新人検事は「自白調書」の捏造を教えられる

2011-06-16 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア

元検事 市川寛が明かす 新人検事は「自白調書」の捏造を教えられる
2011年06月16日(木)週刊現代

 大阪地検特捜部の証拠捏造事件によって、日本の検察の信用は地に墜ちた。実際に自白強要で厳重注意を受け、検察を辞した市川寛弁護士が、驚くべき検察の新人教育の内情を教えてくれた。
ヤクザと外国人に人権はない
 検事になって3年目の'95年、当時の上司が、私の取った自白調書は生ぬるいと言って、こうやるんだと伝授してくれました。こんなやり方です。
 被疑者が取調室に入ってきて、検事の目の前に座る。その被疑者に向かい、検事が「私は〇年△月×日□時ごろ、××においてAさんを殴ったり蹴ったりしてケガを負わせました」と供述の文言を勝手にしゃべる。
 事務官がそれを調書に取る。被疑者はこの時点で何も言っていません。そして出来上がった調書を被疑者の前に置いて、「署名しろ」と言う。それで署名したら自白調書のできあがり、しなかったら「これはお前の調書じゃない。俺の調書だ!」と迫れ、と---。
 こう語るのは市川寛弁護士(45歳)だ。'93年に新任検事として横浜地検に配属され、以後、徳島・大阪・横浜・佐賀・横浜の各地検に在籍。佐賀時代に担当した事件の取り調べ中、「ぶっ殺すぞ!」と被疑者を脅したことを自ら証言し、厳重注意処分を受けて'05年に辞職した。市川氏のような取り調べ手法は当時、レアケースだと見られていたが、その後検察では自白の強要や見込み捜査が常態だったことが明らかになってきた。昨年発覚した大阪地検特捜部の証拠捏造事件では4月27日、前田恒彦・元検事の実刑が確定している。
 そんな検察の教育の実状について市川氏が明かす。
 今はすべての新任検事は東京地検に配属されますが、私の頃は、主な大規模地検に分散して配属されました。1年目は先輩検事の執務室に入って仕事をし、基本的に新人教育は「決裁」の場で行われます。検事は1年目から取り調べも行いますが、起訴・不起訴の判断や求刑はすべて、上司による決裁を経なければなりません。その決裁での議論を通じて、上司から検事のイロハを叩きこまれるのです。
 ただそのイロハは、司法試験合格を目指していたころに抱いていた検事像とは全く異なったものでした。例えば1年目に、私は大先輩の検事から、「ヤクザと外国人に人権はないと思え」と教えられました。「外国人は日本語が分からない。だから、日本語であればどんなに罵倒してもいい」と言われたのです。
 当時の上司は筋金入りの特捜検事だった方ですが、指導内容は凄まじいものでした。「市川君、生意気な被疑者は机の下から向こうずねを蹴るんだ。(あえて)特別公務員暴行陵虐罪をやるんだよ。それが特捜のやり方だ」とも言われました。
 一時報道された、被疑者を壁に向かってひたすら立たせておくという手法も教えられました。ある先輩は、外国人の調べの際、千枚通しを被疑者に突き付けて罵倒したとも言っていました。「こうやって自白させるんだ」と。
 これは最初の配属先に限った話ではありません。私は'93年の横浜を振り出しに、'94年には徳島、'96年には大阪と、地検を転々としました。この駆け出しの頃に、徹底して叩きこまれたのが調書のつくり方なのです。
 調書というと、皆さんは被疑者の供述をそのまま文書化したものと思われるでしょうが、必ずしもそうではないということは、冒頭に挙げた私の体験談でご理解いただけると思います。
 若手の検事は、どんな体裁の調書を作成しなければいけないのかを、徹底して叩きこまれる。贈収賄事件ならこういう調書、共謀の場合はこう、未必の故意ならこうといった具合に叩きこまれる。脅したり、壁に向かって立たせたりというのは、そうした調書を作りあげるためのテクニックです。
検察庁に〝望まれる〟検事
 新人の調書が上司の意に添わないものなら、調書の取り直しを命ぜられます。私は上司に「ノー」と言えるような強い人間ではありませんでした。心の中では、これはおかしい、違うだろうと思いながらも、次第に検察庁に〝望まれる〟検事になっていきました。結局この、おかしいと思っても言えない弱さが、辞職の原因となる大変な過ちにつながっていきました。
 その過ちとは、私が佐賀地検にいた'01年に立件された「佐賀市農協背任事件」です。この事件の取り調べの最中、私は被疑者を罵倒し、脅しあげて調書を取り、冤罪事件をつくり上げてしまったのです。
 事件の発端は佐賀地検に届けられた一通の告発状でした。そこには当時佐賀市農協組合長だった副島勘三さんが、不正な融資を行っている、と書かれていました。それで地検は特捜捜査をかけたわけですが、その告発状は、組合長を引きずり下ろしたい農協内の一グループによる中傷だったことが、後の裁判で明らかになりました。その裁判の過程で、我々検察の捜査の杜撰さが次々と露見していきました。
 一審は無罪。検察は控訴しましたが、二審の高裁で控訴棄却され、検察が無罪の証拠を隠匿したことも露見したため、完全無罪が確定しました。
 事件当時、私は三席検事で、地検トップの検事正、その下の次席検事に次ぐポジションにいました。その私が事件を担当する主任に命じられたのは、副島さんに対する強制捜査の前日です。次席検事に、「明日ガサ(捜索)入れるから。君が主任だ」と、まったく突然言われました。
 私はそれまで副島さんの話も聞いていなければ、証拠類も最低限のものしか読ませてもらえなかった。しかも私はその後研修出張があったため、主任検事だというのに、ほとんど捜査に関わることさえできなかった。次席検事には「君がいない間に第一陣逮捕しとくから」と伝えられました。
 起訴の判断は通常主任検事が行うのですが、この事件でははじめから検事正と次席検事が起訴と決めていました。不起訴の意思を示すと、検事正に「お前も諦めろ」と諭されました。もう上で起訴と決まっているから諦めろ、という意味です。
 出張から戻り、取り調べに入っても、正直な話、被疑者から何を聞いたらいいかも分からない。有罪・無罪の判断もつかない。けれども上司の次席検事からは「とにかく割れ(自白させろの意)」としか言われない。私は強引に取り調べを進め、暴言を吐いたり脅したりして調書をまとめました。
 調書には「本日まで嘘をついてきましたが、検事さんの話を聞き、もはや言い逃れできないと思い知りました。私は罪を認めます」という「自白」が記されていました。私は聞いたものをまとめたつもりでしたが、副島さんはこんなことは一言も言っていないとおっしゃっていました。我々のつくった調書には杜撰な点も多く、取り調べをした参考人の生年月日も間違っていたほどでした。
夢から醒めた
 当時の私には、上が「起訴する」と決めたことに逆らうだけの力が欠けていました。これが私の最大の過ちでした。検事は勝てる事件しかやりません。どうやっても有罪をとれそうになかったら不起訴にします。その選別能力があるのが検察だ、という考えです。逆に、起訴してしまったら、絶対に無罪は出せない。負けるわけにはいかないんです。なんせ検察は「正義」の役所なんですから。
 事件の公判中に、私は横浜地検小田原支部に移りました。このとき、副島さんの無罪が確定しました。私はずっと罪の意識を抱いていたので、判決にはホッとするとともに、取り返しのつかない過ちを犯してしまったという自責の念に駆られました。こうして12年間の検事生活にピリオドを打ったのです。
 思えば検事時代は非常に狭い範囲で生活していました。大半が官舎に住み、同じ検察庁に通う。外で飲むと何かと危険なので、飲みと言えば酒屋にビールを配達してもらって検察庁内でやる。外で飲むなら検察庁ごとに決められた「この店は安全」という1~2店にしか行きません。
 そんな状態ですから、法曹関係を除くと、検事の人付き合いは、高校・大学の同級生くらい。話し相手はほぼ検事です。価値観は固定され、視野狭窄になるのも当然です。
 出世コースも限られています。法務省から上がっていくルートと、特捜から上がっていくルートの2種類です。法務省ルートは人事評価の基準が傍目には分かりにくい。ですから、現場でのし上がるには、特捜にいくしかありません。
 特捜では頻繁に人事異動があります。せっかく特捜にきても、1年でお払い箱になるということもざらです。2年、3年と残って初めて本当の「特捜検事」なのです。
 特捜は、全国の検事から選りすぐりの「割り屋」が集められた組織です。割り屋とは、自白を取る(=割る)のがうまい検事のこと。若手検事は本人が特捜に行きたいか否かにかかわらず、割り屋になるべく上司から鍛えられます。
 今の割り屋は、出世への焦りと、上司からの締め付けによって、本来の意味での自白を引き出すのではなく、検察サイドが望むような調書を取るのが上手い人という意味に変質しているのではないかと思います。自分たちに都合のいい事実をつくり上げるためなら、証拠の改ざんにも手を染めるというありえない暴走が、今回の大阪の事件のケースでしょう。
 検事を辞めて5年が経って、やっと検察を客観視できるようになってきました。いまは夢から醒めたような気分です。
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検察を支配する「悪魔」 田原総一朗+田中森一(元特捜検事・弁護士)


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