明日への伝言:昭和のあの日から--1988(昭和63)年 名古屋アベック殺人事件 弁護士に届いた償いの手紙
毎日新聞 2010年3月16日 中部朝刊
■ 人間は変わることができる
《おそらく、突然、この私からのお便りが届いてさぞかしおどろかれていることでしょう》
7枚の便せんに、以前は言葉にできなかった心情が癖のない字で丁寧につづられていた。
2006年11月、岡山刑務所から白濱重人弁護士(60)=愛知県知立市=に届いた手紙の差出人は「名古屋アベック殺人事件」(1988年)の主犯格として1審で死刑、2審で無期懲役が確定した事件当時19歳の少年。白濱さんは2審の途中まで元少年の弁護を担当していた。
《沢山(たくさん)の方々のおかげで与えて頂いたこの命の重さをしっかりとかみしめて、一日一日を大切に毎日その日一日を精一杯(せいいっぱい)前向きに生きています》
88年2月23日未明、名古屋市緑区の大高緑地公園駐車場で、元少年ら17~20歳の男女6人は遊ぶ金欲しさに理容師の男性(当時19歳)と理容師見習の女性(同20歳)を襲い、現金約2万円を奪った。2人を車で連れ回して殺害し、遺体を三重県大山田村(現・伊賀市)の山林に遺棄。首にまいたロープを左右から綱引きのように引っ張って絞殺するという残虐な手口が社会に衝撃を与え、凶悪事件を起こす少年たちの「ゲーム感覚」が指摘された。
白濱さんは、少年鑑別所で初めて接見した元少年を「人ごとのようにあっけらかんとしていた」と振り返る。別々に拘置された元少年らには手紙のやり取りが許されたが、そこに反省の言葉はなく、ふざけた調子も見受けられた。初公判の後の手紙には「すごい人が来てたね」などと傍聴人の多さに驚く言葉が並んだ。
89年6月、元少年への判決は死刑だった。このころ、元少年は「別に死刑になってもいい」と自暴自棄になっていた。「君なら頑張って生きて償っていくことができる」と励ますと、「自信がない」と答えた。白濱さんは言葉を強めた。「自信はこれからついてくる」
《決して私を見捨てることなく、最後まで私と真剣に向き合って下さった白濱先生の存在は、当時の私には本当にとても大きかったです》
だが実は自分も悩んでいたのだ。事件を受け持った時は弁護士4年目。殺人事件の弁護は初めてだった。死刑判決は自分の力不足のせいではないか--。
2審に入って20歳を超えた元少年は、犯行時の心境を自らの言葉で表現できるほどに成熟していく。2審から組織された白濱さんら5人の弁護団は「仲間内で虚勢を張り合い犯行に至った」と計画性のなさを改めて主張。裁判長の訴訟指揮への抗議で元少年が91年暮れに弁護団を解任する一幕もあったが、96年12月の判決は矯正可能性を認めて1審判決を破棄した。6人の刑は無期から「懲役5年以上10年以下」と確定した。
解任後、元少年との接触が絶えた白濱さんの胸に一つの問いが残った。元少年は本当に心から反省するようになっていたのか--。
そして10年が過ぎた。06年の監獄法改正で、受刑者に親族以外との信書のやり取りが認められた。
《私が生きていることのありがたさや素晴らしさを感じ、生きることの大切さを知れば知る程、被害者の方に対する申し訳なさは強まる一方で(中略)決して色あせることはありません》
白濱さんは半年間、手紙をかばんに入れて持ち歩いた。事件が18年の歳月を経て送ってきたメッセージを誰かに伝えたかった。
こんなにも人間は変わることができる--。
【永海俊】毎日新聞 2010年3月16日 中部朝刊
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◇ 心に刺さった母の言葉「名古屋アベック殺人事件」獄中21年の元少年
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