
「少年A」この子を生んで……父と母 悔恨の手記
「少年A」の父母 著 文藝春秋刊
発売日:1999年04月
愛していた。信じてもいた。その14歳の息子Aが、神戸連続児童殺傷事件の憎むべき犯人酒鬼薔薇聖斗だったとは。両親が2年間の沈黙を破り悔恨の涙とともに綴った息子Aとのすべて
息子Aをあのようにしてしまった不甲斐ない私達の、14年にわたるAとの暮らしと事件前後の私達のありのままを綴ることで、「真実を知りたい」という被害者のご家族の方々のお気持ちに多少なりともお答えすることができ、前向きな何かが生まれればという願いを込め、拙い文ではありますが、本書を書きました。(父親の言葉)
P7 神戸連続児童殺傷事件について---両親の手記を刊行するに当たって
P8~
「さあ、ゲームの始まりです。愚鈍な警察諸君、ボクを止めてみたまえ。ボクは殺しが愉快でたまらない」---。
1997年5月27日、ナチスの鉤十字もどきのマークとともに記された「挑戦状」とともに、土師淳君の遺体の頭部が神戸市須磨区の友が丘中学の正門で発見され、日本中がその事件の異様さに衝撃を受けた。
そして6月、A少年は捜査の攪乱を狙って、大胆不敵な次なる「犯行声明文」を神戸新聞社に送りつける。
「透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。(中略)今となっても何故ボクが殺しが好きなのかはわからない。(中略)殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得ることができる」
「酒鬼薔薇聖斗」と名乗った少年は、饒舌に自己を主張した。
それ以前にも1997年2月10日、通りすがりの小学生の女の子2人をショックハンマーで殴って(p9~)怪我を負わせ、翌月の16日にも近所の小学生・山下彩花(あやか)さんをショックハンマーで殴り、殺害。同じ日に、もう1人の女児をナイフで刺すなど、連続通り魔事件を起こし、その凶行をノートに「人間の壊れやすさを確かめるための『聖なる実験』をしました」と書き記していた。
6月28日、A少年はついに兵庫県警に逮捕されるが、少年は警察、弁護士、精神鑑定医らを相手に、録音テープのように淡々と、その殺害状況を繰り返し繰り返し語った。「少年はは不気味なほど、落ち着いていた。少年との会話はまるで死んだ人間と話をしているように冷ややかな感触だった」(家裁関係者)
p10~
A少年は、被害者のことを「僕が殺した死体であり、僕の作品」と呼び、その遺体を切り裂き、血を飲んだことを、「その理由は『僕の血は汚れているので、純粋な子供の血を飲めば、その汚れた血が清められる』と思ったからでした」(検事調書より)と告白した。
被害者の遺体の頭部を校門に置いた時の心境を「その間、僕は学校の正門前に首が生えているというような『ちょっと不思議な映像だな』と思って見ていたのです。(中略)しばらくはこの不思議な映像は僕が作ったのだという満足感に浸りました」と澱みなく語っている。
「僕は2月10日に、何の理由もなく、またきっかけもない女の子ふたりのそれぞれの頭をショックハンマーで殴り付けたことから、僕は到底越えることが出来ないと思っていた一線を越えたのです。
越えることの出来ない一線とは、人の道ということです。
その道を踏み外したことから、僕にとって理性とか良心というものの大半をその時落してしまいました。
それからというもの、一旦人の道を踏み外したら、後は何をやっても構わないと思うようになり、人の死を理解して、僕のものにしたいという、僕の欲望を抑えることが出来なくなってしまいました」(検事調書より)
P11~
少年は精神鑑定の結果、「年齢相応の知能を有し、意識も清明である。精神病ではなく、それを疑わせる症状もないのであって(中略)、成人の刑事事件にいう心神耗弱の状況にあったとまでは言えない」と判定された。
つまり少年は、正気のままで被害者を次々に惨殺したのである。
理由なき殺人----。
少年犯罪史上最も凶悪な犯行であり、その14歳の肖像はマスメディアというフィルターを通しモンスターと化し、日本中を震撼させた。
少年自身も、「懲役13年」という作文の中で、「かつて自分だったモノの鬼神のごとき『絶対零度の狂気』を感じさせるのである。とうてい、反論こそすれ抵抗などできようはずもない」と書き記している。
どうしたら、14歳の少年の心はここまで固く凍りつくのか?
彼は一体、何者なのか?
この少年は、親にどのように育てられ、ここまでに成長したのか?(略)
p12~
A少年が東京・府中の関東医療少年院に送致された97年10月半ばより、私達は事件の答えを探すべく、両親に接触を図り、何度もインタビューをお願いしてきた。
しかし、その答えはいつも「否」だった。両親は「自分達に事件を語る資格がない」と言うのである。また、マスコミに対する極度の不信感と恐怖心にも由来しているようだった。事件後、A少年の2人の弟が転校した学校、その居住場所が、関係者の懸命な努力でマスコミに分からぬよう確保されていたにもかかわらず、インタビューでメディアが過熱すれば、再び弟達の学校生活が脅かされ、さらには善意から世話をしてくれている人々にも迷惑がかかることになる、という心配からだった。
p15~
A少年の両親を語る上で、ある興味深いエピソードを、私達はこの間に得ている。
A少年の友が丘の自宅の斜め向かいの家の樋には、いつも石がたくさん詰まっていたそうである。これはA少年が、塀に上っている猫を目掛けて投げつけたものが、隣家の樋に溜まったものだった。
近所の人は皆、A少年の家から隣家へ石が飛ぶのを見ており、少年が投げたものであることにウスウス気付いていた。
しかし、当のA少年の母親は、そんなこととは露知らずに「お宅の樋に石が溜まっていますよ」と隣人に報せ、自宅の2階に案内し、そこから現場を見せて注意を促したという。
p16~
まさか自分の息子のやったこととは気付かずに、親切心から…。
「私達は、事件について隠すことは何もありません。もう失う物もありません。嘘をつく必要がどこにあるでしょうか」
両親はこう語っている。本書は、「少年A事件」とA少年の14年(事件後を含めると16年)の軌跡を両親側から綴った、もう一つの『真実』である。(略)
最後になりましたが、この事件により尊い命を失われた土師淳君と山下彩花さんのご冥福を心よりお祈りいたします。
(1999年3月)
p21 2章 息子が「酒鬼薔薇聖斗」だと知ったとき--母の手記
A少年は1997年6月28日の逮捕以来、両親に会うことを一貫して拒否していたため、神戸家裁で行われる第2回審判直前の9月中旬(中略)、両親は連絡なしに、息子が送致されている神戸少年鑑別所を訪れた。
これまで涙ひとつ見せず、県警捜査員、家裁調査官、精神鑑定人らを相手に、終始冷静沈着に証言していた少年が、この日両親の姿を見るや、泣き叫んで激昂し、ひどく取り乱した。「酒鬼薔薇聖斗」から15歳(この時点では)の少年に戻った一瞬だった。
p22~
「帰れ、ブタ野郎」
1997年9月18日、私たち夫婦が6月28日の逮捕以来、初めて神戸少年鑑別所に収容された(p23~)長男Aに面会に行ったとき、まず息子から浴びせられたのがこの言葉でした。
「誰が何と言おうと、Aはお父さんとお母さんの子供やから、家族5人で頑張って行こうな」
と、夫が声をかけたそのとき、私たち2人はこう怒鳴られたのです。
鉄格子の付いた重い鉄の扉の奥の、青のペンキが剥げかかって緑に変色したような壁に囲まれた、狭い正方形の面談室。並べてあったパイプ椅子に座り、テーブルを挟んでAと向かい合いました。あの子は最初、身じろぎもせずこちらに顔を向けたまま、ジーッと黙って椅子に腰掛けていました。
しかし、私たちが声をかけたとたん、
「帰れーっ」
「会わないと言ったのに、何で来やがったんや」
火が付いたように怒鳴り出しました。
そして、これまで一度として見せたこともない、すごい形相で私たちを睨みつけました。
〈あの子のあの目ーーー〉
涙をいっぱいに溜め、グーッと上目使いで、心底から私たちを憎んでいるという目ーーー。
あまりのショックと驚きで、私は一瞬、金縛りに遭ったように体が強張ってしまいました。
〈なんて顔をするんやろう〉
ギョロッと目を剥いた、人間じゃないような顔と言うのでしょうか。
P24~
あのような怒りを露わにし、興奮した息子を見るのは、Aを生んでから初めてのことでした。
私は息子の目から自分の目を逸らさないで、顔をジーッとただ見詰めていたのですが、あの子の目からは結局、親である私たちを拒否し心底から憎んでいると思わせる、憎しみに満ちた怒りのようなものしか感じられませんでした。
こうして今振り返っても、やはりそうとしか受け取れません。
p25~
私たち親は正直言って、この時点まで、息子があの恐ろしい事件を起こした犯人とは、とても考えられませんでした。どうしても納得することができませんでした。
あの子の口から真実を聞くまでは、信じられない。きっと何かの間違いに違いない。
いや、間違いであってほしい。たとえその確率が、0・1%、いえ0・01%でもいい。その可能性を信じたいという、藁にも縋る思いで、その日鑑別所の面談室を訪ねたのです。
p27~
夫と2人で会った2日後、鑑別所の管理官から電話で連絡がありました。「Aがお母さんに会ってもいい」と言っているというので、私だけがもう一度、1人で神戸少年鑑別所を訪ねました。
前と同じ面談室で待っていたAは、前よりもいくぶん落ち着きを取り戻した様子でした。
「こないだは、あんなこと言うてゴメン。悪かった」
泣きながら、素直に謝ってきました。
あの子がボロボロと涙を流すので、私はまたハンカチを差出しました。
p47 3章 逮捕前後の息子Aと私達――父の日記と手記
A少年が6月28日の朝、捜査本部が置かれていた須磨署に連行されて以降、一家の生活は180度、暗転した。
逮捕当日の家宅捜索が終了した夜、一家は長年住んでいた友が丘の自宅を逃げるように去り、母子は二度と足を踏み入れることはなかった。親戚縁者の家を転々とし、両親そして2人の弟たちまでが、連日連夜、警察の厳しい事情聴取を受け、A少年の事件前後の行動、言動を詳しく聴かれる。執拗なまでのマスコミ攻勢からその姿を隠すため、両親は一時期、離婚。弟たちは姓名を変え、兵庫県から遠く離れたある都市に親と離れて暮らした。
A少年の父は事情聴取の際、自分があまりに息子のことを知らなすぎたことを痛感し、自戒の念を込めて、逮捕当日からその年8月末まで日記を書いた(淳君が行方不明になった当時のことも、思い出しながら、併せて書き記している)。
以下はそれらの抜粋である。
p49~
●1997年6月28日(土曜日)ーー逮捕の日
朝7時15分頃、今日は子供達の学校も会社も休みで、家族全員その時はまだ眠っていました。
突然、インターホンが鳴り、私が寝間から起きて玄関のドアを開けると、警察の方が2人中に入ってきて、スッと警察手帳を見せられました。名前までは覚えていません。
「外では人目に付くので」と言った後、1人が玄関のドアを閉め、「息子さんに話を聞きたいのですが・・・」と言われました。
「はあ、ウチは息子は3人おりますが・・・」
「ご長男、A君です」(略)
p54~
まさか淳君の事件にAが関わっているとは、正直言って想像もできませんでした。
「A君を容疑者として今、取り調べています」
そして、6時50分頃に2回目の「家宅捜索令状」を見せられました。
「・・・」
その時は、私の頭の中がパッと真っ白になってしまい、何回も「何でですか? Aが何をしたのですか?」と同じことばかりを尋ねるだけで、一体何がわが家で起こっているのかキチンと理解できませんでした。
p55~
8時半頃、居間で付けっ放しになっていたテレビの画面の上のほうに、「淳君事件の犯人逮捕。友が丘の少年」という短いテロップが出ました。
「えっ、こ、これですか? これはAのことですか?」
捜索している警官に妻が尋ねると、「そうです」という短い返事が返ってきました。
何時間過ぎたのか分かりませんが、次第に警官の人数も14,5人に増え、家中が騒然とした雰囲気になり、〈ここが本当に自分の家なのか〉と私たち2人は呆然と立ち尽くしていました。(略)
2階のAの部屋の捜索に私と妻が立ち会い、警官から次々と見たこともないようなモノを見せられました。
p56~
「お父さん、お母さん、これ」
と示されたモノを見たら、蓋もない日本酒のワンカップの空瓶の中に、干からびた何かがたくさん入っていました。
「何やろ? これは」
「猫の舌です」
「・・・」
捜査員は携帯電話で須磨署にいるAと連絡を取りながら、捜索をしているようでした。
「(Aの部屋の)天井を調べたいのですが」
「はあー」
私はこの時まで、Aの部屋の天井のその箇所に天井への出入り口があることも知らず、もちろん天井裏に上がったこともありませんでした。
私は動揺してしまい記憶はハッキリありませんが、捜査員は私たちに、ここにAが淳君の遺体の頭部を隠すために置いていた、と手短に説明したようでした。(略)
p75~
●7月15日(火曜日)
午前6時15分、起きてテレビのニュースを見ると、今日にもAを連続通り魔事件で再逮捕する予定、と報じていました。
私たちは警察から供述調書作成のため質問はされますが、Aの犯行や供述について具体的なことは何も聞かされていませんでした。いつも後になってテレビ、新聞などの報道で知る、そのパターンの繰り返しでした。
p76~
知らせると。私達が弁護士に喋ると思われていたのでしょうか。
自分たちが全く知らない息子のことを報道で知らされるというのは、やりきれない無力感に襲われ、辛いことでした。そして自分たちが供述したことも次々といつの間にか報道される。一体、誰が報道陣に喋っているのか。人間不信になりました。
p105~
9月末になり、ようやく私たち夫婦はAに鑑別所で会うことができました。
Aが私たちを睨んだあの目を、私は一生忘れることができないでしょう。
どれだけAが自分を憎んでいるのか分からないけど、たぶん我々家族のしていたこと全てが憎かったのではないか、と思わざるを得ない目でした。
p122 4章 小学校までの息子A--母の育児日記と手記
p161~
その冬の12月に、母が長い間飼っていた犬のサスケが老衰で死にました。
サスケは、半年ほど前からボケがきてお腹に水が溜まるので、獣医さんに水を抜くための薬をもらいに通い、薬を餌に混ぜて与え続けていました。
Aも下の弟たちも、よくサスケを動物病院に連れて行ったり、家族全員で看病していたのですが、結局その日の朝、起きたら死んでいたのです。
「年とっていたから、老衰であかんかったみたいやわ」
起きてきたAに説明すると、「うん・・・、可哀想やな」と言ったと思います。
私は泣いていましたが、意外にも息子たちは3人とも泣きませんでした。
やはり男の子だけに強いな、しっかりしてきたな、と思ったものでした。
Aもサスケをずいぶんと可愛がり、よくサスケをの餌を横取りしにきた野良猫を、追い払ったり(p162~)していましたが、まさかその頃、カゲで猫を殺して解剖するなどという酷いことをしていたとは、私には想像することすらできませんでした。
しかも、Aは中学生になって、拾ってきた緑亀を庭の水槽で飼うようになりましたが、日曜日には水槽の水替えや甲羅干しにと、このときばかりは弟2人と仲良くせっせと面倒を看て、亀を3人の宝物にしていたので、同じ生きものを虐待するという残酷な面をAが持ち合わせているなどとは、とても考えられませんでした。
p167~
翌月2月、Aが土師淳君を殴る騒ぎを起こしたと、先生から連絡を受けました。私はびっくりして、慌てて土師さんのお宅にお詫びの電話をしました。
「うちのAの方が淳君より大きいのに。本当にごめんね」
淳君は三男の友達で、家にもよく遊びに来ていましたから、本当に申し訳なく思いました。土師さんの奥さんは、そのとき「かまへんよ」と優しくおっしゃってくれました。
職員室で、Aは「あの子がちょっかい出したからや」と言い訳をしていたそうですが、土師さんのお宅に先生に伴われて謝りに行ったとき、奥さんがAの言葉を優しく聞いて下さったので、最後は泣いて謝ったと、先生から電話で聞き、少しは安心しました。
家でもAに懇々と言い聞かせたつもりだったので、反省しているものと思っていました。
でも、結果的にAは、何も分かっていなかったのです。
二度目は、どんなに泣いて謝っても取り返しのつかない、永遠に許されるはずのない行為、命を奪うという酷いことを、あの子は淳君にしてしまった・・・。
なぜ、理由もないのに、淳君を・・・。
いくら考えても考えても、私には分かりません。
p169~
Aは淳君とは年が離れていたので、一緒に遊んでいる姿はほとんど見たことがありませんでした。でも家でおやつを食べるときなどに、顔を合わせる機会は何回かありました。ですから淳君も、「三男のお兄ちゃん」としてAの顔は知っていたのだと思います。
あと中学に入った頃、Aは弟たちと一緒に、庭で亀の水槽の水替えをよくしていました。そんなとき、遊びにきた動物好きの淳君も一緒に亀を見ていたと思います。
p170~
Aが淳君をタンク山に誘ったとき、「亀を見に行かないか?」と声をかけたと後になって知り、胸が詰まりました。
淳君は男の人を怖がりました。だから誰にでも付いて行くようなことは、絶対なかったと思います。たまに夫と顔を合わせても、すーっと玄関から出て行ってしまうこともしばしばあったほどでした。
今考えると、Aでなければ、簡単には淳君をタンク山に連れだせなかったでしょう。
淳君が、三男と友達にさえなっていなかったら・・・。
家でAと顔を合わせてさえいなかったら・・・。
ウチの家とさえ関わらなければ・・・。
・・・恐らく、今もご家族と元気で暮らしていたでしょう。
土師さんにどうやってお詫びしてよいのやら皆目分からず、考えれば考えるほど、頭は混乱してしまいます。お手紙を書いても、気持ちを伝える言葉も思い浮かばず、ただ申し訳ありませんと繰り返し書くことしか、今の私にはできません。深く頭を下げ、夜寝る前にただただご冥福を祈ることしか、なす術がない毎日です。
Aが淳君を殴った翌月の3月、春休みに入ってから、Aと友達4人が万引きで補導され、夫が学校へ呼び出されました。
p233 6章 Aの「精神鑑定書」を読みおえて--母の手記
p258~
Aが母親である私の愛情に飢え、怖がっていたことは、あの子の口から鑑定人に語られていました。
Aが小さい頃、私はあの子が弟を泣かしているのを見て、「泣いたらやめなさい」とお尻をぶっていました。週2、3回だったかもしれません。
Aは、私がAを嫌っているから、叱ったと思っていたようでした。
私の母、Aにとっておばあちゃんは、Aをよくおんぶしていました。
母は腕の力が弱っていたので、いつも背負っていたと思います。
私は肩凝り症だったので、Aをおんぶした記憶はあまりありませんでした。
あの子が温もりを感じたのは、おばあちゃんの背中だけ。(略)
p259~
あの笑顔はすべて作り物で、本心ではなかったのでしょうか。
私が厳しく叱った記憶しかAには残らず、追いつめたのでしょうか。
Aは警察署や神戸少年鑑別所で、いろんな絵を描いていたようです。
鑑定書の中に「淳君の絵は清らかで聖なるものとして描いてあった」と記されていました。それなのにAはなぜ、淳君の命を奪ってしまったのでしょうか?
Aが家裁で描いた家族画が何枚かあるそうです。その絵というのは、一家の団欒風景を描くようにと言われて描いたものだそうですが、なぜかテレビを囲んで5人の首だけが並んでいるというものとか、布団が敷いてあって、家族5人の首から上だけが出ているといった、奇妙な絵ばかりだったそうです。
「家族においては深い相互作用の欠如とジェンダー(性)の未分化性が深層において支配的だった」
深い意味は分かりませんが、要は家族に本当の意味での絆が薄かった、と指摘されているのかと思います。(以下略)
* * * * * * *
日本著者販促センター
文藝春秋 ベスト10(最近3年間)※2001年当時)
順位
|
書名
|
著者名
|
部数
|
1
|
「少年A」この子を産んで・・・
|
「少年A」の父母
|
52万部
|
2
|
太公望(上・中・下巻)
|
宮城谷昌光
|
40万部
|
3
|
漆の実のみのる国
|
藤沢周平
|
37万部
|
4
|
妻と私
|
江藤 淳
|
25.4万部
|
5
|
秘密
|
東野圭吾
|
24万部
|
6
|
長崎ぶらぶら節
|
なかにし礼
|
23万部
|
7
|
壬生義士伝(上・下巻)
|
浅田次郎
|
23万部
|
8
|
すっぴん魂
|
室井 滋
|
22万部
|
9
|
中田語録
|
文藝春秋編
|
20万部
|
10
|
月のしずく
|
浅田次郎
|
19万部
|
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〈来栖の独白 2015.06 〉
2015年6月11日、元少年Aの手記『絶歌』(太田出版)が刊行された。直ぐに、神戸家裁でこの事件の判決文を書いた元判事・井垣康弘氏のコメントがメディアに載った。井垣康弘氏は判決文に則って事件の因果関係を、養育環境、愛着障害の可能性にあると言う。
因果関係について、『「少年A」 この子を生んで…』、決定(判決)文、手記『絶歌』から考えてみたい。
『文藝春秋』2015年5月号【少年A 神戸連続児童殺傷 家裁審判「決定(判決)」全文公表】から、判決文〈非行に至る経緯〉には
少年は、母乳で育てられたが、母は生後10月で離乳を強行した。
とあるが、生後10月はさほど早期の離乳とは思えない。
少年が幼稚園に行って恥をかくことのないよう、団体生活で必要な生活習慣や能力をきっちり身に付けさせようと、排尿、排便、食事、着替え、玩具の後片付け等を早め早めに厳しく仕付けた。
ことも、
人に迷惑を掛けず人から後ろ指を指されないこと、人に優しく、特に小さい子には譲り、苛めないこと、しかし自分の意見をはっきり言い、苛められたらやり返すこと、親の言うことをよく聞き、親に逆らわず従順であること等であり、長男を仕付ければ弟達は自然と見習う
という教育方針も、
母親が中心となって少年には厳しく叱責を続けた。口で何回も注意して聞かない時はお尻を叩くという体罰を加えた。
のも、通常の範囲と思う。
手記『絶歌』であるが、祖母との思い出が懐かしさを伴って大部の紙幅を割き、綴られている。祖母との写真も掲載されている。
私にも覚えがあるが、私どもに次男が生まれてからは、私も母(長男には、祖母)に手伝いを求めたり、実家で面倒を看てもらったりした。長男は、次男に多く手を取られ、また何かにつけストレートで、きつい(怖い)母親よりも、まったりした祖母のほうに甘えた。元少年Aの母親のように年子で計3人の男児を持てば、祖母の援けはどれほど力となったことだろう。
『絶歌』で元少年Aは
母親を憎んだことなんてこれまで一度もなかった。事件後、新聞や週刊誌に「母親との関係に問題があった」、「母親の愛情に飢えていた」、「母親に責任がある」、「母親は本当は息子の犯罪に気付いていたのではないか」などと書かれた。自分のことは何と言われようと仕方ない。でも母親を非難されるのだけは我慢できなかった。母親は事件のことについてはまったく気づいていなかったし、母親は僕を本当に愛して、だいじにしてくれた。僕の起した事件と母親には何の因果関係もない。
と云い、更に、
僕は自分のやったことを、母親にだけは知られたくなかった。それを知った上で、母親に「自分の子供」として愛してもらえる自信がなかったからだ。でも母親は、僕が本当はどんな人間なのか、被害者にどれほど酷いことをしてしまったのか、そのすべてを知っても、以前と同じように、いやそれ以上に、ありのままの僕を自分の一部のように受け容れ、愛し続けてくれた。「役割を演じている母親」に、そんなことができるはずがない。母親の愛には一片の嘘もなかった。僕が母親を信じる以上に、母親は僕を信じてくれた。僕が母親を愛する以上に、母親は僕を愛してくれた。
あんなに大事に育ててくれたのに、たっぷりと愛情を注いでくれたのに、こんな生き方しかできなかったことを、母親に心から申し訳なく思う。
と続けている。
この事件の起きた要因は、親からの過度な躾けなどではなく、祖母の死と、それに続く愛犬サスケの死ではないか、と私は考える。祖母の「死」による永訣と喪失感、「死体」となった祖母を目にしたことが、「死とは何か」というのっぴきならざる問い(『絶歌』p45)を少年Aにもたらすこととなった。やがて祖母の遺品である電気按摩器から「精通」(『絶歌』p48)を経験し、それは本人も云う「性サディズム障害」(『絶歌』p230)へと繋がり、事件を引き起こすこととなった。 以下、『絶歌』より
p48~
体勢を起し、按摩器のスイッチを切ると、しばらく呆けたように宙を見つめた。下着の中にひんやりとした不快感がある。「血でも出たのかもしれない」。そう思い下着をめくると、見たこともない白濁したジェル状の液体がこびりついていた。(略)
僕は祖母の位牌の前で、祖母の遺影に見つめられながら、祖母の愛用していた遺品で、祖母のことを想いながら、精通を経験した。
p49~
僕のなかで“性”と、“死”が“罪悪感”という接着剤でがっちりと結合した瞬間だった。
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〈来栖の独白〉追記2016.12.17
先日井垣康弘元裁判長に対する処分があり、処分の元となった家裁審判「決定(判決)」全文をじっくりと読んだ。
その作業のなかで、やはり元少年Aの養育環境は問題だったのではないか、と感じざるを得なかった。事件が起きるには、無論、様々な要因が存在するだろう。が、本件、養育環境、母親の「仕付け」と呼ぶ育て方には、残念だが、疑問を感じざるを得ない。
非行時における少年の精神状態・心理的状況に至っては、畢竟、私などの理解の及ぶところではない、と知らされた。
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◇ 『絶歌』元少年A著 2015年6月 初版発行 太田出版 (神戸連続児童殺傷事件 酒鬼薔薇聖斗)
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◇ 【元少年Aを闇に戻したのは誰か 7年2カ月の更生期間が水の泡】杉本研士・関東医療少年院元院長 2015/9/16
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