ワクチン接種牛9百頭、共同埋却「牛は処分を察してか悲しい顔をする。涙を流した牛もいた」

2010-06-07 | いのち 環境

ワクチン接種牛9百頭、共同埋却 種牛5頭は抗体検査もシロ
2010年6月7日 11時47分(共同)
 口蹄疫問題で、宮崎県は7日、発生地から半径10キロ圏内でワクチン接種を受けた日向市の農家約70戸が飼育する牛約900頭を、遊休地3カ所に集めて殺処分し共同埋却するため、農家から移動させる作業を始めた。移動制限区域内だが、処分迅速化のため特例として農林水産省が認めた。
 7日は15戸の約180頭が対象で、全体の作業は12日まで。県によると、週内に宮崎市などでも同様の作業が始まる。
 県が避難させたエース級種牛5頭は6日、遺伝子検査に続き、抗体検査でも口蹄疫に感染していないことが裏付けられた。県は、5頭の避難先である西都市尾八重を中心とする移動制限区域解除に向け、10日に5頭の抗体検査を再度実施。半径10キロ圏内にある農家2戸の家畜の健康状態も確認する方針。順調にいけば制限区域は13日午前0時に解除となる見通し。
 東国原英夫知事は6日、「種牛は貴重な財産であり、5頭を守れる可能性が高まったことに安堵するとともに、5頭以外を失ってしまった事態を重く受け止めている」とのコメントを出した。
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〈来栖の独白〉
 他の生きものの命を奪って食べずには一日も命を繋げない人類である。口蹄疫に関するニュースは、私にその事実をあらためて突きつけた。牛も豚も人類の食糧として「生産」「出荷」され、商品として不適となれば「処分」される。
 五木寛之さんは『人間の運命』(東京書籍)の中で次のように言う。
“私たち人間は、地上における最も兇暴な食欲をもつ生物だ。1年間に地上で食用として殺される動物の数は、天文学的な数字だろう。
 狂牛病や鳥インフルエンザ、豚インフルエンザなどがさわがれるたびに、「天罰」という古い言葉を思いださないわけにはいかない。
 私たち人間は、おそろしく強力な文明をつくりあげた。その力でもって地上のあらゆる生命を消費しながら生きている。人間は他の生命あるものを殺し、食う以外に生きるすべをもたない。私はこれを人間の大きな「宿業」のひとつと考える。人間が過去のつみ重ねてきた行為によってせおわされる運命のことだ。
 私たちは、この数十年間に、繰り返し異様な病気の出現におどろかされてきた。狂牛病しかり。鳥インフルエンザしかり。そして最近は豚インフルエンザで大騒ぎしている。
 これをこそ「宿業」と言わずして何と言うべきだろうか。そのうち蟹インフルエンザが登場しても少しもおかしくないのだ。大豆も、トウモロコシも、野菜も、すべてそのように大量に加工処理されて人間の命を支えているのである。
 生きているものは、すべてなんらかの形で他の生命を犠牲にして生きる。そのことを生命の循環と言ってしまえば、なんとなく口当たりがいい。それが自然の摂理なのだ、となんとなく納得できるような気がするからだ。
 しかし、生命の循環、などという表現を現実にあてはめてみると、実際には言葉につくせないほどの凄惨なドラマがある。砂漠やジャングルでの、動物の殺しあいにはじまって、ことごとくが目をおおわずにはいられない厳しいドラマにみちている。
 しかし私たちは、ふだんその生命の消費を、ほとんど苦痛には感じてはいない。以前は料理屋などで、さかんに「活け作り」「生け作り」などというメニューがもてはやされていた。コイやタイなどの魚を、生きてピクピク動いたままで刺身にして出す料理である。いまでも私たちは、鉄板焼きの店などで、生きたエビや、動くアワビなどの料理を楽しむ。
 よくよく考えてみると、生命というものの実感が、自分たち人間だけの世界で尊重され、他の生命などまったく無視されていることがわかる。
 しかし、生きるということは、そういうことなのだ、と居直るならば、われわれ人類は、すべて悪のなかに生きている、と言ってもいいだろう。命の尊重というのは、すべての生命が平等に重く感じられてこそなのだ。人間の命だけが、特別に尊いわけではあるまい。”

 日々他者の命を奪って生きているくせしてそれら生きものに与える酷さにくよくよ悩む私に、五木寛之さんの『天命』(幻冬舎文庫)がすっきりと腹に落ちた。五木さんは、人間の悲惨、とりわけ老人となってからの悲惨を「罰を与えられるような老年」と言われている。「罰」という言葉が、私に一応の納得を与えたのである。あまたの命を奪いつくして生きた人間、その終末は無惨であってよい、正解を得たように私は得心し覚悟したのである。五木さんは次のように言う。
“これでは人間の後半生はなんだというのか。必死で前半生を生きた人間が、あたかも罰を与えられるような老年を生きなければならないというのは、どういうことか。(略)
 いま私の周辺には、人生の半ばまで一所懸命に生きて、そのあげく不運な後半生を突きつけられた友人、知己があまりにも多いのである。
 老いていくことは、肉体的にはエントロピーが増大していくことだ。崩れていき、錆びついてくる体とともに生きることだ。夜は眠れず、歯も、目も不自由になってくる。手足もこわばり、記憶力は日々おとろえてくる。そんなありきたりの老化は覚悟の上としても、さらにその上に病気が多発するのが問題である。(略)
 悲惨としかいいようのない執着(しゅうじゃく)と絶望のなかで生きる人々の、なんと多いことだろう。それを横目で眺めながら、自分ひとりが平安なこころでいられるものだろうか。「衆生病むがゆえにわれ病む」というのが菩薩のこころだとすれば、澄み渡った老後の境地など、本当は決してありえないのではあるまいか。(略)
 死、そのものよりも、死へいたる過程が悲惨なのだ。(略)人生の途上における夭折は別である。長寿社会の緩慢な死の道行について私は語っているのである。(略)
 いま自分の周囲を見わたして、思わずため息が出るのを抑えることができない。どうして必死で生きた人間が、後半生を老、病、死という三重の罰に取り囲まれて暮らさなければならないのか。
 「そのために神さまはボケるという逃げ道を用意してくれているのさ。ボケてしまえば悲惨もくそもないだろう」しかし、私はボケながら平和に生きる道を人間の望ましい姿とは思わない。それはむしろ、さらなる悲惨かもしれないのである。”

 老年の悲惨については、私自身、非常な不安を抱えて生きてきた。最重要関心事といっても過言ではない。
 しかし、五木さんの「罰」という言葉に出会い、覚悟ができたのである。夥しい命を奪って生き延びてきた「私という人間」の末路は、悲惨でよい。罰として、悲惨でよい。そうでなくしてどうして、奪った命に対して割り切れよう。五木さんはそのようには考えなかったのだが、私は、少なくとも「私という人間」の末路は悲惨でよい、と覚悟をきめる。餓死でもよい。それが、いのち奪われた無辜の生きものたちへの、せめてもの辻褄あわせになる。

電気を流した。「豚は一瞬、金縛りのように硬直して、聞いたことのない悲鳴のような鳴き声を上げた」 
「うし/しんでくれた ぼくのために/そいではんばーぐになった/ありがとう うし…」
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