「プリンシプルの男」か「狂人」か 遺族が明かす餓死判事の死の真相
dot. (更新 2015/10/24 07:00)
今から68年前の10月11日、妻・矩子と幼い子供を残して一人の若き判事が死んだ。東京地裁判事で食糧管理法違反など経済犯を担当していた山口良忠(享年33)だ。闇米を拒否した末の餓死で、それに米国のマスコミは「プリンシプルの男」と最大限の敬意を表した。あの矛盾と欺瞞に満ちた戦後の混乱の時代を彼はいかに生きたのか。ジャーナリスト・徳本栄一郎が取材した。
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白石町は佐賀県の有明海沿岸にあり、秋には見渡す限り稲穂の波が揺れる。
1947年10月12日、その田んぼの間の道を葬列が進んでいた。位牌を抱いて憔悴した女性と幼い2人の男の子、その後ろに親族や近所の住人が続く。降っていた雨も上がり晴れ間ものぞき始めた。彼らは白布で覆った棺をリヤカーに積み、川沿いの火葬場へ向かっていた。
その翌月の11月6日、米国を代表する大手紙ワシントン・ポストとニューヨーク・タイムズにある記事が載った。山口良忠という東京地方裁判所の判事が飢えと病気で死亡したとの内容で、“a man of high principles”(プリンシプルの男)と紹介していた。プリンシプルとは原理原則という意味で、命を賭けて信念を貫く高潔さを指す。
戦争終結からわずか2年、まだ反日感情が根強い米国で一人の日本人に最高の敬意を表したのである。
きっかけはその2日前、朝日新聞西部本社版に載った記事だった。
「食糧統制に死の抗議」「われ判事の職にあり」という見出しと、その横に男性の写真がある。白石町出身で東京地裁判事の山口良忠(享年33)は食糧管理法違反など経済犯を担当していた。だが人を裁く身で闇米は食べられないとし、配給食糧だけで生活した。そして栄養失調による肺浸潤で倒れ、故郷で療養中に亡くなったとの趣旨だった。
記事は本人が病床で書いたとされる日記を引用していた。
「自分は平常ソクラテスが悪法だとは知りつゝもその法律のために潔く刑に服した精神に敬服している。今日法治国の国民には特にこの精神が必要だ」「自分等の心に一まつの曇がありどうして思い切つた正しい裁判が出来ようか」
これが全国に知られると、各地の新聞に投書が相次ぎ大きな反響が沸き起こった。一判事の死がなぜ、社会問題に発展したのか。その背後にはわが国を襲った深刻な食糧危機があった。
1945年8月の敗戦で日本は連合国軍総司令部(GHQ)の占領下に置かれた。GHQは新憲法制定や教育改革など民主化を推し進めたが、当の日本人はそれどころではなかった。敗戦の年は冷夏と水害も重なり米が記録的な凶作となった。旧植民地からの食糧輸入も途絶え、数百万の人々が海外から引き揚げてきた。そのため翌年には全国で未曽有の食糧不足が発生する。戦時中から政府は食糧管理法で米などの配給を導入したが、敗戦直後は遅配や欠配が相次いだ。
では人々はどうやって生きていたか。正規の配給以外のルートで食べ物を買いつける、いわゆる闇市場である。大都市の住民はすし詰めの列車で地方の農家を回り、わずかばかりの着物などを米や野菜と交換した。タケノコの皮を一枚ずつ剥ぐような「タケノコ生活」で、むろん食管法違反だ。見つかった場合は逮捕され食糧も押収、こうして捕まった者を裁くのが良忠の仕事だった。
山口良忠は1913年、佐賀県白石町で生まれた。彼の生涯を追った伝記『われ判事の職にあり』(山形道文著)によると、父親の良吾は地元の八坂神社の宮司で小学校校長も務める教育者だった。京都大学法学部に進んだ良忠は、1938年に司法試験に合格、横浜や甲府の勤務を経て大戦中に東京地裁に配属された。そして戦後の1946年10月、経済事犯担当判事に任命された夜、妻の矩子にこう告げたという。
「人間として生きている以上、私は自分の望むように生きたい。私はよい仕事をしたい。判事として正しい裁判をしたいのだ。経済犯を裁くのに闇はできない」「これから私の食事は必ず配給米だけで賄ってくれ。倒れるかもしれない。死ぬかもしれない。しかし、良心をごまかしていくよりはよい」(山形の著書が引用した矩子の手記)
この1年後に良忠は亡くなるのだが、そもそも配給だけで生きる事は可能だったか。何がそこまで彼を追い詰めたのか。
良忠が判事に任命された同月、司法省は検事総長名で「経済取締の徹底強化」を命じている。同省は翌年3月にも経済関係の判検事会議を開いて闇撲滅を決議、その直後、全国一斉に列車の持ち込み荷物取り締まりが始まった。
この強硬さの裏には占領当局の思惑もあった。GHQは米国政府に、飢餓が発生すれば占領遂行に支障をきたすとして対日食糧輸出を要請していた。だが米国民の血税を使う以上、日本側も最大限の努力をせねばならない。闇撲滅はその一環でもあった。
だが現実に逮捕されるのは大物ブローカーどころか名もない庶民の方が多かった。夫が戦死し子供を抱えた女性なども容赦なく摘発されたが、10日以上の遅配が続けば誰しも闇に頼らざるをえない。
いわば食管法は守れるはずのない法律、矛盾の塊であった。その中で良忠はどうしていたか。
「全くの配給だけなので、生活ぶりは、まことに惨めでございました。主食は缶詰のときは缶詰だけ、豆のときは豆ばかり食べるほかなく、目方を計りまして四人で分け合っていただきました。子供は、可哀想なので、出来るだけ多くやり、後を二人で分けあいました。野菜も魚類も統制され、身動きできない有様でした」(山口矩子手記)
そして1947年8月27日、良忠は東京地裁で倒れた。栄養失調による肺浸潤と診断され、郷里の佐賀で療養する事になった。
今から6年前に良忠の出身地・白石町を訪ねた時、私はある女性をインタビューした事がある。井崎萩子、亡き良忠の妹である。地元の料理店で食事しながら、彼女は半世紀以上も昔の兄の思い出を語ってくれた。
1947年9月上旬、実家の八坂神社に戻った良忠の元に萩子が見舞いにやって来た。社務所別棟の2階に寝ている兄の枕元に彼女は正座して座った。
ふと布団に横たわった良忠が萩子を見上げて「お前、今、幸せかい」と訊いた。それに彼女は頷きながら「うん、私は今、幸せよ」と答えた。すると良忠は細い声で「そうか」と言って笑ったという。
萩子は女学校を卒業後すぐに結婚したのだが、その3年前に夫が中国で戦死していた。そして数カ月前、幼い女の子を連れ再婚したばかりだった。何でもないやり取りに聞こえるが、戦争に翻弄された妹を思いやる姿が浮かぶ。その彼女が振り返る。
「じつは兄が亡くなった時、地元でも『あいつは気が狂っただけたい』という声があったんです。餓死してまで闇米に手を出さんのは異常すぎるというんです。でも東京から戻った後の兄は出された物は何でもよく食べとりましたよ」
良忠が闇の食糧を拒否したのはあくまで判事として働いた間だった。
職務を離れればもう良心の呵責に悩まずにすむ。まるで肩の重荷が取れたように配給以外の食べ物も口にしていた。
やがて10月に入って風が冷たくなる頃、良忠の容態は悪化した。言葉を発するのも辛く、東京から駆けつけた妻とも筆談でやり取りした。そして10月11日午後2時20分、まるで力尽きるように息を引き取ったのだった。
前述の通り、良忠の死が全国に知られたのは翌月の朝日新聞の報道がきっかけだ。記事を書いたのは当時の佐賀支局記者の分部照成である。分部は今年8月に95歳で亡くなったが、その直前に私のインタビューでこう語っていた。
「当時は敗戦直後で皆が虚脱状態でした。そこへ山口判事は『我こそが日本人だ』というのを見せた訳です。鍋島藩の葉隠精神を地で行った人ですよ。奥さんにも会いましたが栄養失調で病床に倒れてました。『私は主人を信じてついて行きました』と言っていました」
今回米国側の記録を調べて分かったが、良忠の死は米AP通信が東京発で配信し、ワシントン・ポストなどが掲載していた。
白石町のニュースが国際的反響を呼んだのだが、一方で彼を“馬鹿正直”と冷笑する者がいたのも事実だ。たかが闇の取り締まりくらいで死んでどうするという。そして良忠の家族を最も傷つけたのは片山哲首相の菊江夫人の言葉だった。
「家庭を守る女性の立場としては、多少のゆとりを持つて夫や子供の生命を守るべきだと考えます。畑の仕事を女の手で出来るだけやることなどでも大きな効果があります。奥さんにもう少し何かの工夫がなかつたものでしようか」(朝日新聞、1947年11月6日付)
まるで妻の矩子の気遣いが足りないから夫が餓死したと言わんばかりだ。妹の萩子によると、これを読んだ矩子はショックを受けノイローゼになってしまったという。
良忠への複雑な思いは地元も同じだった。当時の事情を知る人間によると、じつは白石町近郊の農家にも収穫した米を政府に供出せず独自に売りさばく者がいた。闇で売ればはるかに高値が付き、自宅を新築した者もいたという。その米どころで食管法を守った判事が死んだ。「あいつは気が狂っただけたい」という言葉は精一杯の自己弁護に聞こえた。これと直接関係あるか確認できないが、なぜか地元の佐賀新聞は当時、良忠の死について一言も触れていない。
そして、それは日本政府にも言えた。この年の夏、国会は隠退蔵物資等に関する特別委員会を設置している。戦時中、軍は民間から膨大な軍需物資を接収したが、敗戦直後にその多くが行方不明になった。旧軍関係者や政治家の関与も取り沙汰され、国ぐるみの闇取引が指摘された。食管法に苦しむ庶民を横目に、ごく一部の者は濡れ手に粟の利益を得ていた。その中で良忠は愚直なまでに法の精神を守っていたのだ。
※週刊朝日 2015年10月30日号
◎上記事は[ dot. ]からの転載・引用です
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