関連; 死刑か無期懲役か/刑事裁判は、遺族のためにあるのではない 後藤昌弘(弁護士)
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闇サイト 死刑回避の理由とは
中日新聞【社説】2011年4月15日
名古屋市内で女性を拉致殺害した闇サイト仲間三人のうち、一審死刑の被告を二審は無期懲役とした。一人はすでに死刑が確定しており、司法の判断が分かれた。死刑の重さをあらためて考えたい。
ネットの闇サイトで知り合った男三人が、金目的で見ず知らずの女性を拉致。現金やキャッシュカードを奪ったうえ、頭をハンマーで三十回も殴り、ロープで絞殺するという残虐な事件だった。
名古屋地裁は二人を死刑、自首した一人を無期懲役とした。一人は控訴を取り下げ、すでに死刑が確定。名古屋高裁は「最も重要な役割を果たした(死刑囚と)全く同等にまでみられない」と一審の死刑判決を破棄し、二人とも無期懲役とした。
死刑の適用について、最高裁が一九八三年に示した「永山基準」に「動機」「被害者の数」など九項目が盛り込まれて以降、残虐で特殊な事件以外は、被害者が複数の場合、死刑判決が出る傾向があった。高裁はそうした判例の流れに沿った判断をしたといえる。
だが、死刑破棄に十分な説明を尽くしたと言えるだろうか。一、二審とも無期懲役の被告については、殺害行為への関与が低いことや自首などが量刑で考慮されており、一定の理解は得られよう。一方、高裁は「(死刑囚が)主犯で、被告人両名が従属的であったといえるほどの明確かつ重大な差があるとはいえない」と言い、死刑を回避した理由に十分な説得力があるとはいえない。
極刑を求める被害者の母は「判決は娘の命より被告らの命の方が重いと証明した」とおえつした。プロの裁判官でも判断が分かれたケースだけに、高裁は死刑破棄の理由を、もっと丁寧に説明すべきではなかったか。死刑と無期懲役では天と地ほどの差があり、高裁は死刑を選ばなかった理由の一つとして矯正可能性を強調した。一方、被害者の母は「被告が私の方に向かって頭を下げたのは一回だけ」と話し、反省を一切感じないと明かした。
死刑のある今の法制度の下でも、究極の刑罰である死刑の選択には格別に慎重でなくてはならない。市民感覚を反映させるため裁判員制度がスタートした。昨年十一月には横浜地裁で裁判員裁判としては初めて、男性二人を殺害し遺体を捨てた被告に死刑判決が出された。今後も市民が死刑選択の是非を迫られる場面もありえるだけに、死刑の重さはわれわれみんなの課題だ。
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〈来栖の独白〉
闇サイト殺人事件2審判決(2011/4/12)について、少しく卑見を述べてみたい。
そのまえに、(上掲)社説子の言われる「市民感覚を反映させるため裁判員制度がスタートした。」との文脈であるが、裁判員法1条は裁判員裁判の目的を「国民の理解の増進と信頼の向上」と定めており、社説子や最高裁、法務省の言う「国民の常識を裁判に反映させる」とは書いていない。裁判員裁判の目的が「国民の理解の増進と信頼の向上」である以上、それはすでに相当程度、達せられたのでは、とも思う。
・卑見 闇サイト殺人事件2審判決に思う
1、名古屋高裁 下山裁判長の考えのなかに、「死刑」は確かに含まれていた
高裁判決前に争点と目されたのは川岸被告の自首がもたらす量刑への反映であったが、判決が出てみると、「堀、川岸両被告とも無期懲役でよいのか」というところに移ったような感じを私は受けた。「2人とも」(全員)無期懲役でいいのか、という量刑に対する世論の不服である。自首についての議論は忘れられた。置き去りにされた。
あくまでも私の感想であるが、そもそも名高裁 下山裁判長は、本事件において死刑判決が出なくてよい、とは考えておられなかったのではないか。裁判長が判決理由の中(▽犯行態様)で縷々述べておられるように、男3人が1人の女性を拉致監禁、恐怖させ、命を奪った罪は重い。中心的役割を果たした1名は死刑判決を免れない、そう考えていたのではないか。(▽量刑判断で)次のように言っている。
“神田司死刑囚が計画段階でも殺害の実行行為でも最も重要な役割を果たしたという点は原判決が示す通りである。”“両被告が殺害で果たした役割には、神田死刑囚と差があることは否定できない。川岸被告が他の2人より関与の度合いが低く”
神田死刑囚は控訴を取下げて死刑が確定しているため、下山裁判長が控訴審で量刑を言渡すことはなかったが、もし未決で在廷していたなら、下山裁判長は死刑を宣告したのではないか。宣告したに違いない。無期懲役を言渡した2被告と神田氏との罪の重さの違いをあれほど明瞭に区別し、説明してみせたのだから。言渡しこそなかったけれど、2審下山裁判長の考えのなかに「死刑」は含まれており、死刑相当事件との認定は確かにあった。
2、被害者感情・厳罰化
「永山基準」と言われるものから世間一般が受け止めている数量的機械的なイメージに私は違和感をもっているが、それは別にして、被害死者1名という本事件で3名に死刑を下すのは如何なものか。今や世論の如くになった被害者感情と厳罰化の声に押された、というほかないように思う。そういった世論、厳罰化をそのまま描き出したのが、先月3月10日の最高裁判決であった。木曽川長良川リンチ殺人事件である。少年事件であったが、最高裁は3被告全員に対して死刑を言い渡した。
上告棄却という「司法」判断を受けてマスコミは「行政官」となり、更生可能性はなくなったとして3被告の実名報道に踏み切った。中日新聞はそうではなかったが。
闇サイト殺人事件の被害者遺族が堀・川岸両被告の無期懲役判決に無念な気持ちは、鈍い私にも分からないではない。けれど、刑事司法は被害者のためにあるのではない。被害者自身による報復や、被害者個人の損害回復のための制度ではなく、犯罪を抑止することと同時に犯罪を犯した人の改善更生を実現することを目的としている。
刑事司法への被害者参加について、ジャーナリストの菊池歩氏は、【「公益」色あせる検察 光市母子殺害事件と被害者の存在感の高まり】のなかで、次のように言う。
“この10年間、刑事司法での被害者の存在感は高まり、検察官の職域に被害者が同席するようになってきた。2000年に成立した犯罪被害者2法で被害者の意見陳述権が認められた。2004年には刑法、刑訴法が改正されて重大犯罪の法定刑が重くなり、公訴時効が長くなった。同時に制定された犯罪被害者基本法を受けて司法への「被害者参加」が計画され、2007年の法改正によって被害者が検察官の横に座って被告人に質問したり証人尋問したりすることができるようになった。
ところが、こうした被害者参加については検察を含む司法当局内からも歓迎の声が少ない。「本来、そういうものではない。世論の力に押された」「被害者参加を強く求める被害者の人たちの声が一時期非常に高まったのが大きい。本当はどうかと思う。導入の流れが決まった後になって、被害者の人たちも含めて慎重論が急に出てきたのだが、遅すぎた」という声が漏れてくるのである。
被害者運動が、厳罰に偏りすぎているという声が検察幹部から聞こえてくることすらある。”
3、永山基準
いわゆる「永山基準」の理念は「『死刑にするなら』、それ相応の理由がないといけませんよ」というものだが、世間が受け止めている理解は、「『死刑でないなら』、それ相応の理由がないといけませんよ」と転倒してしまったようだ。この辺り様子を 「凶悪犯罪」とは何か(1~4) 【2】 光市事件最高裁判決の踏み出したもの から見てみたい。
“ 光市の最高裁判決は、永山判決を踏襲したと述べていますが、内容は、全く違うんですね。永山判決には、死刑に対する基本的な考え方が書き込んであるわけです。死刑は、原則として避けるべきであって、考えられるあらゆる要素を斟酌しても死刑の選択しかない場合だけ許されるんだという理念がそこに書いてあるわけです。それは、永山第一次控訴審の船田判決が打ち出した理念、つまり、如何なる裁判所にあっても死刑を選択するであろう場合にのみ死刑の適用は許されるという理念を超える判決を書きたかったんだろうと思うんです。実際は超えていないと私は思っていますけどね。でも、そういう意気込みを見て取ることができるんです。ところが今回の最高裁判決を見てくると、とにかく死刑だ、これを無期にするためには、それなりの理由がなければならないと。永山判決と論理が逆転しているんですね。それを見てくると、村上さんがおっしゃった通りで、今後の裁判員に対しての指針を示した。まず、2人殺害した場合にはこれは死刑だよ、これをあなた方が無期にするんだったらそれなりの正当性、合理性がなければならないよ、しかもそれは特別な合理性がなければならない、ということを打ち出したんだと思います。具体的には、この考え方を下級審の裁判官が裁判員に対し説諭するんでしょうし、無期が妥当だとする裁判員は、どうして無期であるのかについてその理由を説明しなければならない羽目に陥ることになると思います。
ですから今回の最高裁判決は、すごく政策的な判決だったと思います。世論の反発を受ければ裁判員制度への協力が得られなくなる。だから、世論に迎合して死刑判決を出す。他方で、死刑の適用の可否を裁判員の自由な判断に任せるとなると、裁判員が死刑の適用を躊躇する方向に流されかねない。それで、これに歯止めをかける論理が必要である。そのために、永山判決を逆転させて、死刑を無期にするためには、それ相応の特別の理由が必要であるという基準を打ち出したんだと思います。このように、死刑の適用の是非を、こういう政策的な問題にしてしまうこと自体、最高裁そのものが質的に堕落してしまったというか、機能不全現象を起こしているんですね。ですから第三小法廷の裁判官たちは、被告人を死刑か無期か翻弄することについて、おそらく、何らの精神的な痛痒さえ感じることなく、もっぱら、政治的な必要性、思惑と言っていいのでしょうが、そのようなことから無期を死刑にひっくり返したんだと思います。悪口ばっかりになってしまうんですけど。”
4、矯正可能性
高裁下山裁判長は死刑を選択しなかった理由の一つとして「本件のほかに凶悪犯罪への傾向を示すものが見当たらないことに照らせば、犯罪性向が強いとはいえず、矯正可能性もあると考えられる」と言う。
「矯正可能性」或いは「更生」といった言葉は、死刑か否かの選択を迫られる事案でしばしば語られてきた。
極めて個人的な考えかもしれないけれど、死刑か否かの選択に矯正(更生)可能性の有無は関連ないと私は思う。人の命というものは、如何なる理由があれ、人為的に絶ってよいものではないと考えるし、更生は本人だけの力で出来るものではないとも考えるからだ。
更生可能性の鍵は、実は罪を犯した彼の側ではなく、社会(周囲の人間)が握っているのではないだろうか。
更生の可能性というが、誰一人自分を信じてくれる人がいない地平では、人は更生などできぬのではないか。人間らしい信頼のなかに置かれずして、果たして人間らしく生きてゆけるだろうか。
勝田清孝は、その昔、少年事件によって少年院送致となった。6ヶ月の院生活であったが、退院後の人生は苦渋を極めた。職場において盗難事件があれば、一番に彼が疑われた。殺人事件が起きたときも、然りであった。いかに努力しても、少年院上がりのレッテルの故に信頼関係は築けなかった。人の心(信頼)を得られず、代替として物欲に走った彼は、取り返しのつかない大きな罪を犯し、死刑囚となってしまった。人の更生を阻害する要因は社会にあったのではないか、とすら私は考えてしまう。
松原泰道師は、この世を障子に譬えて云われる。
“障子の枠は、見たところ一つひとつの枠ですが、この枠をひとつくださいといって切り取ってしまったらどうなるでしょう。ばらばらになってしまいますね。ひとつの枠があるためには、前後左右の網の目のようにつながった枠があり、その中にひとつの目や枠ができている。ひとつの目や枠があるためには、まわりに無数の目や枠がなければなりません。互いに関連しあって世の中というものができている”と。
過ちを犯した者を許したり、この社会に自由に置いたりすることの不安は、確かに強い。
しかし、人を根こそぎ否定し排除することで希望的な社会が現れるだろうか。死刑に支えられる社会・・・何やら不確かで、安全も幸福も想像しにくい。
5、一つの場にしか
闇サイト殺人事件の被害者遺族の方の悲痛な思いは、誰にも実感できないものだろう。私が今こうして、こんなものを書いているこの時も、遺族の方は、これ以上ない苦しみを苦しんでいらっしゃる。
僧侶の瀬戸内寂聴さんは、「この世は無常なのです」と言われる。「あれほど燃えた憎しみだって、やがては薄まるのです。『無常』とは、実はそのこと、人間の心のありようを言っているのです」と。そんな言葉も、憎しみを保有する本人でないからこそ、言える言葉だろう。
人は一つの場にしか立てないものだ。
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闇サイト殺人事件 2審〈2011/4/12 下山保男裁判長〉判決要旨〈中日新聞2011/4/13Wed.〉
名古屋高裁で12日に言い渡された名古屋市千種区の女性拉致、殺害事件の控訴審判決要旨は次の通り。
【主文】
原判決の堀慶末被告に関する部分を破棄する。堀被告を無期懲役に処する。検察官、川岸健治被告の各控訴を棄却する。
【判決理由】
▽犯行動機
被告人ら3人は金もうけの手段を探す目的でインターネット掲示板「闇の職業安定所」を利用。川岸被告が一緒に組み楽して金もうけをしようという趣旨の書き込みをし、堀被告らが応じる旨の返信をしたことで知り合った。
犯行着手の3日前に初めて顔を合わせ、犯罪計画を話し合った。帰宅途中の会社勤めの女性を車内に拉致監禁し、金品を奪い、キャッシュカードの暗証番号を聞き出して預金を引き出し、最終的には女性を殺害するという共謀を遂げて実行した。強い利欲目的のみに基づいた犯行動機に酌量の余地は全く見当たらない。
▽犯行態様
手段、方法を変えつつ被害者殺害に向けた行動で、被害者の必死の命ごいにも耳を貸すことなく殺害を遂げたことも併せ考えると、殺害の態様は無慈悲、凄惨であって残虐というほかない。
被害者は当時31歳のまじめな会社勤めの女性。同僚との食事を楽しんだ後の帰宅途中、被告人らに突如拉致されて現金やキャッシュカードを強取された。キャッシュカードの暗証番号を言うよう執拗に脅迫されるなどし、残虐な方法でかけがえのない生命を奪われた。その恐怖、苦痛や無念は計り知れず、生じた結果は重大かつ悲惨である。
▽量刑判断
原判決の量刑判断は以下の点で是認できない。
インターネットを通じて知り合った素性を知らない者同士の犯罪の場合、意思疎通の不十分さから、失敗に終りやすい側面もある。殺害の方法や時期、死体遺棄の方法などは事前に決められていないなど計画は綿密でなく、その結果として、被害者が告げた暗証番号が正確なものであることを確認しないまま、最終目的である預金の引き出しは失敗していることに照らすと、犯行がさほど巧妙であったとはいえない。原判決がいうほどに、犯罪の巧妙化につながりやすいとは一概にはいえない。
本件は、川岸被告が共犯者2人への不満等の感情もあって、自首した。素性を知らない者同士の結束力の乏しさが早期の検挙を招いたともいえ、模倣性が高いとも一概にいえない。他の強盗殺人等の事案と比べ、特に厳罰をもって臨む必要性が高いとする原判決は相当でない。
神田司死刑囚が計画段階でも殺害の実行行為でも最も重要な役割を果たしたという点は原判決が示す通りである。堀、川岸両被告は拉致した女性を最終的に殺害するという神田死刑囚の提案に安易に応じた側面があり、殺害の共謀成立前から殺害という明確な意思を有していたとはいえない。両被告が殺害で果たした役割には、神田死刑囚と差があることは否定できない。川岸被告が他の2人より関与の度合いが低く、犯行後に自首した点は、量刑にあたり相応の評価がされるべきだ。
両被告は犯罪に対する抵抗感が稀薄であることは否定できないが、本件のほかに凶悪犯罪への傾向を示すものが見当たらないことに照らせば、犯罪性向が強いとはいえず、矯正可能性もあると考えられる。殺害された被害者が一人である本件において、死刑の選択がやむを得ないといえるほど他の量刑要素が悪質であるとは断じ難く、死刑に処することには躊躇がある。
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◆ 闇サイト殺人事件 控訴審(2010年8月9日~)「闇のなかから 生き返ってくる 人間の すがた 目の色」
〈来栖の独白〉
この事件で私は、幾つかの「恐怖」「畏れ」を禁じえない。
まず、被害者の身に起こった「恐怖」である。1審で焦点とされたのは「被害死者1名の事件で、被告人に死刑は相当か」ということであった。量刑判断については裁判所に委ねるとして、私が恐怖を禁じえないのは、女性一人を3人もの男が取り囲み、脅し、遂には命を奪ったという点である。「被害者1名。加害者3名」と一口に言うが、それ故の被害者の恐怖は、はかり知れない。娘の恐怖を思いやる遺族が尋常でいられないのも、当然だと思う。「3人を極刑に」との思いは、鈍い私にも理解できる。通り一遍の「ご冥福を」などという言葉は、遺族の心に沿わないだろう。胸が波立つ。《追記:8月10日の中日新聞には母親富美子さんの言葉が載せられていた。「怖かった事件のことを忘れてほしい。そんな思い出は捨ててほしい」から、利恵さんの写真は法廷に持ち込まないのだという。その事件が再現される法廷。遺族には苛酷すぎる。》
次の「恐怖(畏れ)」は、人の死を望む危うさである。
被害者遺族の方は、歳月を経たのち大丈夫かな、と案じないではいられない。3人に極刑を望むお気持ちは理解できるつもりだけれど、怖い。自分の動きによって2つの命が失われた(控訴審で遺族の願いを裁判所が聴き入れたなら、3つの命が失われることになる)・・・。このことは、恐ろしい。もし遺族の獅子奮迅の死刑嘆願活動がなければ、3つもの命は失われなかったはずだ。名地裁裁判長は、遺族の感情と行動に動かされてガイドラインを越えた。広島女児殺害事件の遺族(父親)の「自分が(加害者の命とはいえ)殺すことになる」との吐露は、人の命を自分の手で奪う危うさ、畏れを実感として表現している。
ところで、東海テレビの番組だったか、遺族(磯谷富美子さん)がおっしゃっていた「永山基準によって、下される量刑が決まっているのなら、裁判の必要も意味も無い」。また、控訴審(2010/8/9~)を前にした記者会見、「悪いと思うなら、堀被告は控訴を取り下げ、死刑を確定させて」。これは、どうだろうか。
裁判は、量刑を決めるため(だけ)に行われるのではない。刑事裁判は「被害者自身による報復や、被害者個人の損害回復のための制度ではなく、犯罪を抑止することと同時に犯罪を犯した人の改善更生を実現することを目的としている」。また、「被告人席に立たされた市民に対し、冤罪の危険を3度にわたってチェックするためである」。
上の同番組中、「死刑を求める磯谷さんの前に立ちはだかったのは、『被害者1名のケースでは死刑の選択は無理』という永山基準だった」とのナレーションもあったように記憶しているが、これは、どうか。磯谷さんの要求の前に立ちはだかったのは、なんぴとに対しても等しく「命の尊重」という理念ではないだろうか。
控訴審を前にした記者会見では「謝罪は要らない」とも、言われた。被告の本心か否か分からず、心に響かない謝罪など要らない、謝られても娘がかえってくるわけではないとのお気持ちでもあるだろうか。・・・だが、私は考えないではいられない。遺族の気持ちには沿えず申し訳ないが、考えないではいられない。
謝罪とは、自己を内省するところから始まる。自己を内省するところから人間に立ち返る道筋がつく。人は、人間として生まれるのではない。人間となるのだ、と私は思う。
五木寛之氏の『親鸞』を参考に考えてみたい。
貴族の生まれとはいえ、不遇に育った親鸞は叡山で修行の少年期を送るが、やがて吉水へ法然の説法を聴きに通うようになる。自己の罪深さ、断ち切れぬ煩悩に悩む親鸞が必死に道を求める行動だった。その頃の事を、法難が迫ったある日、『選択本願念仏集』を親鸞に託して、法然は言う。
「わたしは、そなたを信じている。だれがなんといおうと、そなたを信じる。もし、彼らのいうとおりそなたが比叡山の目付け役だったとしても、わたしは後悔などしない。 かつて百日間、一日も休まずにわたしの話をききつづけたそなたの目の色を、わたしははっきりとおぼえているのだよ。あれは、闇のなかから生き返ってくる人間のすがただった。わたしはそなたをみつめながら、そなた一人にむけて話しをしているような気持ちでいた。だからわたしはそなたにこの書をあずけるのだ。わたしにもしものことがあったときは、世間に広くこの選択集をひろめるがよい。よいか、たのむぞ」
綽空(親鸞)は全身に法然上人の声がしみわたるのを感じ、床に頭をおしつけた。涙があとからあとから、とめどなくながれた。
私は上記法然の「 闇のなかから 生き返ってくる 人間の すがた 」との言葉に泣いた。私も、この「闇」と「すがた」、「目の色」を見たことがあるからだ。「人間」を見た。
この「すがた」は、本人だけの努力によって得られるものではない。祈ることが、念仏することが、人間の側から一方的に発せられるものではなく、周囲(神仏と人)からの呼びかけであるように、生き返るすがたも、周囲からの恵みよって、成る。人は、一人で更生などできぬ。人は、人の間に生まれ、人の間で生きて、更生するものだ。無明のなかから生まれた者が、周囲の呼びかけによって、人となる。
また、生殺与奪というが、人間には誰一人、命を造った者などいない。髪の毛一本すら造れない。与えられたのである。不完全な被造物にすぎない者が、完全なこと(死刑)をし、希望を失わせては(闇に戻しては)ならない、と私は思う。「希望」を残しておく、それが危うい存在である人間の、せめてもの智慧ではないだろうか。
控訴審では、川岸健治被告の自首と「被害者数1名」が争点となる。冤罪を防ぐために自首は評価したい、と私は思う。川岸被告には軽度の知的障害があった、とも弁護人は言う。中日新聞に次のような論説があった。
「闇サイト殺人事件」存在感増す遺族 自首によって残りの2人が早期に逮捕されたことは確かだ
中日新聞夕刊【大波小波】2009/03/25
闇サイト殺人事件の3人の被告への判決を伝えるテレビのニュースやワイドショーの多くは、判決への客観的な分析よりも、無念を訴える被害者の母親のインタビューを前面に出しながら、1人が死刑ではなく無期になったことへの異を唱えることに終始した。
確かに犯行はあまりにもむごたらしい。でもむごたらしいからこそ冷静に考えねばならない。反省のない自首など評価すべきではないとの論調が多いが、自首によって残りの2人が早期に逮捕されたことは確かだ。自首しても減軽が見込めないとの前例を作れば、今後は同種の事件の解決が困難になることも予想される。 殺人事件のほとんどは、その過程を克明に描写すれば、この事件と同様にむごたらしい。闇サイトなどで世間から注目された事件だったからこそ、今回はその残虐性が浮き彫りになった。同時に3人の男たちの護送中の映像が、あまりにふてぶてしくて悪人面であったことで、世間の憎悪がヒートしたことも確かだろう。
厳罰化は加速している。その自覚があるならそれもよい。でもその自覚がないままに、「悪いやつはみな死刑だ」式の世相が高揚することに対して、(特に感情に訴える映像メディアは)もう少し慎重であるべきだ。