているわけだが、その教授陣はいまだに法律を官僚が統治に利用する手段にすぎないととらえている。そして彼らはそうした視点に立って、学生に教え続けているのである。要するに、時代が変わったとはいえ、法律は権力エリートが用いるツールであるとする見方は、日本では以前とまったく変わっていないということなのだ。
 また日本の官僚たちの間では、自分の目的を達成するために、法律のなかから適切なものを選び出すという習慣が長いこと続いてきた。そして自分たちの計画が法律の文言に抵触しかねない場合は、実に巧に新しい解釈を考え出す。このように日本では、法律というのは当局にとって、あくまでも秩序を維持するためのツールでしかない。そのため、国民みずからが与えられているはずの権利を政治システムの上層部に対して主張する目的で、法律を利用するよう奨励されているなどということは決してないのである。
p64~
 1960年代と70年代に日本の政治、そして権力構造について研究していた時期、私はそのようなやり方が繰り返し行われていることに気づいた。だからこそ日本の政治・経済について初めて執筆した著書〔『日本/権力構造の謎』〕のなかで、「法を支配下におく」という1章を設けたのだ。
 私はそのなかで、権力者の独り歩きを可能にするような方法で、日本では法律は支配するのではなく、支配されているのであって、この国の権力システムにおいて、法律は政治に関して許容すべきこととそうでないことを決定づける基準にはなっていない、と説いた。すなわち独り歩きをする日本の権力システムに対して、異議を唱え、改革を加えようとする者を阻止するような仕組みがある、ということだ。本書のテーマに当てはめて解説するならば、小沢氏のような野心的な政治家、あるいは彼のように改革を志す政治家が将来何人あらわれようと、現体制はあくまでそれを拒むというわけだ。
 いま、小沢氏の政治生命を抹殺しようと盛んにキャンペーンが繰り広げられているのも、これによって説明がつく。
p65~
 99・9%という「無謬」
 中立的な権威としての法律を日本の政治システムから遠ざけておくやり方はそのほかにもいくつかある。法律が非公式な政治システムに対して、なんら影響をおよぼすことが許されないとしたら、ではなにがシステムをつかさどっているのか?。それは暗黙の了解事項、つまり不文律であり、記憶のなかで受け継がれる古い習慣だ。裁判官もまた体制に大きく依存している。最高裁事務総局に気に入られるような判決を下さなければ、地方に左遷されかねないことを、彼らは考えないわけにはいかない。戦前、戦後を通じて日本の裁判官たちは、法務省のトップクラスの検察官を恐れてきた。これが99・9%という人間の検察の有罪判決率を可能にした理由の一つである。
 つまり、みずから裁判にかけたケースで99・9%の勝利をおさめるに日本の検察は、事実上、裁判官の役割を果たしているということになる。つまり、日本ではわずか0・1%、あるいはそれ以下に相当するケースを除いては、法廷に裁判官がいようといまいと、その結果に大した違いはないということだ。
p68~
 しかし日本に関してもうひとつ気づいたことがある。それは社会秩序を傷つけかねないどんなものをも未然に防ぐという検察の任務が、政治システムにおいても重視されているという事実だ。当然、そのためにはシステムの現状を維持することが必要となる。問題は、現状をわずかでも変える可能性があると見れば、どんな人間であっても既存の体制に対する脅威と見なしてしまうことである。そのような姿勢は当然のことながら、小沢氏のみならず、日本という国家そのものにとっても望ましいものではない。なぜならば多くの日本人は長い間、権力システムの改革が必要だと考えてきたからだ。後述するが、自民党と日本の秩序をつかさどる人々との間には、一種、暗黙の了解のようなものがあり、それが50年にわたって保たれてきたのだろう。そして自民党が政権の座を追われたいま、単に自民党とは行動の仕方が違うという理由で、体制側は民主党を、小沢氏という個人とともに、脅威を与える存在と見ているのだ。
-------------------------------------------
『誰が小沢一郎を殺すのか?』の著者カレル・ヴァン・ウォルフレン氏と小沢一郎氏が対談〈全文書き起こし〉
--------------------------------------------
「小沢の次はあいつだ」と永田町でふれ回る謀略の走狗 週刊ポスト2012/07/20-27号 
「小沢を殺った!」とハシャぐ背広を着たもののけたち 週刊ポスト2012/07/20-27号 
いまこそ、小沢一郎氏に期待する~久しぶりに政治の世界が面白くなってきた


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。