両陛下 屋久島・奄美群島訪問へ ことし11月で調整
NHK NEWS WEB 2017/8月16日 19時03分
天皇皇后両陛下が、ことし11月、鹿児島県の屋久島と奄美群島の島々を訪問される方向で調整が進められていることがわかりました。天皇陛下は、去年8月、退位の意向がにじむお気持ちを表した際「遠隔の地や島々への旅も、大切なものと感じてきました」と述べられていて、今回の訪問も皇后さまとお二人で強く望まれたということです。
関係者によりますと、両陛下は、ことしの11月16日から3日間程度の日程で、鹿児島県の屋久島と、奄美群島の与論島や沖永良部島を訪問される方向で調整が進められているということです。
鹿児島空港で飛行機を乗り換えて島々を回る予定で、初日に、上空から、おととし爆発的な噴火が起きた口永良部島を視察したあと、屋久島を訪ねられる計画です。そして、町長や口永良部島の住民から噴火の様子や復興状況について話を聞かれる見通しです。
2日目には、鹿児島県最南端の島、与論島を訪れ、室町時代から伝わる「与論十五夜踊り」を鑑賞するほか、大潮などの干潮時に沖合に現れる砂浜をご覧になることも検討されています。
3日目は、沖永良部島の小学校を訪れ、子どもたちによる特産の黒砂糖づくりを見学するほか、校庭にある樹齢100年を超えるガジュマルの木をご覧になることも検討されているということです。
両陛下は、初日は屋久島に泊まり、2日目は沖永良部島に宿泊される方向で調整が進められているということです。
両陛下は、かねてから鹿児島県の島々への訪問を望まれ、ここ数年、宮内庁が何度か検討してきましたが、日程を組む難しさなどから訪問はかないませんでした。
宮内庁は、高齢の両陛下の体調や負担も考慮して日程を固めていく方針で、今回の旅が実現すれば、両陛下にとって屋久島は45年ぶりで、与論島と沖永良部島は初めての訪問となります。
両陛下は、天皇陛下の即位後15年で、すべての都道府県を訪れたほか、全国各地の島々にも足を運んでいて、皇太子夫妻の時代も含めると、これまでに訪問された島の数は、北海道から沖縄までのおよそ50に上ります。
天皇陛下は、去年の8月8日のビデオメッセージで、「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、天皇の象徴的行為として、大切なものと感じてきました」と遠隔地や島に寄せる思いを述べられていて、今回の訪問も皇后さまとお二人で強く望まれたということです。
両陛下が、沖縄本島を除く国内の島を訪問するのは、3年前、台風による豪雨で大きな被害を受けた伊豆大島を訪問されて以来になります。
●天皇陛下 島々への思い
天皇陛下は、去年の8月8日、ビデオメッセージで象徴としての務めについてお気持ちを表す中で「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、大切なものと感じて来ました」と述べられていました。
お気持ちの中で天皇陛下は、自身の務めについて「時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」としたうえで、象徴としての役割を果たすため国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を育てる必要を感じてきたと述べられました。
そして、「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました」と胸の内を語られました。
そのうえで、皇后さまと行ってきたほぼ全国に及ぶ旅で、その地域を愛し地道に支える市井の人々がいることを認識したと振り返り、「この認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした」と述べられていました。
●両陛下 約50の島々訪問
天皇陛下は、これまで、皇后さまとともに全国各地のおよそ50の島々を訪ねられてきました。
昭和50年には、国際海洋博覧会の開会式に出席するため、皇后さまと初めて沖縄本島を訪れ、太平洋戦争に巻き込まれて命を落とした女学生たちの慰霊碑「ひめゆりの塔」を訪ねられました。
両陛下は、その後も戦争で亡くなった人たちや遺族に心を寄せ続け、これまでに10回、沖縄の島々を訪問されています。
天皇陛下の即位後は、平成5年の「北海道南西沖地震」で大きな被害を受けた奥尻島や、平成7年の「阪神・淡路大震災」で被災した兵庫県の淡路島など、災害に見舞われた島々にも足を運んで被災者に寄り添われました。
戦後50年を翌年に控えた平成6年には、小笠原諸島を訪問されました。太平洋戦争の激戦地となった硫黄島で戦没者を慰霊したほか、父島や母島の人たちと交流されました。
また島根県の隠岐島をフェリーで訪れたり、人口数百人の小さな島にも足を運んだりして、人々と触れ合われました。
天皇陛下は、皇后さまとともに、即位後15年で全国47のすべての都道府県への訪問を果たし、これまでに500を超える市町村を訪ねられました。
そして訪ねられた島の数は、皇太子夫妻の時代も含めると、北海道から沖縄までのおよそ50に上っています。
●象徴としてのお務めについての天皇陛下お言葉
戦後70年という大きな節目を過ぎ、2年後には、平成30年を迎えます。
私も八十を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。
本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。
即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。
そのような中、何年か前のことになりますが、2度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。
私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。
天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。
始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。
国民の理解を得られることを、切に願っています。
◎上記事は[NHK NEWS WEB]からの転載・引用です
..................................
〈来栖の独白 2017.8.16 Wed〉
長い長い間、私は天皇陛下の言動に深く敬意を抱き、共感してきた。天皇陛下の御行為は、おそらくは皇后美智子様の影響でもあろう、と思ってきた。
その私に疑念が芽生えたのは、1年前の退位メッセージに接したときである。メッセージのなか、「象徴」という言葉の多さに、強い違和感を抱いた。「象徴天皇」とは、たかだか70年ほどの歴史。それに比して、「天皇」は、この国、有史以来の存在ではないか。
退位メッセージ以来、私は、天皇さんの来し方、現在のあり方について、考えるようになった。
現天皇(皇太子時代=明仁殿下)が、学習院中等科の1年生(12歳)の時、バイニング夫人が英語教師として赴任。夫人は、皇太子を英語名「ジミー」と呼んだ。名前に始まり、GHQ教育が施されていった。皇太子時代から天皇としての今日まで、私が陛下の言動に違和感を覚えず、むしろ「なんと福音的な」と、事あるごとに賛美し、頭を垂れてきたのは、GHQ教育がキリスト教教育であったためだろう。皇太子時代から天皇となられてからも、殿下・陛下は日本各地へ赴き、苦しむ人、悩む人たちを励まされた。それは、キリスト者である私の目に、キリスト・イエスの行為と重なった。見事に福音的行為であった。
しかし、昨年の退位メッセージは、そんな私の見方を一変させた。GHQに洗脳された「左翼」なのではないか、と。有史以来の日本の伝統文化を、僅か70年ほどの「時間」に売り渡してしまわれた・・・。
国連の女子差別撤廃委員会は、日本の男系天皇制に対し疑問視している。
国民は、しっかり考えなくてはなるまい。「日本の文化」について。
――――――――――――――――――――――――
◇ 昭和23年12月23日零時1分30秒、死刑執行開始 天皇明仁の誕生日になぜA級戦犯が処刑されたのか?
-----------------------------------
◇ 「内外に蠢く皇室を潰したい勢力」小和田家・東宮・国連・創価学会・・・『WiLL』2016/10月号
...........