日経新S 新聞案内人 2009年02月13日「バイ・アメリカン条項」が掻き立てる懸念 古城佳子(東京大学大学院総合文化研究科教授)
世界が同時不況に陥り、そこから脱することができるか否か、先行き不透明である。そんな中、アメリカの大型の景気対策法案に「バイ・アメリカン条項」が盛り込まれたことが、保護主義の台頭という点から論議を呼んでいる。
「バイ・アメリカン条項」は、文字通り「米国製品を買う」ことを義務付けるもので、公共事業に使う工業製品などを米国産品に限定する内容となっている。
新聞3紙とも社説で、これを保護主義の台頭の兆候として批判し、アメリカ政府が景気対策法案にこの条項を盛り込まないようにと主張している。
特に、かつての「バイ・アメリカン法」が大恐慌の後(1933年)に成立したということが、今後の国際通商体制の先行きが暗いものになるのではないか、という懸念をさらに掻き立てているようだ。
○保護主義の心理的連鎖が懸念される
では、バイ・アメリカン条項はどのような点で問題なのだろうか。アメリカ政府も、内外の企業を差別しないことを原則とするWTO(世界貿易機関)の規定に違反しないことを念頭に置いており、この規定自体が極めて保護主義的というわけではない。
バイ・アメリカン法は、修正されつつも今まで存続して来ているし、他にも政府調達に関する同様の条項を設けている国もある。問題なのは、他国社会に保護主義の心理的な連鎖を引き起こすことではないだろうか。
そもそも大恐慌後、世界が経済関係を分断する保護主義へと傾き、ブロック経済化していった原因として、アメリカが1930年に成立させた「スムート・ホーレイ法」が悪名高い。
農産物価格の下落を受け、農民救済を掲げたフーバー大統領が、多くの外国政府や経済学者の反対を退けて署名したものである。できあがった法律は、農産物だけでなく2万以上の品目を対象とする高関税法になった。
これは、ある分野での保護主義が容認されると、あらゆる分野での保護主義の要求に政府が応えざるを得ないという、不況時に利益集団が政策決定過程に与える影響を物語るものである。
しかし、スムート・ホーレイ法は、世界に高関税政策の連鎖を引き起こしたばかりでなく、アメリカにとっても利益をもたらすものではく、その失敗はすぐに明らかになった。
景気回復を最大の任務として登場したルーズベルト大統領は、スムート・ホーレイ法からの方針転換をいち早く図った。すなわち、34年に互恵通商法を成立させ、景気回復策としては、輸入制限よりも輸出拡大をめざすという通商法の大きな方針転換を行ったのである。
高関税政策から方針転換した互恵通商法の前提になったのが、連邦政府の調達において、アメリカ製品を優先的に購入することを義務づけたバイ・アメリカン法の制定である。
国内では、不況からの脱出という文脈でバイ・アメリカン運動が高まり、それを受けた議会が高関税に代わる国内産業保護の手段として、バイ・アメリカン法を制定したのである。
○高関税政策からの転換も他国に理解されず
アメリカは通商法では保護主義からの転換を図ったにもかかわらず、バイ・アメリカン法はスムート・ホーレイ法につらなる保護主義的政策として他の諸国に認識された。当時、アメリカとの間の繊維紛争に直面していた日本政府も、さかんにバイ・アメリカン法を保護主義的政策の強化として批判していた。
1930年代の状況に照らしてみると、現在の状況、すなわち、アメリカの政策を世界が注目している状況では、この条項がWTOの規定とどの程度整合的かということよりも、法律の名称のせいか、保護主義政策の典型としてマス・メディア等でもさかんに取り上げられ、アメリカが保護主義政策に転換したとみなされてしまうことが問題だと思う。
保護主義政策は、国内社会からの要望が強いと台頭するが、各国社会における保護主義の連鎖への影響という点を重視して、アメリカ政府はバイ・アメリカン条項に慎重に対応する必要がある。
世界が同時不況に陥り、そこから脱することができるか否か、先行き不透明である。そんな中、アメリカの大型の景気対策法案に「バイ・アメリカン条項」が盛り込まれたことが、保護主義の台頭という点から論議を呼んでいる。
「バイ・アメリカン条項」は、文字通り「米国製品を買う」ことを義務付けるもので、公共事業に使う工業製品などを米国産品に限定する内容となっている。
新聞3紙とも社説で、これを保護主義の台頭の兆候として批判し、アメリカ政府が景気対策法案にこの条項を盛り込まないようにと主張している。
特に、かつての「バイ・アメリカン法」が大恐慌の後(1933年)に成立したということが、今後の国際通商体制の先行きが暗いものになるのではないか、という懸念をさらに掻き立てているようだ。
○保護主義の心理的連鎖が懸念される
では、バイ・アメリカン条項はどのような点で問題なのだろうか。アメリカ政府も、内外の企業を差別しないことを原則とするWTO(世界貿易機関)の規定に違反しないことを念頭に置いており、この規定自体が極めて保護主義的というわけではない。
バイ・アメリカン法は、修正されつつも今まで存続して来ているし、他にも政府調達に関する同様の条項を設けている国もある。問題なのは、他国社会に保護主義の心理的な連鎖を引き起こすことではないだろうか。
そもそも大恐慌後、世界が経済関係を分断する保護主義へと傾き、ブロック経済化していった原因として、アメリカが1930年に成立させた「スムート・ホーレイ法」が悪名高い。
農産物価格の下落を受け、農民救済を掲げたフーバー大統領が、多くの外国政府や経済学者の反対を退けて署名したものである。できあがった法律は、農産物だけでなく2万以上の品目を対象とする高関税法になった。
これは、ある分野での保護主義が容認されると、あらゆる分野での保護主義の要求に政府が応えざるを得ないという、不況時に利益集団が政策決定過程に与える影響を物語るものである。
しかし、スムート・ホーレイ法は、世界に高関税政策の連鎖を引き起こしたばかりでなく、アメリカにとっても利益をもたらすものではく、その失敗はすぐに明らかになった。
景気回復を最大の任務として登場したルーズベルト大統領は、スムート・ホーレイ法からの方針転換をいち早く図った。すなわち、34年に互恵通商法を成立させ、景気回復策としては、輸入制限よりも輸出拡大をめざすという通商法の大きな方針転換を行ったのである。
高関税政策から方針転換した互恵通商法の前提になったのが、連邦政府の調達において、アメリカ製品を優先的に購入することを義務づけたバイ・アメリカン法の制定である。
国内では、不況からの脱出という文脈でバイ・アメリカン運動が高まり、それを受けた議会が高関税に代わる国内産業保護の手段として、バイ・アメリカン法を制定したのである。
○高関税政策からの転換も他国に理解されず
アメリカは通商法では保護主義からの転換を図ったにもかかわらず、バイ・アメリカン法はスムート・ホーレイ法につらなる保護主義的政策として他の諸国に認識された。当時、アメリカとの間の繊維紛争に直面していた日本政府も、さかんにバイ・アメリカン法を保護主義的政策の強化として批判していた。
1930年代の状況に照らしてみると、現在の状況、すなわち、アメリカの政策を世界が注目している状況では、この条項がWTOの規定とどの程度整合的かということよりも、法律の名称のせいか、保護主義政策の典型としてマス・メディア等でもさかんに取り上げられ、アメリカが保護主義政策に転換したとみなされてしまうことが問題だと思う。
保護主義政策は、国内社会からの要望が強いと台頭するが、各国社会における保護主義の連鎖への影響という点を重視して、アメリカ政府はバイ・アメリカン条項に慎重に対応する必要がある。