人間には性別の前に個人が在るんだよ。それに勝る仕切りはないはずなんだけどね 『緋の河』 2018/10/2

2018-10-04 | 日録

緋の河<268> 桜木紫乃作 赤津ミワコ画
2018/10/1 中日新聞 夕刊
 <あらすじ> 昭和三十四年、秀男は釧路を出て札幌のゲイバー「みや美」に戻った。一年後には看板ゲイボーイになったが、喧嘩が原因でバーテンダーの次郎を伴って出奔。道内を転々とし、札幌に戻って「みや美」の姉妹店「ペガサス」で働く。店のホステスと浮気した次郎との別れ際、浮気相手の女に偽物と罵られた秀男は涙を流す。

 「ペガサス」のマメコを大のお気に入りにしている彼は、禿げ上がった頭を更にてかてかと光らせながら、ステーキを一口大に切った。秀男は「それでね」と彼がナイフとフォークを使う横で「マメコ節」を披露する。
「ステーキは切れないんだけれど、あたしついさっき男をひとり切ってきたの」
「へぇ、マメコは紐付きだったのか」
「やだぁ、さっきまでのお話よ。ちょっとのあいだ面倒みてただけ。うっかりして本物の女に寝取られちゃった」
 彼のナイフとフォークを持つ手が止まる。
「マメコ、それは駄目だよ」
「あら、あたしなにかいけないこと言った?」

  

「うん。マメコはマメコだから、本物も偽物もないと僕は思うよ。自分でそんな言葉を言うときは、よほど自信のあるときにしたほうがいい。その話が本当か嘘かわからないが、いま使うと、ただの強がりか負け惜しみになってしまうだろう。マメコはその女に負けたと思うから『本物』なんていう言葉を使うんじゃないのかい。本物と偽物があるとしたら、お前さんがどうか、というところで使うがいいよ」
「ごめんスーさん、あたし言われている意味がよくわかんない」
 娘に生き方を伝える父の視線というのがあるとすれば、きっとこんな感じだろう。
「マメコはどこまで行ってもマメコだろう?」
「うん、もちろんよ」
「マメコに本物と偽物があるとする。そうすると、偽物のマメコはマメコではないということになるだろう?」
「そうよ、あたし以外に『ペガサス』のマメコを名乗ったら、それは偽物よ」
「この世には女も男も、いっぱいいるだろう?」
 深く頷くと、スーさんは肉より細かく切り分けた言葉を差し出した。

緋の河<269> 
2018/10/2 夕刊
「本物の男と偽物の男がいないように、女にだって本物も偽物もないんだ。そもそも比較や分類の土俵が違うんだよ。マメコは女の恰好(かっこう)をして男と付き合うけれど、それはマメコ個人であって女の偽物ではないということだ。人間には性別の前に個人が在るんだよ。それに勝る仕切りはないはずなんだけどね」
「女の真似をしているだけの偽物って言われたのよ」
「お前さんが男の恰好をして『ペガサス』のマメコを名乗っているほうがずっと不自然じゃないか。マメコにとって自然なことだから贔屓にする客がつくわけでね。悪いが、東京や大阪でその街いちばんと言われるゲイボーイを見てきた僕が、この子は本物のマメコだと思っているわけだから、マメコは本物なのさ」
「この世界で、出世する名前だって言われたわ」
「その通りだ、識ってるよ」
「でもあたし、マメコっていう名前好きじゃないの」

  

 スーさんはステーキを切り分けた皿を秀男の前に戻し、目もとに優しい皺を寄せた。
「じゃあ、次の名前にしたらいいよ。マメコは自分の好きな名前で生きていける。男にうつつを抜かしているあいだに、ずいぶんとせせこましいものの考え方をするようになってしまったんだなぁ。僕、ちょっと残念だな」
 彼はぽつんとつぶやき、指を鳴らしてボーイを呼んだ。グラスに注がれた赤ワインと上質な肉を胃に落とし、秀男は黙々と腹を満たす。ホテルのレストランで、席を埋める金持ちの声が幾重にもなって秀男の耳に入ってくる。ここには秀男を色眼鏡で見る人間がいなかった。
 分け隔てが卑しいことだと識っている人間を、目を閉じても見分けられるようにならなければ、そうじゃないと、この世は痛いことだらけだ。早く「この世にないもの」にならなくちゃ。秀男はこの日、頭の芯が痛くなるほど考えたあと、ほぼ同じ文面の短い手紙を3通書いた。(後略)
..................
〈来栖の独白〉
 先般もLGBT関連の記事に端を発し、『新潮45』が休刊という決断をした。
>人間には性別の前に個人が在るんだよ。それに勝る仕切りはないはずなんだけどね
 正論だ。

 * 「新潮45」休刊で失われたのは何か…「思想空間」保証されるべきもの 2018.9.28
――――――――――――――――――――――――
* 「緋の河」 …「生まれつき」に小賢しい是非を言わず なにがあっても死ぬようなことはいけないよ 2018/9/6
*  叔父を同性愛者としてもってくる才筆「緋の河」  こういう、常識の狭間に苦しむ人をこそ救わねばならないのに、聖書は。
私の実質人生は終わっている。 夕刊は「緋の河」を読む。 〈来栖の独白 2018.9.5〉
.............


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。