■狂言名曲紹介
止動方角
太郎 「よう借りてきたとも言わいで、さてもさても腹の立つ。そうじゃ、ちと落といてやらう。
主 「何をぼいぼい言うている。
太郎 「(馬の後ろに立ち)エヘン、エヘン、エヘン。
*登場人物
シテ 太郎冠者
アド 主
アド 伯父
アド 馬 (賢徳の面をつける)
*予備知識
当時の茶の湯というと、賭け物をして種々の茶を飲み比べる「闘茶」が主流であったようです。また曲中、茶に行くのに馬を借りますが、馬は一般的に「止」というと動きだし「動」というと静まるのは不思議なことです。
*あらすじ
流行の茶の湯をやりたいが茶の道具を持っていない主人は、太郎冠者を呼び出し、裕福な伯父の処へ行って茶道具と、茶へ行くために格好をつけるため馬と太刀を借りてこいと仰せ付けます。太郎冠者は、「茶も持たずに茶比べなどせいでもよいのに」と至極尤もな愚痴をこぼしながら借りに行きます。
果報者の伯父は気前良く貸してくれますが、貸す馬に近ごろ悪い癖がついて、後ろで咳をすると暴れ出すので気をつけなさいと言われます。風邪気味の太郎冠者は大いに心配し、暴れ出したらどうしましょうと問いますが、伯父はこともなげに「白蓮童子六万菩薩、鎮まり給え止動方角」と呪文をかければ静まるから大丈夫と言います。
太郎冠者は一人ながら行って、かさばる三種もの大きな借り物をようよう借りて運んできますが、迎えに出た主に「遅い」といって怒られます。骨折り損の太郎冠者は憤り、馬に乗った主人の後ろで大咳をして馬を暴れさせ、主を落馬させます。太郎冠者が乗り静め、再び主が乗馬しますが、主は「ツマラヌ馬を借りてきた」といって太郎冠者を口を極めて罵ります。悪口雑言に憤った太郎冠者、再び咳。再び主人落馬。
二度落馬した主はさすがに恐ろしがって三度乗ろうとしません。やむなく太郎冠者が乗り、主が茶器セットと太刀を持ってついていきます。「道行く人にはわたしが主、あなたが従に見えるだろう」と調子づく太郎冠者は、主に対して「あなたを相手に人を使う練習がしてみたい」と述べます。道中暇つぶしにもなろう、と主が許すと、太郎冠者は先に主人に言われたことをそっくりそのまま真似し、主を叱り返します。怒った主は太郎冠者を押し退けて三たび、馬に乗ります。太郎冠者は三たび、咳をして主人を落馬させ、乗り静めるのですが、間違って主人に乗ります。馬は暴れながら橋掛かりの方へ走っていき、二人して待て待てと追い掛けて退場します。
*みどころ
狂言にはたまに動物が出て来ますが、賢徳の面をよく使います。賢徳面はどう見ても人間なのですが、蟹山伏の蟹の精にも、くさびらの茸にも使われ、何の違和感も感じさせません。この曲で馬として出て来れば何の疑いもなく馬です。とても不思議です。あと、みどころじゃないかもしれませんが、ぞんざいで横着な主人が、曲が終わるまで基本的にその性格を変えないというのは狂言としては珍しいのかなとも勝手に思います。
(2008.1.17 updated.)
◎上記事は[散心庵]からの転載・引用です
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巻絹(まきぎぬ)
*あらすじ
巻絹とは、巻いた絹の反物のこと。とりわけ質のよいものが献上品とされました。
時の帝が、霊夢をご覧になり、熊野三社に千疋(せんびき)の巻絹を奉納せよとの勅令をお出しになります。その命を受けた勅使は、熊野で全国から奉納される巻絹を受け取りますが、都からの使者がなかなか来ずに、業を煮やしていました。そうとは知らず都の使者は、途中で音無天神にお参りし、折から咲く梅の香りに心を惹かれ、和歌を一首収めていたのです。
使者は、ようやく本宮に着いたのですが、納品が遅れたことを責められ、勅使に縛り上げられてしまいます。そこへ音無天神の霊が乗り移った巫女が現れ、使者が手向けた和歌によって苦しみを和らげられたと告げ、勅使にその戒めを解くように命じます。勅使は使者のような賤しい者が歌を詠めるはずもないと疑うのですが、使者に詠ませた上の句に、巫女が下の句をつけてその確かさを証したので、使者は縄を解かれ自由の身になりました。
巫女は和歌の徳を褒め称えながら舞い、さらに勅使の願いに応じて祝詞をあげ、神楽を舞います。そのうちに激しい神がかりとなっていきます。御幣も乱れ、飛び上がり、地に臥せるなど激しく狂い舞った後、やがて憑いていた神が上がらせられたと見え、巫女は正気に立ち戻るのでした。
*みどころ
この曲の舞台は紀州の山中にある熊野本宮。清々しい自然に囲まれた聖域で演じられる神秘的な物語は、見る人の心を寛がせて深く広げ、郷愁とも、懐かしさとも呼べるような不思議な感情を呼び起こすでしょう。
大切な巻絹を届けることは二の次で、和歌を詠み、神に捧げることを優先した都の使者の心がけは、神に愛でられました。一方、世の中の決まりごとに縛られる勅使は、都の使者を縛り上げたことを神にやんわりといさめられ、決まりごとや思い込みだけではない、和歌を詠める心のあり様の素晴らしさに気づかされるのです。古来日本では、和歌には神秘的な力があると思われてきました。そこにこのような曲ができた背景があるかも知れません。この和歌の徳を賛美して、巫女が舞いながら、次第に神がかりの勢いを増していく、クセから神楽、キリへと続く一連の場面は大きな見どころです。
その内容も気配も浮世離れした、深い森のなかの出来事にゆったりと身を置き、心で感じていただければと思います。
◎上記事は[the 能 com.]からの転載・引用です
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私は、あまり詳しいことはわかりませんが、能楽の、厳粛で清亮な雰囲気には、何か心に共振するものを感じます。
昔の日本人にとっては、『お能』の謡曲(うたい)は、必修教養だったそうですね。
まあ、武士だったら、殿様から『汝!一曲唄ってみよ!』と名指しされたら、ただちに得意の『お謡い』をうたわなければならないわけですから。。。。。。
この『巻絹』は、紀州の『熊野権現』に関わるお話と『和歌の功徳』を語ったものなんですね。
和歌は、確か【音なしにかつ咲きそむる梅の花、匂わざりせば誰か知るべき】でしたね。
まことに、雅びな物語で、つくづく日本の古典文学・古典芸能の奥深さを思います。
『お能』の物語の中には、中国の古代伝説を題材にした物も幾つかあるようですが、そういう話を今のチャイニーズは知ってるんでしょうか?
そうですよね。「邯鄲」なんかも、蜀の国のお話ですし、結構名作がありますね。「邯鄲」を観たとき、複雑な思いになったことを今、思い出しました。
私、個人的には、能には、嫌いなところが一つもないのです(歌舞伎だと、嫌いな三味線がありますが・・・)。