村瀬学著『「食べる」思想』(洋泉社・2415円)
評者 赤松憲雄(東北芸術工科大教授)
はじまりに置かれたマニフェストがいい。「われ食べる、ゆえにわれあり」という。意表を突いているようにも、当たり前のようにも感じられる。しかし、人間と食べることにまつわる多彩な風景の中を、著書に導かれつつさ迷ううちに、厳粛な思いに浸されてゆく。そこには、どれほど深く広大な問いの地平が隠されていることか。
そもそも、食べるとは何か、食べものとは何か。「食べる」が「殺す」と対をなしているところに厄介な問いが転がっている。「一口サイズ」に切り刻まれ、調理された動物の身体からは、あらかじめ生き物としての過去が消去されている。「生き物の死」が生の源になっているという生の理不尽さは、ほんとうに恐ろしい。
しかし、ここからさらに恐ろしい問いが始まるのである。人が食う/神が喰う。それが表裏をなして補いあうように見いだされるとき、にわかに供養や人身御供といった血なまぐさい出来事が浮上してくる。人をイケニエとして「食べる神」にささげる儀式は、近代の手前まで世界のあちこちで行われていた。しかも、人はイケニエの身体を神とともに共食する。ここに、カニバリズム(人肉嗜食)という問題が姿を現す。
興味本位に「食人」イメージをかき立てることに著者は批判的だ。ところが、カニバリズム論に向けての批判こそが、ときに、カニバリズムというおぞましきものをむきだしにする。この逆説からは逃れがたい。そして宮沢賢治の童話、映画『ハンニバル』やゴヤの「わが子を喰うサトゥルヌス」、『赤頭巾ちゃん』や現代の絵本のなかにその影が認められる。狂牛病や臓器移植のなかにも、「一種のカニバリズム」が見いだされる。
「食べる」と「殺す」が不可分一体に、もっとも凝縮されて現れるカニバリズムは、きわめて現代的な問いの結節点である。この書はそのすぐれた序章となるはずだ。
(中日新聞2010/5/31)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
◇ わが子を死なせる思い。これまで豚に食わせてもらってきた。処分前に せめて最高の餌を2010-05-26
〈来栖の独白〉
映画『おくりびと』のビデオを見た。小林大悟(主人公)が納棺夫の仕事を辞めようと、社長(佐々木)のところへ赴く。社屋の2Fに佐々木の居住区はあり、たまたま食事の始まるところだった。河豚の白子を卓上のコンロで焼いている。
小林に「食べろよ」と勧め、「これ(河豚の白子)だって、ご遺体だ。生きもの(人類)が、生きものを喰って生きている。そうだろ? あ~、死ぬ気になれなきゃ、喰うしかない。喰うなら、美味いほうがいい」。
小林も口に入れる。熱いので一瞬慌てるが「美味いっすね」。
社長「うまいんだよね。困ったことに」。
「死ぬ気になれなきゃ、喰うしかない」のである。「困ったことに」そのように神さまはこの世を造られた。生きものの命を無尽蔵に奪って命を繋ぐ人類。しかし、その一人ひとりにも、必ず100年前後で終わりはくる。そのようにも、神はこの世を造られた。人為、自然を問わず、すべてのものに死が訪れる。
この摂理に対して、イエスは激しく動揺し涙を流された。恬淡とやり過ごすことはできなかったのである。99人の義人をおいてでも、ひとりの罪人の悔い改めを喜ぶ(ルカ15:4~)という、極めて不合理な人生観を生きられたイエスらしい。
“ヨハネ11章30~
イエスはまだ村に、はいってこられず、マルタがお迎えしたその場所におられた。マリヤと一緒に家にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、彼女は墓に泣きに行くのであろうと思い、そのあとからついて行った。マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。イエスは涙を流された。するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」。イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。”
生産農家の皆さまのお辛い胸中、お察ししてあまりある。ほんとうに、どんなにか・・・。「命を戴くことへの感謝」「命を奪う悲しみ」、谷川俊太郎さんは、いみじくも次のように言う。
“「うし/しんでくれた ぼくのために/そいではんばーぐになった/ありがとう うし…」。生きものへ、生産者の人たちへ、父母へ、みんなに感謝しつついただきます。”
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
宮崎牛、口蹄疫 「人間は、地上における最も兇暴な食欲をもつ生物だ」2010-05-17
「宮崎牛」の種牛、口蹄疫の感染疑い 49頭を殺処分へ
朝日新聞2010年5月16日19時50分
高級ブランド「宮崎牛」の種牛を一括管理する唯一の供給拠点・宮崎県家畜改良事業団(同県高鍋町)で、家畜の伝染病、口蹄疫(こうていえき)の疑いのある肥育牛5頭が見つかったことを受け、県は種牛49頭など計308頭の牛の殺処分を決めた、と16日に発表した。県やJA宮崎経済連によると、宮崎牛は年間1万2千~1万3千頭が出荷されるほか、県産の子牛が松阪牛(三重県)や近江牛(滋賀県)、佐賀牛の産地など県外にも年間約3万頭出荷されており、宮崎牛ブランドだけでなく各産地への影響も懸念される。
宮崎県は13~14日に、農家に供給する冷凍精液の9割を作る「エース級」の種牛6頭を、約20キロ離れた同県西都市に避難させていた。移動直前に遺伝子検査で陰性を確認したというが、その1~2日後に今回の感染疑い例が確認された。潜伏期間(7~10日間ほど)を考えると感染の疑いが否定できない。県は1週間、毎日再検査と経過観察を行い、感染の有無を確認する。16日の再検査では6頭とも陰性だった。県事業団に残った種牛49頭と、種牛の能力を評価するために種付けして生まれた肥育牛259頭は、すべて殺処分対象となった。
県は16日、同県川南町や都農町、高鍋町の計19農場で新たに感染が疑われる豚と牛が見つかったと発表。同日深夜までに確認された感染疑い・確定例は計111例、殺処分対象は計8万5723頭になった。JA宮崎中央会は15日までの経済的損失を160億円と試算している。
種牛を育てるには7~10年ほどかかるとされるが、県によると、県事業団には冷凍精液の在庫は約15万本あり、少なくとも県内の農家に1年間供給できることから、当面は子牛の供給が可能だという。
-------------------------------------------------------------------
宮崎牛の種牛施設でも口蹄疫の疑い エース級は避難済み
asahi.com2010年5月16日1時53分
宮崎県は16日未明、「宮崎牛」ブランドを支える種牛を一括して管理する県家畜改良事業団(同県高鍋町)で、家畜の伝染病、口蹄疫(こうていえき)の疑いのある牛が見つかった、と発表した。県は13~14日に、農家に供給する冷凍精液の9割を作るエース級の種牛6頭を避難させたばかりだった。国の防疫指針では、感染の疑い例が見つかった農場で飼育する牛や豚は原則として殺処分することになっており、「宮崎牛」ブランドにとって大打撃になる可能性がある。
事業団は、先に口蹄疫が発生した同県川南町の農場を起点にした半径10キロの移動制限区域内にある。種牛への感染が懸念されながらも、すべての牛を移動できずにいたが、提供精液の9割を作る種牛6頭については、国から特別な許可が得られ、13~14日に約20キロ離れた同県西都市に避難させていた。
事業団には現在、49頭の種牛が残っているほか、種牛の能力を評価するために種付けして生まれた肥育牛259頭がおり、すべて殺処分対象となった。
また、今回の感染の疑いの確認と、エース級の6頭の避難の時期は、1~2日しか違っておらず、避難前に口蹄疫の遺伝子検査で「陰性」だった6頭も、ウイルスの潜伏期間(7~10日間ほど)を考えると、感染の疑いが否定できない状況だ。県は記者会見で「移動直前に陰性を確認しており、これらの牛で再興を図りたい」と話した。6頭については経過観察を続ける。
県は16日、同事業団のほかにも、同県川南町の9農場の豚と牛に新たに感染疑い例が見つかったと発表。9農場とその関連農場には計1737頭の豚や牛が飼育されており、確認された感染疑い・確定例は計101例、殺処分対象は計8万2411頭になった。
口蹄疫は人には感染せず、感染した牛や豚の肉を食べても人体に影響はない。
..............
〈来栖の独白〉
日々伝えられる情報。私は牛の目を見たことがある。大きなやさしい平和な目だ。
牛たちと共にある畜産農家の方たち。如何ばかり御辛いこの日頃の明け暮れでいらっしゃるだろう。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
五木寛之著『人間の運命』(東京書籍)
私たち人間は、地上における最も兇暴な食欲をもつ生物だ。1年間に地上で食用として殺される動物の数は、天文学的な数字だろう。
狂牛病や鳥インフルエンザ、豚インフルエンザなどがさわがれるたびに、「天罰」という古い言葉を思いださないわけにはいかない。
私たち人間は、おそろしく強力な文明をつくりあげた。その力でもって地上のあらゆる生命を消費しながら生きている。
人間は他の生命あるものを殺し、食う以外に生きるすべをもたない。
私はこれを人間の大きな「宿業」のひとつと考える。人間が過去のつみ重ねてきた行為によってせおわされる運命のことだ。
私たちは、この数十年間に、繰り返し異様な病気の出現におどろかされてきた。
狂牛病しかり。鳥インフルエンザしかり。そして最近は豚インフルエンザで大騒ぎしている。
これをこそ「宿業」と言わずして何と言うべきだろうか。そのうち蟹インフルエンザが登場しても少しもおかしくないのだ。
大豆も、トウモロコシも、野菜も、すべてそのように大量に加工処理されて人間の命を支えているのである。
生きているものは、すべてなんらかの形で他の生命を犠牲にして生きる。そのことを生命の循環と言ってしまえば、なんとなく口当たりがいい。
それが自然の摂理なのだ、となんとなく納得できるような気がするからだ。
しかし、生命の循環、などという表現を現実にあてはめてみると、実際には言葉につくせないほどの凄惨なドラマがある。
砂漠やジャングルでの、動物の殺しあいにはじまって、ことごとくが目をおおわずにはいられない厳しいドラマにみちている。
しかし私たちは、ふだんその生命の消費を、ほとんど苦痛には感じてはいない。
以前は料理屋などで、さかんに「活け作り」「生け作り」などというメニューがもてはやされていた。
コイやタイなどの魚を、生きてピクピク動いたままで刺身にして出す料理である。いまでも私たちは、鉄板焼きの店などで、生きたエビや、動くアワビなどの料理を楽しむ。
よくよく考えてみると、生命というものの実感が、自分たち人間だけの世界で尊重され、他の生命などまったく無視されていることがわかる。
しかし、生きるということは、そういうことなのだ、と居直るならば、われわれ人類は、すべて悪のなかに生きている、と言ってもいいだろう。
命の尊重というのは、すべての生命が平等に重く感じられてこそなのだ。人間の命だけが、特別に尊いわけではあるまい。◇
五木寛之著『天命』幻冬舎文庫
p64~
ある東北の大きな農場でのことです。
かつてある少女の父親から聞いた話です。そこに行くまで、その牧場については牧歌的でロマンティックなイメージを持っていました。
ところが実際に見てみると、牛たちは電流の通った柵で囲まれ、排泄場所も狭い区域に限られていました。水を流すためにそうしているのでしょう。決まった時刻になると、牛たちは狭い中庭にある運動場へ連れて行かれ、遊動円木のような、唐傘の骨を巨大にしたような機械の下につながれる。機械から延びた枝のようなものの先に鉄の金輪があり、それを牛の鼻に結びつける。機械のスウィッチをいれると、その唐傘が回転を始めます。牛はそれに引っ張られてぐるぐると歩き回る。機械が動いている間じゅう歩くわけです。牛の運動のためでしょうね。周りには広大な草原があるのですから自由に歩かせればいいと思うのですが、おそらく経済効率のためにそうしているのでしょう。牛は死ぬまでそれをくり返させられます。
その父親が言うには、それを見て以来、少女はいっさい牛肉を口にしなくなってしまったそうです。牛をそうして人間が無残に扱っているという罪悪感からでしょうか。少女は、人間が生きていくために、こんなふうに生き物を虐待し、その肉を食べておいしいなどと喜んでいる。自分の抱えている罪深さにおびえたのではないかと私は思います。
そうしたことはどこにいても体験できることでしょう。養鶏にしても、工場のように無理やり飼料を食べさせ卵をとり、使い捨てのように扱っていることはよく知られたことです。牛に骨肉粉を食べさせるのは、共食いをさせているようなものです。大量生産、経済効率のためにそこまでやるということを知ったとき、人間の欲の深さを思わずにはいられません。
これは動物を虐げた場合だけではありません。どんなに家畜を慈しんで育てたとしても、結局はそれを人間は食べてしまう。生産者の問題ではなく、人間は誰でも本来そうして他の生きものの生命を摂取することでしか生きられないという自明の理です。
ただ自分の罪の深さを感じるのは個性のひとつであり、それをまったく感じない人ももちろん多いのです。(中略)
生きるために、われわれは「悪人」であらざるをえない。しかし親鸞は、たとえそうであっても、救われ、浄土へ往けると言ったのです。
親鸞のいう「悪人」とはなんでしょうか。悪人とは、誠実な人間を踏み台にして生きてきた人間そのもです。「悪」というより、その自分の姿を恥じ、内心で「悲しんでいる人」と私はとらえています。(中略)
我々は、いずれにしろ、どんなかたちであれ、生き延びるということは、他人を犠牲にし、その上で生きていることに変わりはありません。先ほども書いたように、単純な話、他の生命を食べることでしか、生きられないのですから。考えてみれば恐ろしいことです。
そうした悲しさという感情がない人にとっては意味はないかもしれません。「善人」というのは「悲しい」と思ってない人です。お布施をし、立派なおこないをしていると言って胸を張っている人たちです。自信に満ちた人。自分の生きている価値になんの疑いも持たない人。自分はこれだけいいことをしているのだから、死後はかならず浄土へ往けると確信し、安心している人。
親鸞が言っている悪人というのは、悪人であることの悲しみをこころのなかにたたえた人のことなのです。悪人として威張っている人ではありません。
私も弟と妹を抱えて生き残っていくためには、悪人にならざるをえなかった。その人間の抱えている悲しみをわかってくれるのは、この「悪人正機」の思想しかないんじゃないかという気がしました。(中略)
攻撃するでもなく、怒るでもなく、歎くということ。現実に対しての、深いため息が、行間にはあります。『歎異抄』を読むということは、親鸞の大きな悲しみにふれることではないでしょうか。
五木寛之著『いまを生きるちから』(角川文庫〉
いま、牛や鳥や魚や、色んな形で食品に問題が起っています。それは私たち人間が、あまりにも他の生物に対して傲慢でありすぎたからだ、という意見もようやく出てきました。
私たちは決して地球のただひとりの主人公ではない。他のすべての生物と共にこの地上に生きる存在である。その「共生」という感覚をこそ「アニミズム」という言葉で呼びなおしてみたらどうでしょうか。