刑事裁判は誰のためにあるのか=裁判員の為ではなく、被告人に対し冤罪を3度に亘ってチェックする為だ

2008-11-17 | 後藤昌弘弁護士

【中日新聞を読んで】後藤昌弘(弁護士)
刑事裁判は誰のため
 12日付の朝刊で、裁判員制度に関する司法研修所の報告書について報じられていた。控訴審については、裁判員が判断した1審判決を尊重し、破棄するのは例外的なケースに限るとある。
 裁判員裁判は1審のみであり、控訴審では従来通り職業裁判官が審理する。この控訴審のあり方については従来、議論があった。控訴審で職業裁判官のみにより1審判決が安易に覆されるとなれば、市民の声は反映されにくくなる。市民の声を裁判に反映させることを目指す裁判員制度の趣旨からすれば、1審の裁判員による判断は尊重されなければならない、という意見があった。今回の報告書はこの意見を採りいれたものである。
 ここで考える必要があるのは「刑事裁判は誰のためにあるのか」である。裁判員になる市民のためではない。被告人席に立たされた市民に対し、冤罪の危険を3度にわたってチェックするためである。「疑わしきは罰せず」という言葉も、冤罪を防ぐという究極の目的があるからである。だとすれば、有罪・無罪にかかわらず裁判員の意見を尊重する、という今回の方向性が正しいものとは思えない。市民が無罪としたものを覆すことは許されないとしても、事実認定や量刑について問題がある場合にまで「市民の声」ということで認めてしまうのであれば、控訴審は無きに等しいものになる。しかも、被告人には裁判員裁判を拒否する権利はないのである。
 今回の運用について、検察官控訴に対してのみ適用するのなら理解できる(そうした立法例もあると聞く)。しかし結論にかかわらず一律運用されるとすれば、裁判員裁判制度は刑事被告人の権利などを定めた憲法に違反すると思う。今更やめられないとの声はあろうが、後で後悔するのは被告人席に立つ国民である。改めることを躊躇うべきではない。2008/11/16中日新聞朝刊.

 ◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
司法研「二審は裁判員判断尊重」
2008年11月12日 中日新聞朝刊
 来年5月に始まる裁判員制度で、焦点になっていた控訴審のあり方について、最高裁司法研修所は11日、「国民の視点、感覚などが反映された結果をできる限り尊重しつつ審査に当たる必要がある」との原則を示し、1審判決を破棄するのは例外的なケースに限るとする研究報告書を発表した。
 国民の社会常識を反映させる制度の理念に沿った基準で、報告書に拘束力はないが、裁判官の実務の指針になるとみられる。
 裁判員裁判は1審に限って導入され、高裁が審理する2審は職業裁判官が担当する。
 報告書は、裁判員が関与した1審判決を控訴審が破棄できる例外的なケースの条件として(1)争点や証拠の整理が不適切で事実を誤認している(2)結論に重大な影響を及ぼすことが明らかな証拠を調べていない(3)証人や被告の供述の信用性の判断が、客観的な証拠と明らかに矛盾している-などの基準を挙げた。
 量刑も「よほど不合理なことが明らかな場合を除き、1審判断を尊重する」との方向性を示した。死刑と無期懲役で1、2審の結論が分かれることが予想される場合にどのような考え方をとるべきかは、「なお慎重な検討を要する」と記すにとどめた。
 また、精神鑑定について、報告書は「責任能力の有無の結論に直結するような意見や、心神喪失などの用語を用いた法律判断の明示を避けるべきだ」として、裁判員の判断に必要以上の影響を与える記述を排除することを求めた。
 鑑定医は精神障害の有無や程度という医学的な所見などに限り意見を出すべきだと判断。複数回の鑑定を可能な限り防ぎ、公判開始後の再鑑定を避ける-などを課題に挙げている。
.........................
〈来栖のつぶやき〉
 刑事裁判は被告人席に立たされた市民のためにある、という原則が昨今忘れられているのではないか。また、憲法76条3項は「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律のみに拘束される」と裁判官の独立を保障している。なのに、「裁判員の下した判決」に拘束されるとなれば、違憲というほかない。由々しいことではないか。 


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。