6日ぶりにパソコンに向かっている。
16日から長男の所(横浜)へ行っていた。男の一人暮らしゆえ、おまけに残業が続いていたとかで、家の中が雑然としており、片付けに忙殺された。くたくたになった。夜CSでドラの対ヤクルト戦(松山)と対阪神戦(ナゴド)を息子と観戦するとき、束の間、座っていたという感じ。たまたま日ハム新庄剛志のホームランと引退表明も見届ける事ができた。これは記念的だ。新庄!何をしても、応援する。自分の美学を信じてやってきた君だから、引退の決断すら応援するよ。君だけの美しさをたいせつにしてくれ。かっこいいよ、永遠だ、新庄!
横浜にいる間に所謂事件名『山口母子殺人事件』の最高裁口弁の報道があった。結審と決まったようだが、最高裁は、一ヶ月以内に被告弁護側に主張の追加(書面で提出)を認めた。丁寧なところを見せたのは、2審棄却、差し戻さず自判、ということを窺わせる。
この事件の非道であることは、論をまたない。けれども山口母子殺人事件の遺族(被害者には夫であり父親)から折に触れて発せられる言葉に、私は心凍るものを覚えてきた。「加害者をもし懲役刑にして、彼が務めおえた後、社会へ出てきて再犯した場合、裁判所は責任を取るくらいの覚悟で判決してほしい」「私が今後生きてゆくために、加害者の死刑判決が必要だ」・・・。悲しみとか惻隠の情が、「怒り」に圧倒された社会。このような社会で更生してゆくことは、難しい。
相次ぐ凶悪事件により「死刑反対」の声が小さく小さくされている。もし仮に国民の100%が死刑賛成に立ったとしたら、その社会に生き生きとした息吹、命が守られているだろうか。私には不安でもあり恐ろしさをも禁じ得ない。「殺しあうこと(死刑)はいけないよ」という一灯が小さくてもよい命脈を保っていてほしい、と願うのは間違いだろうか。事件の周縁に悲しみが満ちている。その悲しみを、怒りで吹き消してしまうとしたら、凶悪事件はなくならない。