袴田秀子さん「冤罪で『死刑』にされた巖の心的外傷」 巖の立場はまだ「死刑囚」のままです

2014-08-16 | 死刑/重刑/生命犯

 プレジデントオンライン 2014年08月15日10時15分
独占告白! 袴田秀子さん「冤罪で『死刑』にされた巖の心的外傷」
 1966年6月、静岡県清水市(現静岡市)で、味噌製造会社の専務宅から出火、メッタ刺しにされた4人の遺体が見つかった。この事件で犯人とされ死刑が確定した元プロボクサー・袴田巖さん(78歳)。長きにわたって獄窓にあったが、今年3月、再審開始が決定し保釈された。実に48年ぶりの自由の身であった。
 巖さんを支え、ともに無実を訴え続けてきた姉・秀子さん(81歳)が、釈放からの4カ月を語った。
■「自分に姉はいない」「もう事件は終わり」
 長い闘いでした。でも、決して諦めることはありませんでした。私はこの日が必ず来ることを信じ、疑っていませんでしたから。
 3月27日、静岡地裁で巖の再審開始の決定がようやくされました。81年に再審請求をし、地裁と東京高裁、最高裁で棄却。2008年には第2次再審請求をし、それがようやく受け入れられたのです。この吉報を知らせに東京拘置所へすぐに駆けつけました。午後3時過ぎのことです。面会室に現れた巖に、「巖、再審が決まったよ」と言うと即座に、
 「そんなの嘘だ。袴田事件はもう終わっているんだ。あんたは変なことばかり言っている。嘘ばかり言っている」
 そして、刑務官に向かってこうも言ったのです。
 「もう帰ってもらってくれ」
 その少し後でした。面会を終え、小さな部屋で書類を書いていると再び巖が姿を見せ、
 「釈放された……」
 と言ったので、もうびっくり。まさかその日に保釈されるとは思っていなかったので驚くと同時に、何とも言えないうれしさが込み上げてきました。これまでは月に1度、拘置所へ面会に行っていたのですが、いつも巖は、
 「自分には姉なんかいない」「もう袴田事件は終わったんだ。帰ってくれ」
 などと言って、最近は会えないことが続いていたのです。会えたとしても15分程度、狭い面会室でアクリル板をはさんででした。それが、目の前にいる。手の届くところにいるんです。私はしばらく巖の手を握っていました。
 拘置所を出た日はホテルに泊まり、その後、東京で2カ月、浜松で1カ月入院生活を余儀なくされていました。拘置所に長くいたため拘禁症と軽い糖尿病、そして認知症の疑いがあったためです。でも幸いなことに、思ったよりひどくはなくホッとしています。
 入院中の巖は、ほとんど喋ることなく、広い病室の中を行ったり来たり歩き回っていました。きっと拘置所にいるときからそうしていたのでしょう。おかしな言動も残っていました。私のことがわかるときもあれば、「姉なんかいない」と吐き捨てたり、
 「もう袴田巖はいない。自分はハワイの大王だ」
 などと言うこともありました。病院の食事のメニューには自分の名前の横に、「天下の神」って書いたり。そうかと思うと、私たちの話すことを素直に聞くこともある。感情にムラがあるような感じでした。
 浜松で入院中だった6月29日、事件のあった静岡県の旧清水市で支援集会が開かれました。外出許可を取り、巖も参加しました。
 「清水に行けば、自由になれる。清水には自由になれるプログラムがある」
 清水を再訪することが一区切りになると感じていたのでしょうか、巖はそう言っていました。かつて働いていた建物や、近くにあった橋などを覚えてもいました。
 外泊許可を取ってあったので、巖はこの日は私の自宅に泊まりました。4階の部屋に入るなり、窓からの風に、「ああ、ここはいい……」と呟き、自由な身を実感しているようでした。巖は翌日、よほど居心地がよかったのでしょうか、「病院へは戻らず、ここにいる」と言い張りました。主治医の先生とも相談して退院させてもらい、以来、私の家で日々を過ごしています。ボクシングのDVDを見ることもあります。支援者からグローブを渡されると、「いやあ、もうそんなに若くないから」と、ニヤリとしていました。
■死と隣り合わせの耐え難い恐怖
 自宅に来て1カ月あまり、外出したのは、散髪に行くなどの2回きり。また拘置所へ連れ戻される、との思いがよぎるのでしょうか、あとは家にこもったままです。来訪者があっても、
 「何か用事があるんですか。私はあなたに用事はありません」
 と言ったり、小中学校の同級生が訪ねてきても理解できていない。
 「袴田巖は無実であって、もう決着がついている」
 などと、長期間の拘禁の影響が残り、まだおかしな言動があります。でも、これは仕方ありません。48年間も囚われの身だったのですから。そんなふうになったのは、死刑が確定してからでした。それまでは面会に行くととても元気で、こちらが励まされるくらいだったんです。
 80年に最高裁で上告が棄却され死刑が確定したあとのことです。いつものように面会に行くと、
 「隣の部屋の人が処刑された。みんながっくりしている。『みなさんお元気で』と言って消えてしまった……」
 巖はそう言って愕然としていました。処刑を身近に感じ、それからおかしくなってしまいました。死と隣り合わせの耐え難いほどの恐怖が迫ってきて、だから、自分で「神」と名乗り防御するようにしたのだと思います。
 妄想とともに、軽い認知症とも診断されています。今すぐに治るものではないでしょう。慌てずに少しずつよくなっていけばいいと思っています。48年間かけてこうなってしまったので、48年かけて治していきたい。私はそのくらいのつもりで覚悟を決めています。またいつか、お友達を巖が笑顔で迎えられる日が来ることを信じています。
 実は、巖の立場はまだ「死刑囚」のままです。再審開始の決定はなされましたが、検察が即時抗告をし裁判がいつ始まるか不透明です。裁判所と検察、弁護団の三者協議もこれからです。1日も早く無罪判決を出していただき、本当の意味で巖の肩の荷を降ろしてあげたい。そうなれば、巖も健康を取り戻せるかもしれません。 (青柳雄介=取材・構成・撮影)
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袴田巖さんの姉 袴田秀子 
 1933年、静岡県浜松市生まれ。33歳のときに起こった袴田事件で、実弟の巖さんが逮捕され、後に死刑が確定。以後、独身のまま巖さんの救済にすべてを捧げてきた。
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