「おそれいりますが、春に飽きて出家するのです」 (2021/11/12 中日春秋)

2021-11-12 | 仏教・・・

中日春秋
 2021年11月12日金曜日
 僧侶でもあった作家の今東光は法名を春聴といった。出家を申し出たその女性の法名に、自らの一文字を授けようとしている。「春」であったが、女性は辞した。「おそれいりますが、春に飽きて出家するのです」。当時五十一歳だった作家、瀬戸内晴美である
▼東光が三時間座禅を組んで、浮かんできた「寂」の文字に、「聴」のほうを添えて、心静かに世の中の声を聞く−そんな境地を思わせる「寂聴」が生まれたそうだ
▼あまたの恋愛に、文学賞受賞や作家としての人気…。人生の春を経験する一方で、「幼い恋」をして夫や娘のもとを去っている。胸に「生涯の悔い」も秘めていたという。作品が酷評される苦境もあった。寒風の冬も味わってきた人が出家とともに「人のため、文学のため」を思わせる後半生に向かうのに、よく合う法名であったようだ
▼平和を唱えてきた。温かい言葉で、悩んでいる名もない人にも向き合った。家族を捨てて後悔している自分の顔が、相談者の表情に重なることもあったという
▼それでも「この世は生きるに足る」。波瀾万丈(はらんばんじょう)の人生から聞こえてきた思いを多くの人に伝えて、瀬戸内寂聴さんが九十九歳で亡くなった
▼源氏物語の現代語訳は後世に残ろう。出家は世を驚かせたが、王朝時代の文学者に通じる生き方でもあった。寂しくなりそうだ。仏教の「寂滅」の言葉も浮かんでくる。

 ◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用です
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〈来栖の独白 2021.11.12〉
 「寂聴」との法名を最初に聞いた時、その素晴らしさに絶句したものだ。「なんと素晴らしい名前だろう」と。
 この世の多くに、恵まれた人生でいらした。
 寂聴さん、あちらへ往って、生前親しくしていた人たちと賑やかに語らっているのだろうか。


寂聴さんを悼む 生涯を貫く反戦と慈愛
2021年11月12日 社説
 京都の寂庵(じゃくあん)をはじめ各地で仏の教えを説き、生き惑う人の悩みに真剣に応じた。「心配ないわよ、大丈夫よ」と励ます笑顔は、人を愛し、慈しむ思いに満ちていた。瀬戸内寂聴さんの死を悼む。
 僧侶として作家として、何人分もの人生を生きた。その九十九年の生涯を象徴する言葉の一つは、「反戦」。二十代で迎えた第二次大戦の日本の敗北に端を発する。
 戦中は当時の夫と中国・北京で暮らし、現地での日本人の行動をつぶさに見た。「中国の人が引く人力車にふんぞり返って乗って、頭を蹴っとばして行き先を伝えるのよ。本当にひどかったわね」
 それでも「日本の戦争を聖戦と信じこむ忠君愛国の主婦」だったというが、敗戦の翌日、ひそかに出かけた北京の街頭で、中国人の書いた「敵に報いるに恩をもってなす」という句を見た。「自分がいかに愚かだったか、初めて目が覚めた」と後に述懐している。
 まじめな主婦は従来の価値観を根底から揺さぶられた。帰国後は道ならぬ恋に落ちて、離婚。少女時代から愛する文芸に生きる道を求めたが、小説「花芯」がポルノだとされて、文壇から干される。
 こうした来歴ゆえ、瀬戸内晴美として活躍した時期も、出家して瀬戸内寂聴となった後でも、毀誉褒貶(きよほうへん)がつきまとう。だが「そんなこと、どうでもいいのよ」と笑い飛ばした。自分自身の思い定めた生き方をひたすら貫いたのだ。
 一九五三年の徳島ラジオ商殺人事件に関する活動も特筆したい。有罪とされ、服役した女性の冤罪(えんざい)をはらすため私費で長年奔走し、日本で初の死後再審と無罪判決を勝ち得た。ドレフュス事件で不正を告発したゾラと同様、文学者の社会参加として未曽有の功績だ。
 仏の教えに従い「殺すなかれ、殺させるなかれ」と訴え、反戦と護憲を説き続けた。災害があれば被災地を手弁当で訪れて被災者を慰め、涙ながらに感謝された。
 東日本大震災と原発事故の後は反原発を唱え、九十歳を過ぎてもなお街頭の抗議活動に加わった。小柄な体に無尽の文才と行動力、慈愛の心に満ちていた寂聴さん。その足跡を長く記憶に刻みたい。

 ◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用です
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 「忘己利他」の精神で被災者にも寄り添う 瀬戸内寂聴さん「殺すなかれ、殺させるなかれ」の教えから戦争・死刑に反対
 2021年11月11日 中日新聞
 「殺すなかれ、殺させるなかれ」という仏教の教えに従い、瀬戸内寂聴さんは戦争や死刑に反対し、時に命懸けで行動した。
 湾岸戦争で多国籍軍によるイラクへの空爆が続いていた1991年2月、寂聴さんは、京都・嵯峨野にある自身の寺「寂庵じゃくあん」で断食祈禱きとうをした。8日目に体調を崩して入院。回復した同年4月には、イラクを訪問し医薬品や粉ミルクなどを戦争被災者へ届けた。10年後の2001年10月、米軍がアフガニスタンを攻撃した時も、戦争停止と犠牲者の冥福を祈り断食した。
 15年6月18日、安全保障関連法案に抗議する集会に飛び入り参加した。この時、93歳。国会前で「いい戦争は絶対にありません。戦争はすべて人殺しです」とスピーチ。反戦の立場から、憲法についても「(戦争放棄を掲げる)9条を変えてはならない」などと積極的に発言。「憲法九条京都の会」代表世話人にも名を連ねた。
 死刑制度にも反対した。4人を射殺した永山則夫元死刑囚や、連合赤軍事件の永田洋子ひろこ元死刑囚と交流。永田元死刑囚の控訴審には情状証人で出廷した。
 貧困や虐待などに苦しむ若い女性にも目を向けた。16年4月、少女らを支援する全国ネット「若草プロジェクト」に呼び掛け人代表として参加した。
 大きな自然災害が起きると必ず現地に足を運び、バザーや法話で集めた義援金を自ら届けたり、被災者を励ましたりした。東日本大震災の時、寂聴さんは前年の腰椎圧迫骨折で、寝たきりだった。だが東京電力福島第一原発の事故をテレビで見て「ショックで足が立った」。被災各地を訪ね歩き、被災者をいたわった。
 原発反対の声も上げた。12年5月、経済産業省前で市民団体のハンガーストライキに参加。関西電力大飯原発の再稼働阻止を訴えた。冷たい雨の中「もっと若い世代が希望を持てる未来を」と座り込みを続けた。自己の利益を忘れ人のために尽くす、天台宗開祖・最澄の「忘己利他もうこりた」という教えもよく口にした。90歳を過ぎ、「しんどい」と漏らしつつ、社会で苦しむ人々に寄り添い続けた。(岩岡千景)

 ◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用です
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寂聴さんを悼む 生涯を貫く反戦と慈愛
2021年11月12日 社説
 京都の寂庵(じゃくあん)をはじめ各地で仏の教えを説き、生き惑う人の悩みに真剣に応じた。「心配ないわよ、大丈夫よ」と励ます笑顔は、人を愛し、慈しむ思いに満ちていた。瀬戸内寂聴さんの死を悼む。
 僧侶として作家として、何人分もの人生を生きた。その九十九年の生涯を象徴する言葉の一つは、「反戦」。二十代で迎えた第二次大戦の日本の敗北に端を発する。
 戦中は当時の夫と中国・北京で暮らし、現地での日本人の行動をつぶさに見た。「中国の人が引く人力車にふんぞり返って乗って、頭を蹴っとばして行き先を伝えるのよ。本当にひどかったわね」
 それでも「日本の戦争を聖戦と信じこむ忠君愛国の主婦」だったというが、敗戦の翌日、ひそかに出かけた北京の街頭で、中国人の書いた「敵に報いるに恩をもってなす」という句を見た。「自分がいかに愚かだったか、初めて目が覚めた」と後に述懐している。
 まじめな主婦は従来の価値観を根底から揺さぶられた。帰国後は道ならぬ恋に落ちて、離婚。少女時代から愛する文芸に生きる道を求めたが、小説「花芯」がポルノだとされて、文壇から干される。
 こうした来歴ゆえ、瀬戸内晴美として活躍した時期も、出家して瀬戸内寂聴となった後でも、毀誉褒貶(きよほうへん)がつきまとう。だが「そんなこと、どうでもいいのよ」と笑い飛ばした。自分自身の思い定めた生き方をひたすら貫いたのだ。
 一九五三年の徳島ラジオ商殺人事件に関する活動も特筆したい。有罪とされ、服役した女性の冤罪(えんざい)をはらすため私費で長年奔走し、日本で初の死後再審と無罪判決を勝ち得た。ドレフュス事件で不正を告発したゾラと同様、文学者の社会参加として未曽有の功績だ。
 仏の教えに従い「殺すなかれ、殺させるなかれ」と訴え、反戦と護憲を説き続けた。災害があれば被災地を手弁当で訪れて被災者を慰め、涙ながらに感謝された。
 東日本大震災と原発事故の後は反原発を唱え、九十歳を過ぎてもなお街頭の抗議活動に加わった。小柄な体に無尽の文才と行動力、慈愛の心に満ちていた寂聴さん。その足跡を長く記憶に刻みたい。

 ◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用です
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殺人事件の有罪判決をひっくり返した、勇気ある裁判官の告白 「徳島ラジオ商殺し」過ちの全貌


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