どんぐりと「いのち」 われらを養ってくれるいのち 〈来栖の独白 2018.10.2〉

2018-10-02 | 日録

 〈来栖の独白 2018.10.2 Tue〉
 弊ブログのリアルタイムアクセスを見ていたところ、「アクセスされたページ」に、
 [どんぐりと「いのち」 われらを養ってくれるいのち 2010/1/13]が、あった。古いものだが、画像として入れたどんぐりは懐かしく、折に触れ思い出していたものだ。クリックする。
 昔、愛読した五木寛之さんの文章も、懐かしい。当時は、仏教関係の本をよく読んだ。


どんぐりと「いのち」 われらを養ってくれるいのち 2010/1/13

    

〈来栖の独白〉
 1月11日、実家のお墓参りと掃除をした。夥しい落葉が重なっている。それらを掃き集める。枯葉とともにどんぐりも、いっぱい転がっている。
 どんぐりの形の可愛らしさに、つい一つを手に取ったとき不意にホームページに書いた一節を想い出した。私は次のように書いている。

 勝田は、書信にそれら悔いを綴ってきた。面会でも、繰り返し犯罪を口にした。悔やんだところで、罪を償うことはできない。よく判決理由として「命をもって償うしかない」と裁判所は言うが、死刑によっても罪は償えないのではないか、と私は思っている。原状回復できない限り、償いとは言えないのではないか。原状回復とは、喪われた命だけでなく時計(環境一切)をあの時刻に戻すことだ。犯罪が起きる前の次元に戻すことだ。それは人間には不可能だろう。人間には、せめて命で詫びる、それが精一杯ではないかと思う。

 「喪われた命」と、私は簡単に書いている。裁判所も、被害死者の数を判示する。勝田事件の場合、被害死者数は8名である。
 ところが、どんぐりを手にしたとき私はなぜか唐突に「8名ではない」と強く心に呟いた。勝田事件被害者のなかには、婚約中の女性がいた。彼女が事件に遭わず結婚していたなら、お子さんが生まれたのではないか。そして、その子は、また子どもを生んだかもしれない。そのように考えるなら、勝田の奪った命は8名どころではない。いにしえから連綿と続き、被害者に受け継がれた命、そして被害者から更に広がっていっただろう命を思うとき、勝田の奪った命は数字で表されるようなものではなかったろう。続いて来、さらに将来へ広がるはずの命の営みを、勝田は途絶えさせたのである。
 さらに考えるなら、一人のいのちは、人間以外のあまたのいのちによって養われてきたものである。
  五木寛之氏は『人間の運命』(東京書籍)のなかで次のように言う。

p171~
 真の親鸞思想の革命性は、
「善悪二分」
 の考え方を放棄したところにあった。
「善人」とか「悪人」とかいった二分論をつきぬけてしまっているのだ。
 彼の言う「悪人正機」の前提は、
「すべての人間が宿業として悪をかかえて生きている」 という点にある。
 人間に善人、悪人などという区別はないのだ。
 すべて他の生命を犠牲にしてしか生きることができない、という、まずその単純な一点においても、すでに私たちは悪人であり、その自覚こそが生きる人間再生の第一歩である、と、彼は言っているのである。
『蟹工船』と金子みすゞの視点
 人間、という言葉に、希望や、偉大さや、尊厳を感じる一方で、反対の愚かしさや、無恥や残酷さを感じないでいられないのも私たち人間のあり方だろう。
 どんなに心やさしく、どんなに愛とヒューマンな感情をそなえていても、私たちは地上の生物の一員である。
 『蟹工船』が話題になったとき、地獄のような労働の描写に慄然とした読者もいただろう。
 しかし、私は酷使される労働者よりも、大量に捕獲され、その場で加工され、母船でカンヅメにされる無数の蟹の悲惨な存在のほうに慄然とせざるをえなかった。
 最近、仏教関係の本には、金子みすゞの詩が引用されることが多い。
 なかでも、「港ではイワシの大漁を祝っているのに、海中ではイワシの仲間が仲間を弔っているだろう」という意味をうたった作品が、よく取り上げられる。
 金子みすゞのイマジネーションは、たしかにルネッサンス以来のヒューマニズムの歪みを鋭くついている。
 それにならっていえば、恐るべき労働者の地獄、資本による人間の非人間的な搾取にも目を奪われつつ、私たちは同時にそれが蟹工船という蟹大虐殺の人間悪に戦慄せざるをえないのだ。
 先日、新聞にフカヒレ漁業の話が紹介されていた。中華料理で珍重されるフカヒレだが、それを専門にとる漁船は、他の多くの魚が網にかかるとフカヒレだけを選んでほかの獲物を廃棄する。
 じつに捕獲した魚の90%がフカ(サメ)以外の魚で、それらはすべて遺棄されるというのだ。しかもフカのなかでも利用されるのはヒレだけであり、その他の部分は捨てられるのだそうだ。
 私たち人間は、地上における最も兇暴な食欲をもつ生物だ。1年間に地上で食用として殺される動物の数は、天文学的な数字だろう。
 狂牛病や鳥インフルエンザ、豚インフルエンザなどがさわがれるたびに、「天罰」という古い言葉を思いださないわけにはいかない。
 私たち人間は、おそろしく強力な文明をつくりあげた。その力でもって地上のあらゆる生命を消費しながら生きている。
 人間は他の生命あるものを殺し、食う以外に生きるすべをもたない。
 私はこれを人間の大きな「宿業」のひとつと考える。人間が過去のつみ重ねてきた行為によってせおわされる運命のことだ。
 私たちは、この数十年間に、繰り返し異様な病気の出現におどろかされてきた。
 狂牛病しかり。鳥インフルエンザしかり。そして最近は豚インフルエンザで大騒ぎしている。
 これをこそ「宿業」と言わずして何と言うべきだろうか。そのうち蟹インフルエンザが登場しても少しもおかしくないのだ。
 大豆も、トウモロコシも、野菜も、すべてそのように大量に加工処理されて人間の命を支えているのである。
 生きているものは、すべてなんらかの形で他の生命を犠牲にして生きる。そのことを生命の循環と言ってしまえば、なんとなく口当たりがいい。
 それが自然の摂理なのだ、となんとなく納得できるような気がするからだ。
 しかし、生命の循環、などという表現を現実にあてはめてみると、実際には言葉につくせないほどの凄惨なドラマがある。
 砂漠やジャングルでの、動物の殺しあいにはじまって、ことごとくが目をおおわずにはいられない厳しいドラマにみちている。
 しかし私たちは、ふだんその生命の消費を、ほとんど苦痛には感じてはいない。
 以前は料理屋などで、さかんに「活け作り」「生け作り」などというメニューがもてはやされていた。
 コイやタイなどの魚を、生きてピクピク動いたままで刺身にして出す料理である。いまでも私たちは、鉄板焼きの店などで、生きたエビや、動くアワビなどの料理を楽しむ。
 よくよく考えてみると、生命というものの実感が、自分たち人間だけの世界で尊重され、他の生命などまったく無視されていることがわかる。
 しかし、生きるということは、そういうことなのだ、と居直るならば、われわれ人類は、すべて悪のなかに生きている、と言ってもいいだろう。
 命の尊重というのは、すべての生命が平等に重く感じられてこそなのだ。人間の命だけが、特別に尊いわけではあるまい。
 金子みすゞなら、海中では殺された蟹の家族が、とむらいをやっているとうたっただけだろう。
 現に私自身も、焼肉大好き人間である。人間に対しての悪も、数えきれないほどおかしてきた。
 しかし、人間の存在そのもの、われらのすべてが悪人なのだ、という反ヒューマニズムの自覚こそが、親鸞の求めたものではなかったか。

〈来栖の独白〉続き
 食糧となって人間を養ってくれる(人間に奪われる)いのちもあれば、薬品や化粧品等の実験に供されるいのちもある。それらのどれ一つとして、人間が創造したものは無い。人は、奪うだけだ。
 私は、深い畏れに囚われざるを得ない。「いのち」に対する深い畏れに囚われないわけにいかない。
 司法は、8名を殺害したとして死刑を選択する。髪の毛1本すら造れない人間の、人間らしい有限・物理的な決着・・・。足の竦む思いがする。
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私の母は勝田に殺されました。・・・彼が最後に幸せだったことは、許されないことです。 2005,6,18
     2016-05-05 | 勝田清孝 〈旧HP原稿〉
「彼が最後に幸せだったことは、許されないことです」2005,6,18
 2005年6月7日、次のようなメールを頂戴した。《ご自身を含め実名で書いてくださっていたが、伏させて戴く》

 私の母は勝田に殺されました。(略)「○○○子」私の母です。勝田は貴方に、死ぬ前の気持を伝えられたけれど、私の母は何も言えぬまま殺されました。
 勝田は覚悟を決められたけど母は決められなかったと思います。(略)
 大人になってから、色々とかたりたいこともあったと、そー思います。
 勝田のなにをうったえたいのかわかりません・・・。実はいい人とでも?・・・
 罪は許されないが彼は許される?
 彼が最後に幸せだったことは許せないことです。

 指摘されている一つ一つが正当端的で、立ち上がってくる切なる思いに、私は打たれた。殺害されたお母上への哀惜に満ちて綴られているこのメールは、勝田清孝の友人となり、姉弟となった経緯を私に振り返らせた。
 清孝の遺書に拠れば、確かに彼は幸せと認識して逝き、覚悟を決めて旅立ったように感じられる。勝田によって唐突に理不尽に何の覚悟も無く命を奪われた被害者の最後とは天地の開きであり、許し難いことである。
 清孝が覚悟して旅立てたのには、役所(拘置所)の配慮もあっただろうし、立ち会いの教誨師(僧侶)の導きもあったに違いない。感情の振幅の激しい人ゆえ、死刑執行の宣告直後は根が生えたように座して動かなかったという。8階の居室からエレベーターに乗るまでに随分時間がかかった。それを役所は、じっと待ってくださった。
 (同日同所で、勝田の執行の前に宮脇喬死刑囚への執行が為されている。「藤原は動揺しやすいので、宮脇さんの後にしました」、「動揺しやすいので力を貸してください、と僧侶に御願いしました」など、受刑後、所長との面接で私は聞かされている)
 また、初めは「遺書は書かない」と言っていたそうである。この辺りの清孝の心の裡が、私には解る気がする。宣告から遺書作成そして教誨~執行といった、死に向けての一連の流れをどうかして切断したかったのだろう。
 このような勝田に周囲の人々は、自分の足で歩き、エレベーターに乗るようにし、「遺書を書きたい」と言わせ、被害者に「ごめんなさい」と涙させ、僧侶始めすべての人に感謝の念で旅立てるようにしてくださった。
 死後、勝田へ寄せる惻隠の淵でこれら一切の情景は私を支え続けたが、ご遺族の皆様には申し訳ない極みであった。
 「許せない最後」に至るまでの勝田と私の道程については、拙著『113号事件勝田清孝の真実』にも記したことであるけれど、いま一度振り返ってみたいと思う。
 1987年秋だったと記憶する。勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』を、同じ名古屋拘置所に収監されていたクリスチャンのA被告から宅下げされて読んだ私は、翌年1月半ば、感想文のような手紙を初めて勝田に宛てて出した。
 手記は拙劣な表現ながら、生い立ちや事件について正直に綴られており、7件の殺害について自ら告白するくだりは、それによって死刑が決定的となる不安恐怖も隠してはおらず、私は手紙に「勝田さんの正直な佇まいに、心を動かされました」と認めた。
 ところで、勝田のような死刑被告に手紙を出す人の多くは、死刑廃止運動体の人達らしいのだが、私は平板な人生を送ってきた主婦に過ぎなかった。司法とか死刑については疎い人間だった。そんな私だったから、勝田に近づいたのは、ただただ自らの重罪を赤裸々に告白する勝田の悔悟の姿に圧倒されたからに過ぎない。
 このような、言ってみれば迂闊に始まった私たちの交流であったが、人間不信、猜疑に悩む死刑囚とのやりとりは難渋を極めた。
 それでも日を重ね、受け取る手紙のなかから私が感じ取ったものは、勝田から発せられる渇くような「人間への執着」であった。弁護人控訴趣意書にもあるように、親の愛を受けずに育った勝田は、その渇愛の代償として物欲を満たしていった。「殺人を楽しんでいた」と書いた雑誌類もあったようだが、そうではなかった。金を窃取しようとして発見され逮捕を恐れて殺害、或いは無抵抗のうちに金を得ようと、脅しのつもりで携えた凶器によって殺害に至ってしまう、それが勝田の犯罪であった。
 勝田は、書信にそれら悔いを綴ってきた。面会でも、繰り返し犯罪を口にした。悔やんだところで、罪を償うことはできない。よく判決理由として「命をもって償うしかない」と裁判所は言うが、死刑によっても罪は償えないのではないか、と私は思っている。原状回復できない限り、償いとは言えないのではないか。原状回復とは、喪われた命だけでなく時計(環境一切)をあの時刻に戻すことだ。犯罪が起きる前の次元に戻すことだ。それは人間には不可能だろう。人間には、せめて命で詫びる、それが精一杯ではないかと思う。
 これといった死刑廃止の考えも有していなかった私が、勝田という死刑囚の友人となった最大の理由は、多分彼の悔いの心をじっと聞いてやりたかったのだと思う。「そうだね、悪いことをしたね。酷いこと、取り返しのつかないことをしてしまったね」と、彼の涙のわけを聴いてやりたかった。孤房で壁に向かって涙するしかない勝田であったから、その幾分かでも私は見届けてやりたかったのだと思う。
 メディアで「鬼畜」「冷血」と謳われた勝田の悔いの心に目を留め、人間として遇した人は何人かいた。捜査官の山崎氏始め愛知県警の刑事たちが、そうだった。山崎氏は「おまえの言うことは、俺は信じるんだ」と言い、藤原清孝の訃報に接しては「冥福を祈ります」と言われた。
 このようなことを書き立てれば、ご遺族のお気持を愈々逆撫ですることにしかならない。勝田が死してなお続くご遺族の深いお悲しみの前に、私の軛は何と軽いことだろう。人は、たった一つの場にしか立てないものだ。
 申し訳ない気持でいっぱいである。
 沙羅双樹の花の季節に

    

     (2005,6,18 up)来栖宥子
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◇ 「遺言書」藤原清孝 ■ プロフィール 
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