「とめどなく囁く」本物のお別れを告げると同時に、これまで私が何をしてきたか、書き残しておこうと思います。2018/9/20 

2018-09-23 | 日録

とめどなく囁く<403>  桐野夏生 作 内澤旬子 画 
2018/9/19 朝刊
 ダイレクトメールが数通と、分厚い封書が入っていた。
 その表書きの字に見覚えがある。たちまち動悸がして、一筆箋に書かれた母のメモを読むときも、手の震えが止らなかった。
「そちらはお変わりありませんか?
 最近、音沙汰がないので、どうしているかなとお父さんと話していました。たまにはメールでもくださいな。
 ところで、あなた宛の手紙が届いているので送ります。菊美さんからだと思うけど、どうして宛名が旧姓、しかもこちらの住所に送ってきたのかしら。
 正直なところ、少し気味が悪かった。でも、一応送りますね。
 何かあったら、連絡ください。母」
 件(くだん)の封書は、茶色い事務用の封筒に、黒いサインペンで埼玉の実家の住所が書いてあった。宛名も、「笹田早樹様」と旧姓だ。
 裏書きは、大泉学園の住所と「加野」とだけ。筆跡は、間違いなく庸介のものだった。
 庸介の筆跡など忘れてしまった母にも、何となく不穏な気配が伝わったのだろう。死んだはずの、娘の夫からの手紙なのだから。

  

 (中略)
 早樹はクローゼットから、タウンジャケットを取ってきた。ふわりと羽織って、庭に出た。海風は冷たいが、陽の当たる南斜面は温かだった。
 早樹は、藤棚の下に向かった。石組みに棲む蛇は、今頃冬眠しているのだろうか。不吉な囁きをもたらす蛇は、真矢でもあり、自分でもあり、庸介でもあった。
 早樹は、冷たい御影石のベンチに腰を下ろして、レターバックから封書を取り出した。指先で封筒の上を千切る。コピー用紙に印字したものが数枚入っている。黒い蟻のような字がぎっしりと揃っている様は、庸介の妄念のようで、薄気味悪くもあった。

とめどなく囁く<404> 
2018/9/20 朝刊 
  早樹さま
 久しぶりにあなたの名前を封筒に書いたとき、どきりと心臓が蠢きました。
 そのまま、早鐘のように打って止まらず、息苦しくなりました。思ってもいなかった肉体の反応に、私は何という罪深いことをあなたにしてしまったのだろうと、怖れ戦(おのの)いています。
 あなたが仰ったように、私は消えるべき下劣な人間です。この世から一度去ったように見せかけた時、私の中から、何かが一緒に抜け落ちてしまったのでしょう。
 それは、今にして思えば、人として生きる最低限必要なものだったのかもしれません。
 愛、誠意。何と名付けていいのかわかりませんが、私にはそのようなものが永遠に失われてしまったのです。今の私は、人の形をした抜け殻に過ぎません。
 いずれ、命を絶つつもりです。
 あなたに言われなくても、そのつもりでいました。母には、別れを告げて出てきました。もっとも、再会を喜ぶ老母に、正直に死ぬとは言えませんでしたが。

  

 あなたにも、本物のお別れを告げると同時に、これまで私が何をしてきたか、どうしてこんなことになったのか、書き残しておこうと思います。
 あなたは、今さら知りたくもない、と仰るかもしれませんね。
 でも、私自身も、この世から本当に去るとなったら、なぜこんな数奇な運命を己に課したのか、誰かに話したくて仕方がなくなりました。
 何と愚かでグロテスクな人間なのだろうと、心底軽蔑されても構いません。どうぞ私の話を最後まで聞いてください。
 母には、ここまでに至った経緯をこう説明してあります。
 ボートから落水して、千葉県の突端にある知らない浜に流された。遭難のショックで記憶喪失になっていて、なにひとつ覚えていなかった。廃屋のような家に住む、独り暮らしのお婆さんに気の毒がられて、(中略)最近になって、ようやく記憶が蘇ったので帰ってきた、と言ったのです。

とめどなく囁く<405> 
2018/9/21 朝刊
 母は、その嘘(うそ)を信じて、素直に喜んでいました。
 私が金がないと言ったら、母が200万の現金を手渡してくれました。それが、あなたの再婚相手である塩崎氏からの振込だと聞いたとき、私は心底恥じ入りました。
 あなたが、ユニソアドの塩崎会長と再婚されて、何不自由ない暮らしを送っておられることは母から聞いています。(中略)
 でも、私には、あなたの虚ろな気持が分かるような気がしました。あなたはもう、結婚というものに何の幻想も持っておられなかったのではないでしょうか。
 私の後悔は、あなたに優しくできなかった、ことにもあります。本当に、当時のあなたに対する仕打ちは申し訳なかったと思います。

  

 (中略)
 私の家は、厚ぼったい雲に覆われた暗い家でした。それが実は、私の失踪の原因にもなっています。
 ご存じの通り、父はメーカーの技術者で、退職後は、子会社の顧問をしていました。出世した方だったのでしょうが、傲慢で、思いやりのない男でした。
 母は少しエキセントリックで、何を言い出すかわからないところがあり、私はそんな母が理不尽に感じられて、好きではありませんでした。

とめどなく囁く<406> 
2018/9/22 朝刊
 結婚前、あなたは何度か私の家に遊びに来ましたね。その時、何か違和感はありませんでしたか?
 私が覚えているのは、あなたが来ると、たちまち父の機嫌がよくなり、反対に母がぴりぴりと神経質になることでした。
 あなたも薄々感付いておられたと思いますが、私の父は、無条件に若い女性が好きだったのです。私の家の不和の原因は、父に若い愛人がいることでした。
 それ故にか、専業主婦の母は、私の教育に全精力を注いでいました。まさに、私という存在は、母の生き甲斐でもあったのです。
 母は私を立派に育て上げるためだけに、父との離婚を怖れ、面と向かって父を糾弾することができずに、鬱々としていました。
 今でも覚えているのは、小学校6年の夏のことです。
 夕方、夏休みの塾講習から帰ったのに、母の姿が見当たりません。買い物にでも行ったのかと思ったら、家の奥でバサッ、バサッと、布を打ち付けるような激しい音が聞こえます。

  

 驚いて覗くと、寝室の洋服ダンスから、母が父の背広をハンガーから外しては、畳に打ち付けていました。(略)「この野郎、この野郎」と叫びながら、打ち付けているのです。(略)
 面だっては言えないけれど、母は、父にそれとなく女の存在を知っていることを示唆し、父はそんな母を疎ましく思って、ますます家には寄りつかなくなりました。
 と言っても、父は父で、外面だけを重んずるような狡猾な人間でしたから、家庭を壊すようなこともせず、すべてを曖昧なままにしていました。

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〈来栖の独白〉
 この小説、前半頃までは、庸介の行方不明につき「一体どうなっているのか、真相は?」と興味深く読んでいたが、いつまでも埒があかないので、といっても新聞小説を読む私の習慣上、仕方なく読んできた。
 やっと、「庸介は死んではいません」ということになった。以来、庸介の失踪理由に筆が割かれている。大学の教え子の件でも、早樹との結婚生活でもないようだ。
 ま、片が付く(終わる)のも秒読みだな、と思っていたところ、9月21日金曜日の朝刊に『逃亡者』というタイトルで、執筆者「中村文則」氏の抱負?が載っていた。10月1日、スタートだとか。ああ、これでまた、左翼中日新聞解約の機を逸したな。

 * 朝刊小説「逃亡者」 連載を前に 中村文則さん 2018/9/21

    
 
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『とめどなく囁く』に見る “人の心の卑しさ” 2018.9.16
『とめどなく囁く』<394> 「すみませんでした」途端に、早樹の全身にぶつぶつと大きな鳥肌が立った。間違いなく、庸介の声だった。 2018.9.9
『とめどなく囁く』<309> …ネットというツールに倫理は 2018.6.16 
◇ 日々、感謝 食事と共に新聞小説『とめどなく囁く』2018.5.1 ネットというツールに人類の倫理は・・・ 
私の実質人生は終わっている。 夕刊は「緋の河」を読む。 〈来栖の独白 2018.9.5〉
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