『イエスの実像』日暮晩夏著
p152~
しかしおとなしい父のヨセフは、運が良かったのか悪かったのか、イエスとの間に決定的な衝突と対立を生まなかった。ヨセフはイエスが成人する前に死んでしまったからである。福音書にその記述はないが、イエス19歳の時という。おそらくその頃だったろう。それで大きな間違いはないと私は思っている。それ以後、その役割を担ったのは、母マリアであり、兄弟姉妹である。しかしイエスのような異能異才、人類史上類を見ない奇形とも思われる才能豊かな人間を出してしまった家族にとって、イエスは災難以外の何ものでもなかったはずだ。私にはそう思われる。それゆえ、イエスによる人類史上最初にして最大の受難者はイエスの家族だったということになる。そう言って大きな間違いはないと思う。
大天使ガブリエルの告知のもとに生まれた神の子イエスは、そのような幼少期を過ごし、青春期に入り、世間と対峙し始めると、悪魔へとその相貌を変えていった。そう変じざるを得なかったのだ。そうしたイエスを前に、母マリアをはじめとするその家族は、怒れるイエスにどう対処して良いかわからなかったろう。当然だった。例がなかったからだ。彼らは怒れるイエスを前におろおろし、息を潜めるばかりだった。怒りが過ぎ去るのを(p153~)ただ待つ以外に手段も方法もなかった。
聖書のうち、もっともイエスについてまっとうな記述をしていると思われる四つの福音書のどこを探しても、イエスの家族に対する記述は恐ろしく少ない。ほとんど見当たらないと言っていい。後年聖母マリアとして世界中から愛されるマリアにしてもそうで、その存在感は微々たるものである。ただそうであってもこの家族の偉大性は、そうした怒れるイエスや、荒ぶる悪魔のような神聖を備えたイエスに対して、けっして正面衝突はせず、拒否もせず、耐えに耐えて、怒れる獣を見るように最後までイエスを見守っていたことにある。そしてその奥底には、イエスに対する尽きることのない愛情が潜んでいたことは言うまでもない。その一方でイエスはと言えば、終生この家族の無尽の愛に身を委ねることを潔しとはせず、むしろその愛を重荷に感じていた。イエスとはそういう男だった。人を愛することはできても、愛されることに安住するタイプではなく、むしろそれを苦手とするタイプの人間だった。確証はないが、イエスは結局のところ、こうした家族の愛に耐えられず、家を出たものと思われる。私はそう思っている。
◎上記事は[『イエスの実像』]からの書き写し
マタイ 12章
46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。
47 それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟が、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。
48 イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。
49 そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
50 天にいますわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである。