「元気ではないけど、生きています」自殺直前、行方不明になっていた理研・笹井芳樹氏のメール

2014-08-14 | 社会

自殺直前、行方不明になっていた 「元気ではないけど、生きています」笹井氏 最後のメール
 @niftyニュース週刊朝日 2014年08月22日号配信掲載) 2014年8月13日(水)配信 
 「絶対、STAP細胞を再現してください。それが済んだら新しい人生を……」。STAP細胞論文の責任著者のひとりで理研幹部の笹井芳樹氏(52)が小保方晴子氏(30)らに遺書を残し、自殺した。「ノーベル賞候補」だった天才科学者を追い詰めたものは何だったのか。
 謎に包まれた笹井氏の自殺前の行動がわかってきた。死の数日前に笹井氏は行方不明になり、家族が捜し回っていたというのだ。
 大阪府内に住む笹井氏の母親の知人女性が明かす。
「芳樹君が亡くなる3日前、お母様と電話でお話ししました。その時、『芳樹がどこにいるか、居場所がわからなくなっていて、家族で捜し回っていた』と困惑されていました。大丈夫ですか、と尋ねると、お母様は『(医師の)兄さんが“無事か”と出したメールに芳樹から“元気ではないけど、生きています”という返事がとりあえず来たので安心した』と。私があまりクヨクヨしたらあかんよ、と言うと、『STAP細胞の問題に早くケリをつけて、やり直してほしい』とおっしゃっていた。その矢先に、報道で自殺を知り、本当に驚きました」
 この知人によれば、笹井氏は母親に、STAP騒動についての本音をこう吐露していたという。
「あの子は、週刊誌などに書かれた小保方さんとの仲などについて、『あんなことは絶対ないから信じてほしい』と言っていた。理研について、『クビにするならしてくれればいいのに。アメリカで研究したいのに、なかなか切ってくれない』と愚痴をこぼしていた。お父さんも何でも人の責任をみんな負う人だったから。芳樹はああ見えて要領が悪いから、お父さんに似なければいいけど……」
 5年前、息子に「ノーベル賞を期待する」と誇らしげに語っていた母が感じた不安は、不幸にも的中してしまった。
 8月5日朝、笹井氏が神戸市の理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(CDB)に隣接する施設の4階と5階の間の階段の踊り場で首をつっているのが発見され、その後、死亡が確認された。
 踊り場に置かれたカバンからは、STAP細胞の検証実験に参加中の小保方氏、CDBの竹市雅俊センター長(70)ら幹部、研究室メンバーなどに宛てた3通の遺書が、研究室の秘書の机の上からも、総務課長と人事課長に宛てた遺書のようなものが発見された。小保方氏への遺書の内容について、理研関係者はこう語る。
「『小保方さん』と手書きされた封筒入りで、パソコンで作成された文書でした。『1人闘っている小保方さんを置いて、先立つのは、私の弱さと甘さのせいです。あなたのせいではありません。自分のことを責めないでください。絶対、STAP細胞を再現してください。それが済んだら新しい人生を一歩ずつ歩みなおしてください』などと、彼女を気遣うような内容でした」
 笹井氏は最期まで、STAP細胞の存在を信じていたのだ。この日、小保方氏はSTAP細胞の再現実験のため、CDBに出勤していた。訃報に接した小保方氏は絶句して涙をこぼし、何も話すことができない様子だったという。
 一方、他の理研職員に宛てた遺書には、「もう心身ともに疲れ、一線を越えてしまいました」「楽しかった研究の日々を思い出します」「スタッフに申し訳ない気持ちでいっぱい。今後のことよろしく頼みます」などという趣旨のことが書かれていた。
 竹市センター長によると、笹井氏は10日ほど前から見た目にも体調が悪い様子だったという。
「研究室のスタッフから、会話がほとんどできない状態でケアする必要があると聞いていました。思い悩んで自殺してもおかしくない、そういう状態でした。すぐご家族と連絡を取り、治療するようにすすめていました。それでも責任感が強く研究室に通っておられ、(自殺の)前日の4日、(医師の)お兄様から、治療を受けていると連絡がありました」
 騒動発覚後の3月に体調を崩して、心療内科を受診し、約1カ月間、入院していた笹井氏。その時点で副センター長を辞任したいと申し出ていたという。
 だが、「懲戒委員会が続いているし、STAP問題がクリアになるまで、もう少し我慢してほしいと思い、辞表を受け取るに至らなかった」(竹市センター長)。
*騒動後、近所に詫びた美人妻
 笹井氏の精神的な疲労は限界に達していたようで、その様子は自宅周辺でも目撃されていた。
 自殺の翌日、神戸市内の自宅を本誌記者が訪ねると、笹井氏のものと思われる洗濯物のポロシャツがベランダで風になびいていた。前日から干されたままだという。近所の男性が語る。
「亡くなる前日の午前9時半頃、家を出て坂を下る姿を見たのが最後です。ポロシャツに黒いリュックのようなカバンを背負い、下を向いて元気がない様子でした。今年の初めごろは意気揚々としていて、近所のスーパーで会った時も、お茶を何本も買い込んで、『研究室に差し入れする』と言ってました。地位のある方だけど、偉そうなそぶりは一切なく、3月ごろ、奥さんが『当分ややこしくなるけど、すいません』と挨拶に来られた。奥さんはお美しい方で、長男、長女は20歳を超えていたと思う」
 前出の笹井氏の母親の知人によると、3月以降、「芳樹の家庭が滅茶苦茶になる」(母親)と心配する状況が続いていたという。
「記者がウロウロし、缶ジュースの空き缶とか、たばこの吸い殻とか放りっぱなしでご近所に迷惑をかけて申し訳ないとお母様は嘆いておられました。長女の荷物を家から出そうにも、記者がワーッとやって来るので出せなくて困ったと言っていました」
 CDB内でも笹井氏の変化に気づき、心配する声が寄せられていたようだ。
「最近、CDB内で見かけた時はげっそりして、3キロくらい痩せた印象。挨拶しても無反応で、再度声をかけても、うつむいたままため息をついて通り過ぎていった。心療内科に通い、強い薬を服用しており、満足に会話ができない時もあった」(前出の理研関係者)
 実は亡くなる前まで、笹井氏は母親だけでなく親しい研究者にも「もう、辞めたほうが楽。アメリカに行きたい」と相談していた。一方で「研究室が解体され、スタッフが職を失うのが心配」と語り、苦悩していたという。
「彼が副センター長を続けることに対し、外からかなり批判をされ、その本心と批判との間に大きなギャップがあったのではないかと思う」(竹市センター長)
 ES(胚性幹)細胞の第一人者として世界的に有名だった笹井氏は、幼少期から、「神童」ぶりを発揮していた。兵庫県出身の笹井氏は、幼少期に名古屋市内に転居。大手製薬会社に勤める父のもと、質素なサラリーマン家庭に育つ。上の兄は関西の大病院の幹部医師だ。幼い頃から頭脳明晰だったという。
「お母さんが授業参観に行ったら、教室でひとり寝ている子がいたので、誰かと思ってよく見たら、わが子だった。芳樹君は『先生の話がつまらないから昼寝した』と言ったそうです」(前出の母親の知人)
 ガリ勉ではなく、人柄は気さく。中学時代には友人4、5人とバンドを組み、ギターを弾いたという。
 高校は愛知県内トップレベルの県立旭丘高校に進学した。学生生活は、勉強以外も充実していたようだ。同級生で同じ音楽部だった田嶋要衆院議員がこう語る。
「入学した頃から『医学の基礎研究をしたい』と言っていた。いつも茶色い革表紙の小さな英語の辞書を持っていて、『高校3年間で英単語を1万語覚える』と豪語。天才肌だった」
 別の同級生の女性は、笹井氏のこんな魅力を語る。
「成績優秀なだけでなく芸術方面にも多才。楽器が得意で、音楽のクラスの発表ではバイオリンやギターを弾いていた。私の歌に『伴奏お願い』と言ったら、楽譜も持っていないのにギターで弾いてくれました」
 友人には「がんをなくしたいんだ」と語るなど、すでに医学への思いも強かった。自宅の机には「めざせ京大」と貼り紙がしてあったというが、その希望どおり1980年に京大医学部に進学。全国から集まった秀才の中でも、その才能は人目を引いた。
「学年でも群を抜いて優秀。1年生から分子生物学の教授の研究室に出入りして、先生やスタッフ顔負けの研究をしていた。学生同士の飲み会にもよく参加して、クラスでも慕われていた。今回の訃報を受け、同級生のメーリングリストでは『自分たちにできることはなかったのか』と悔やむコメントが飛び交っています」(同級生の内科医師)
 卒業後、米国留学を経て、36歳という異例の若さで京大教授に就任。2000年から理研CDBに在籍し、ES細胞から脳の一部や網膜を作製する実験に成功した。11年4月には笹井氏らの研究が英科学誌「ネイチャー」の表紙を飾るなど、国際的にも注目を集める存在となった。「ノーベル賞候補」という評価もあった。
 だが、小保方氏らと発表したSTAP細胞論文が、輝かしい人生を歩んできた笹井氏を奈落の底へと追い込んでしまう。
 今年1月末、STAP細胞の論文が「ネイチャー」に掲載されたのを機に、小保方氏とともに誇らしげに記者会見を行った笹井氏。だが、その直後から論文への疑惑が次々と噴出。週刊誌などでは小保方氏との「不適切な関係」を疑う報道も相次ぎ、一気に追い詰められた。
 心療内科を退院後の4月にようやく開いた会見では、論文の不備を謝罪しつつも、「STAP現象は現在、もっとも合理性の高い仮説として説明できる」と理路整然と語ったが、以降は表舞台に出てくることもなく、沈黙を続けた。
 その間、学者たちからも批判が相次ぐ。7月には日本分子生物学会の幹部らが、STAP論文や理研の対応を問題視する声明を相次いで発表。中でも近藤滋・大阪大大学院教授はSTAPをネッシーにたとえた上で、〈「ネッシーを見つけた」と信じうる物は一切無い上に、インチキの証拠はいくつもある〉と批判した。
 学会でも四面楚歌に陥った笹井氏を最後に追い詰めたのは、7月27日に放送された「NHKスペシャル 調査報告 STAP細胞 不正の深層」だったという指摘もある。
 番組内では、STAP細胞の論文を検証する過程で理研の調査委員会に提出されたという笹井氏と小保方氏のメールのやり取りまでもが、男女の生々しいナレーションで読み上げられた。
 放送当時の理研内部の様子を、前出の理研関係者がこう証言する。
「放送が終わると、私のもとへも内部のあちこちからメールが来て、『笹井さんほどの人が』と厳しい声が聞こえてきた。笹井氏は放送後、かなり滅入っているとも聞いた。あれが、引き金だったんじゃないか」
*気に病んでいた笹井ビルの行方
 笹井氏の京大同級生の医師もこう言う。
「Nスペで、笹井君が(不正の疑いがある)論文をうまくまとめたと報じられていたことが、すごく不満です。学者として能力が高く、頭の中が整理されているからうまいのに……」
 理研関係者からNHKに情報提供があったことを思わせる番組内容も笹井氏を追い詰めたと語るのは、精神科医の香山リカ氏だ。
「笹井氏は個人よりも組織や秩序を大事にする性格。会見でも理研のバッジをつけていましたし、職場で自殺したことからも、自身とCDBを一体と考えていたことがうかがえます。孤立無援になったと感じたのではないか」
 同番組の後半では、笹井氏と交流もあった理研の鍋島陽一・自己点検検証委員会委員長が、笹井氏や小保方氏についてこんな厳しいコメントを寄せていた。
「本当に大きなものを本人たちは失ったんです。一つの論文のためにね。人生をかけてやってきたことを」
 そしてもう一つ、追い詰められていた要因と思われるのはカネの問題だ。笹井氏は、CDBの予算獲得を一手に担っていた。
 現在、CDBの近くでは来年度の開設を目指し、「理研融合連携イノベーション推進棟」の工事が進んでいる。地上8階建てで、再生医療関連の研究機関が多数、入居する予定。このプロジェクトの中心となって政府との予算交渉などを行ってきたのが笹井氏だったのである。
「CDBでは『笹井ビル』とか『笹井城』なんて言う人もいます。笹井氏は『推進棟を起爆剤に、神戸市の再生医療を世界の中心にしたい』と意気込んでいた。STAP騒動の後は、『私がいなくなったら、推進棟はどうなるんだ。完成するまでは、軽々しくCDBから離れるなんてできない』と、気に病んでました」(前出の理研関係者)
 論文不正の調査経験がある遠山正彌・大阪府立病院機構理事長はこう語る。
「笹井氏の例でもわかるように、日本の科学界は大きな予算を集めるプロジェクトの責任者と、研究者という立場の線引きがなくなっている。何か一つ大きなプロジェクトを打ち上げれば、そこに予算もつき、人も集まる。そのため、理研も処分の決断ができず、あいまいにしたのではないか」
「ネイチャー」や世界最高峰の学術雑誌「セル」は相次いで笹井氏の死を悼む声明を発表した。科学界の損失は計り知れないと。
 本誌・上田耕司、今西憲之、牧野めぐみ、小泉耕平、横山健、福田雄一
 
 ◎上記事は[@niftyニュース]からの転載・引用です
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「元気ではないけど、生きています」自殺直前、行方不明になっていた笹井氏のメール
  dot. (更新 2014/8/14 11:30)  
 STAP細胞論文の主要著者の一人で、衝撃的な自殺を遂げた理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(CDB)の笹井芳樹副センター長の遺族が8月12日、弁護士を通じ、「あまりに突然の出来事を受け入れることができないでおります。この半年があまりに長く、私どもも疲れ切っております。今は絶望しか見えません」とのコメントを発表した。
 会見した弁護士によると、妻と兄宛ての遺書2通が残されており、「今までありがとう」などの感謝の言葉が書かれていたほか、「マスコミなどからの不当なバッシング、理研やラボへの責任から疲れ切ってしまった」など自殺の理由が記されていたという。
 本誌の取材で謎に包まれた笹井氏の自殺前の行動がわかってきた。死の数日前に行方不明になり、家族が捜し回っていたというのだ。大阪府内に住む笹井氏の母親の知人女性が明かす。
「芳樹君が亡くなる3日前、お母様と電話でお話ししました。その時、『芳樹がどこにいるか、居場所がわからなくなっていて、家族で捜し回っていた』と困惑されていました。大丈夫ですか、と尋ねると、お母様は『(医師の)兄さんが"無事か"と出したメールに芳樹から"元気ではないけど、生きています"という返事がとりあえず来たので安心した』と。私があまりクヨクヨしたらあかんよ、と言うと、『STAP細胞の問題に早くケリをつけて、やり直してほしい』とおっしゃっていた。その矢先に、報道で自殺を知り、本当に驚きました」
 この知人によれば、笹井氏は母親に、STAP騒動についての本音をこう吐露していたという。
「あの子は、週刊誌などに書かれた小保方晴子(30)さんとの仲などについて、『あんなことは絶対ないから信じてほしい』と言っていた。理研について、『クビにするならしてくれればいいのに。アメリカで研究したいのに、なかなか切ってくれない』と愚痴をこぼしていた。お父さんも何でも人の責任をみんな負う人だったから。芳樹はああ見えて要領が悪いから、お父さんに似なければいいけど……」
 5年前、息子に「ノーベル賞を期待する」と誇らしげに語っていた母が感じた不安は、不幸にも的中してしまった。
自殺現場に置かれたカバンからは、STAP細胞の検証実験に参加中の小保方氏、CDBの竹市雅俊センター長(70)ら幹部、研究室メンバーなどに宛てた3通の遺書が、研究室の秘書の机の上からも、総務課長と人事課長に宛てた遺書のようなものが発見された。小保方氏への遺書の内容について、理研関係者はこう語る。
「『小保方さん』と手書きされた封筒入りで、パソコンで作成された文書でした。『1人闘っている小保方さんを置いて、先立つのは、私の弱さと甘さのせいです。あなたのせいではありません。自分のことを責めないでください。絶対、STAP細胞を再現してください。それが済んだら新しい人生を一歩ずつ歩みなおしてください』などと、彼女を気遣うような内容でした」
 笹井氏は最期まで、STAP細胞の存在を信じていたのだ。この日、小保方氏はSTAP細胞の再現実験のため、CDBに出勤していた。訃報に接した小保方氏は絶句して涙をこぼし、何も話すことができない様子だったという。
 竹市センター長によると、笹井氏は10日ほど前から見た目にも体調が悪い様子だったという。
「研究室のスタッフから、会話がほとんどできない状態でケアする必要があると聞いていました。思い悩んで自殺してもおかしくない、そういう状態でした。すぐご家族と連絡を取り、治療するようにすすめていました。それでも責任感が強く研究室に通っておられ、(自殺の)前日の4日、(医師の)お兄様から、治療を受けていると連絡がありました」
 騒動発覚後の3月に体調を崩して、心療内科を受診し、約1カ月間、入院していた笹井氏。その時点で副センター長を辞任したいと申し出ていたという。だが、「懲戒委員会が続いているし、STAP問題がクリアになるまで、もう少し我慢してほしいと思い、辞表を受け取るに至らなかった」(竹市センター長)。
 遺族のコメントでは、理研に対して「皆様の動揺を思うと胸がつぶれるほどつらいです」などの心情もつづられていた。
(本誌・上田耕司、今西憲之、牧野めぐみ、小泉耕平、横山健、福田雄一)
 ※週刊朝日  2014年8月22日号に加筆
 
 ◎上記事は[dot. ]からの転載・引用です
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理研改革委員長「決断できなかった野依理事長の責任は重い」
 dot. (更新 2014/8/14 07:00)
 STAP細胞論文の責任著者のひとりで理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(CDB)幹部の笹井芳樹氏(52)が小保方晴子氏(30)らに遺書を残し、自殺した。この事態に、理研改革委員長の岸輝雄(東大名誉教授)氏は「野依理事長の責任は重い」という。
*  *  *
 笹井氏の死は残念でなりません。笹井氏の調子が悪いという話は、間接的に聞いていました。それもあって、私たち改革委員会は6月に出した提言で、笹井氏と竹市雅俊CDBセンター長はSTAP問題の責任をとってすぐに役職を辞めるべきだと明記したのです。理研がそのとおり実行していたら、今ごろ笹井氏の研究室もなくなり、笹井氏は理研本部などに所属が移って環境も変わり、自殺という最悪の事態は防げたかもしれません。笹井氏自身、3月には辞めたいと周囲に漏らしていたそうですね。そのとき、引き留められるのを振り切ってでも辞めていれば、違う道が開けたのではないでしょうか。あれだけ優秀な人だから「来てほしい」というところがあるかもしれないし、海外の研究所に行ってもよかった。
 改革委がもう一つ提言したのは、CDBの解体でした。CDBをつぶして小保方氏の問題は本部に一括して担当させ、神戸には新しいセンターをつくることを提案したのです。メディアからは「看板の書き換えに過ぎない」と批判されましたが、それでも、STAP問題をセンターの運営と分けて考えられるという利点はあったはずです。
 ところが、私たちの提言は実行されなかった。「解体」という言葉にCDB幹部が激怒したとも聞きました。理研は提言を受けて独自のアクションプランを発表するといいますが、私たちには事前に何の説明もなく、身内に甘い内容のものが出るのではないかと心配していました。せっかく外部の委員会に提言を頼んだのだから、それを利用して、失敗したら「改革委の提言が悪かった」と言うくらいでよかった。それくらいのしたたかさもない理研は、やはりガバナンス能力が欠如している。
 こうした事態を招いた理研の責任は重い。一連の提言は野依良治理事長が決断すればすぐに実行できたはずなのですが、あまりにも対応が遅かった。組織を守る気持ちはわかりますが、ある種の怠慢であり、謙虚さに欠けていたと感じざるをえません。もはや理事長も含めた幹部の退任まで考えないと、世間は納得しないのではないでしょうか。
 ※週刊朝日  2014年8月22日号
 
 ◎上記事は[dot. ]からの転載・引用です 
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