菅前総理が明かす安倍元総理との“最後の会話” 一番の思い出は「二十数年前にもらった電話」

2022-08-15 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉

菅前総理が明かす安倍元総理との“最後の会話” 一番の思い出は「二十数年前にもらった電話」
 2022年08月15日 05時57分 デイリー新潮 

 第1次政権も含めれば、実に8年8カ月もの長期にわたり、権力の座に居続けた安倍晋三元総理(享年67)。死してなお同氏の業績への評価は賛否相半ばするが、政治家「安倍晋三」を最も近い場所で見てきた“盟友”が、その横顔を語り尽くした。

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「菅ちゃん、参院選が終わったら、またゴルフでも行こうよ」

 参院選が始まる前、安倍さんからそう誘っていただいて、具体的な日程まで、すでに決めていたんですよ。

〈そう語り始めたのは、2012年12月に発足した第2次安倍政権以降、7年8カ月にわたり官房長官を務めた菅義偉前総理(73)である。

 女房役として、また後継者として安倍晋三元総理を陰に陽に支えた菅氏が今、安倍元総理と過ごした日々を振り返る。〉

 私が安倍さんと最後にゴルフに行ったのは、私が官房長官に就任する前のこと。第2次政権が発足した後は、それこそ毎日顔を合わせていましたが、それはあくまでも総理と官房長官として打ち合わせをするため。政権発足以来、ゴルフはおろか二人きりでゆっくり食事をするということもありませんでした。

 安倍さんには前からゴルフに誘ってもらっていたんですが、なかなか予定が合わず、参院選の後にやりましょうと。実現していれば、10年くらいぶりのことだった。なのに、あんなことが起きるとは……本当に残念でなりません。

■「右胸であってほしい」と願ったが…

〈7月8日、奈良県内で参院選候補者の応援演説をしていた最中、凶弾に斃(たお)れた安倍元総理。事件当時、菅氏も選挙応援のために全国を飛び回っていた。〉

 安倍さんが撃たれた当時、私は沖縄県で応援演説が予定されていたため、車で羽田空港に移動しているところだった。事件の第一報も、その車の中で受けました。

 そこからは私もいろんなところに確認の電話をしましたし、私から情報を得ようとする記者や関係者からの電話も引っ切りなしに鳴り続けていた。胸を撃たれたということでしたから、せめて心臓がある左胸ではなく右胸であってほしいと願いましたが、確認を進めると撃たれたのは左だという。その時点で私は、なかなかきついのかなと、最悪の事態も覚悟していました。

 少し時間を置いてから、閣僚や党役員が自民党本部に招集されたという情報が入ってきた。党としてその日の選挙活動も休止することに決めたといいます。私は安倍さんのそばにいたいと思い、急遽、奈良に向かうため東京駅に行き先を変更。新幹線に飛び乗ったのです。安倍さんは優しくて、いつでも周りには仲間がいて、でも、寂しがる人だった。そんな安倍さんの隣にいてやりたい、そう思ったんです。

■最後にかけた言葉は

〈安倍元総理が運び込まれた奈良県立医科大学附属病院までは、京都駅で近鉄特急に乗り換えても約1時間かかる。昭恵夫人が近鉄特急で病院に向かったのに対し、少し遅れて京都駅に到着した菅氏は車で病院に行くことになった。〉

 私が京都駅に到着したのが16時頃。病院までは車でも1時間ほどで着くということだったのですが、運の悪いことに、高速道路で落下物による渋滞に巻き込まれてしまった。結局、病院に到着したのは、18時過ぎのことでした。

 病院へ向かう途中も情報はずっと錯綜(さくそう)していました。ただ、ある有力な筋から、安倍さんが17時3分に息を引き取られたという連絡が入っていました。

 病院では、まず昭恵さんにお会いし、検視が終わるのを待って20時頃に安倍さんとようやく対面することができた。司法解剖の前でしたから本当に普段通りのお顔で、眠っているだけのように見えました。

 対面できたのはほんの数分でしたが“本当にお世話になりました。ありがとうございました”と声をかけて病院を後にしたんです。

■焼鳥屋で3時間説得

〈菅氏は、12年9月に行われた自民党総裁選に安倍元総理を担ぎ出した中心人物である。安倍元総理が、石破茂元防衛相との決選投票を制し、総裁に返り咲いた背景には、菅氏による必死の説得があったという。〉

 当時はまだ民主党政権でしたから、安倍さんの周囲でも“総裁選に出るのは政権を奪取してからの方がいいのではないか”という意見ばかりでした。それに、第1次政権が、世間から見ると放り出したような形でしたから、安倍さんもそれを非常に気にしておられた。さらに派閥内では町村信孝さんが出馬されるという話もありましたから、あくまで出馬には慎重な姿勢。ただ、私はずっと“安倍さんにはもう一度総理をやってもらいたい”と思っていましたし、勝算もあったんです。

 総裁選では街頭演説や討論会があり、マスコミからも注目されますから、「安倍晋三」という政治家を新たに国民に認識してもらえる最高の“ひのき舞台”になると思った。それに安倍さんの姿をもう一度見てもらえさえすれば党員や国民の理解を得られるだろうことは、全く疑っていませんでした。だからこそ、私は出馬を迷う安倍さんの背中を押し続けたんです。

 最後には私が銀座の焼き鳥屋へ誘って、二人で焼き鳥を食べながら3時間。安倍さんはまだ出馬を決めかねている様子でしたが、私が“こんなチャンスはありませんよ”と説得し続け、3時間後には首を縦に振ってくれました。

 その後は総裁選、年末の総選挙を経て第2次安倍政権の発足と慌ただしく時間が過ぎていきましたから、二人きりで食事をしたのは、あの焼き鳥屋が最後になってしまいましたね。

■7年以上、毎日1回は必ず会うように

〈第2次安倍政権では官房長官に任命された菅氏。政権はその後、2度の衆院総選挙を制し、菅氏の官房長官任期も第4次安倍政権まで続いた。

 安倍元総理が憲政史上最長の在任日数を記録した背景に、菅氏との“あうんの呼吸”があったことはよく知られている。〉

 私が官房長官を務めた7年8カ月、安倍さんとは毎日1回は必ず会うようにしていました。何もなくても1回はやりましょうということで、お茶を飲みながら本当によく話しましたよ。

 もちろん、意見が割れることもありました。

 例えば、13年2月、第2次安倍政権の発足後、初めて安倍さんが訪米したときもそう。あのときはアメリカから、TPP交渉への参加、離婚後外国への子どもの連れ去りを規制するハーグ条約の批准、沖縄県への辺野古沖の埋め立て申請と、三つの要請があったんです。ただ、当時、国内は参院選を目前に控えた時期でしたから、党内ではTPPなど国論を二分しかねない問題は後回しにしたいという思惑もあった。

■「大抵、安倍さんの方が正しかった」

 私はそういう党内の情勢を安倍さんに伝え“議論は参院選の後でもいいのではないか”と提案したのですが、安倍さんは“どうせやるなら早い方がいい”と。結果、日本はTPPの成立に向けた議論で主導権を握ることができたのです。

 こんなふうに、意見が割れることはあっても、大抵、安倍さんの方が正しかった。何より安倍さんは総理でしたから、私も安倍さんの考えを尊重していましたね。

〈長期安定に見えた政権は、新型コロナウイルス感染症が猛威を振るった20年9月に、安倍元総理の突然の辞意表明によって幕を下ろす。理由は総理の体調不良であった。〉

 お辞めになる直前は、もう肩で息をしておられましたから、相当きついんだろうと心配していました。私の方からも連日“早くご自宅に帰ってください”とお願いしていたのですが、安倍さんは真面目だからなかなか仕事を止めない。

 辞任については事前に相談はありませんでしたが、毎日会っていますからなんとなく雰囲気で分かってはいました。

■国際社会を相手に外交の枠組みを作り上げる政治家

〈安倍元総理といえば「地球儀を俯瞰する外交」を標榜し、第2次政権以降に訪れた国・地域は延べ176カ所にも及ぶ。

 安倍元総理の外交手腕を間近で目にしてきた菅氏は、この“安倍外交”をどう評価しているのか。〉

 安倍さんの外交はうまかった。たとえロシアのプーチン大統領を前にしようが、アメリカのオバマ元大統領を相手にしようが、全く物おじしなかった。それでいて、たちまち相手に胸襟を開かせてしまう。

 安倍政権では、特定秘密保護法、国家安全保障会議の設置、平和安全法制と立て続けに安全保障に関する重要政策を実現させましたが、やっぱり日米同盟に対しての思い入れが非常に強かった。日米同盟を機能させることによる抑止力をよく理解している人でした。

 さらに安倍外交の業績としては、日米豪印の4カ国の協力枠組みである「クアッド」をまとめ上げたことも大きいでしょう。

 実は、アメリカは当初この枠組みにあまり乗り気ではなかったんです。ただ、安倍さんが「自由で開かれたインド太平洋」をキーワードに熱心にアメリカを説得し、実現にこぎ着けたという経緯がありました。

 国際社会を相手にこういう外交の枠組みを一から作り上げることができる政治家なんて、これまでの日本にはいませんでした。だからこそ、安倍さんが亡くなった後、各国の首脳からこれだけお悔やみが寄せられているのでしょう。

 岸田総理には今回の事件後、早々に国葬を執り行うとの決断をしていただきましたが、外交的な成果に鑑みても大変良かったのではないかと思います。

■最後の会話 

〈安倍元総理が亡くなってから約1カ月。未だ失意の底にある菅氏に、安倍元総理との一番の思い出を挙げてもらった。〉

 安倍さんが亡くなってからいろいろなことを思い出しました。

 官房長官として仕えた日々。

 私が総理・総裁に就任したときの“菅ちゃんで良かった”という言葉。

 安倍さんに相談に行くと、いつだってフランクに“菅ちゃんの思う通りにやればいいよ”“いつも通りで大丈夫だよ”と笑いながらアドバイスしてくれたこと。

 最後に安倍さんとお会いしたのは7月1日、場所は名古屋駅でした。お互い参院選の応援で、私は神戸に、安倍さんは三重に向かう途中。忙しい合間を縫って安倍さんが“菅ちゃんがいるって聞いたから”と待合室にいた私を訪ねてくれたんです。その時は本当に立ち話くらいしかできませんでしたが、選挙情勢を確認して“油断せずにやれば安定した政権になる”と、そんな話をしましたね。

■一番の思い出は…

 ただ、やっぱり一番強く記憶に残っているのは、安倍さんと初めて言葉を交わしたときのことです。

 忘れもしない01年の12月。私が自民党の総務会で、北朝鮮へのコメ支援に反対したときのことでした。安倍さんは翌日の新聞で報じられた私の発言をご覧になり、わざわざ電話をかけてこられた。当時、私はまだ2回生でしたが、そんな議員の発言まで気に留め、“菅さんは正しい”と言って下さったことに、感激したのを覚えています。

 私などは北朝鮮問題にしても当時は直線的にしか見ていなかった。つまり、北朝鮮は日本人を拉致するような国で、しかもコメを支援したところで国民にそれが行き届く可能性はほとんどない。だから支援などもってのほか、という主張です。

 一方、安倍さんは当時から長期的・大局的なものの見方をされていたように思います。北朝鮮への支援反対という結論は同じでも、“日本の国家国民の安全を守るため”という観点を忘れてはいけないとのスタンスでした。それ以来、安倍さんとは定期的にお話しするようになったのですが、安倍さんはその頃すでに確固たる国家観を持っておられましたね。

 今回の事件で、我が国が安倍さんを失った損失は計り知れない。ですが、安倍さんは日本が進むべき道筋を残してくれました。我々には、この国がその道筋から外れてしまわぬよう、安倍さんの遺志を継いでゆく責務があると思っています。

「週刊新潮」2022年8月11・18日号 掲載 デイリー新潮

 ◎上記事は[@niftyニュース]からの転載・引用です


〈来栖の独白〉
 本当に残念でならない。安倍さん喪失。


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