ローマ教皇、女性信者から手を強く引っ張られ、女性の手をたたく 2020/12/31 衣服におずおずと触れただけで、イエスには、その女の苦しみ・悲しみがすべて、「わかった」

2020-01-02 | 本/演劇…など

ローマ教皇、女性たたき謝罪 手引っ張られ「忍耐失う」
2020年01月02日14時45分

  
 (左上から右下に向かって)12月31日、バチカンで、フランシスコ・ローマ教皇が女性から手を強く引っ張られ、振りほどこうとして女性の手をたたく様子=「バチカン・メディア」の動画から(AFP時事)

 【バチカン市AFP時事】フランシスコ・ローマ教皇が12月31日、バチカンのサンピエトロ広場で女性信者から手を強く引っ張られ、振りほどこうとして女性の手をたたく一幕があった。教皇は1日の新年ミサに先立ち、「人は忍耐を失うことがよくあり、それは私にも起こる。昨日のその悪い例をおわびする」と謝罪した。
 教皇は広場に集まった子供らと触れ合っていた際、何かを叫ぶ女性に後ろから手を強く引っ張られ、顔をしかめて女性の手を2回たたいた。その映像がソーシャルメディアで拡散された。  ツイッターには「女性が悪い。教皇は痛がっているようだった」と教皇を擁護するコメントが上がる一方、「彼女が完全に悪いが、教皇らしくない対応だった」との書き込みも寄せられた。  教皇は新年ミサで「女性に対するいかなる形態の暴力も、女性から生まれた神への冒涜(ぼうとく)となる」と説いた。

 ◎上記事は[JIJI.COM]からの転載・引用です


ローマ教皇、女性信者の手をたたく 翌日に謝罪
2020/1/2(木) 4:29配信 AFP=時事 
   【AFP=時事】ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇(Pope Francis)は1日、前日に信者らと交流した際、自分の手をつかんで引っ張った女性の手をたたいたことを謝罪し、「女性に対するいかなる形の暴力」も非難する演説を行った。
 教皇はバチカン市国で大みそかに集まった信者らにあいさつをした際、女性信者から手を引っ張られ、体勢を崩した。いら立ちをあらわにした教皇が、女性の手を2度たたいて振りほどく様子を捉えた映像は、ソーシャルメディアで一気に拡散した。
  ツイッター(Twitter)では教皇のとっさの反応を擁護する声が上がった。あるユーザーは「私はカトリック教徒ではないが、あの女性は間違っている。教皇は一瞬、痛みを感じたようにも見える」とコメント。一方で「女性は完全に悪かったが、彼の反応はあまり教皇らしいものではなかった」という声も上がった。
  教皇は翌日、バチカンでの新年のミサを前に「人は我慢ができなくなることがよくある」と告白。「私にもある。昨日の悪い事例を謝罪する」と語った。さらにミサでの演説では、イエス・キリストが女性から生まれたことに言及し、「女性に対するいかなる形の暴力も、神に対する冒涜(ぼうとく)である」と述べた。【翻訳編集】 AFPBB News
 最終更新:1/2(木) 4:37 AFP=時事

 ◎上記事は[Yahoo!JAPAN ニュース]からの転載・引用です
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〈来栖の独白 2020.1.2 Thu〉
 咄嗟に想起したのは、新約聖書のなか、私の好きな一場面だ。遠藤周作さんの著書から、エピソードとして引用する。

 

 『私にとって神とは』遠藤周作 光文社文庫

p105~
 さっきも言ったように、聖書の中に、なぐさめ物語と奇跡物語と2種類がありますが、なぐさめ物語に出てくる女性というのは、実に生き生きと書かれています。
 その例の一つは、長い間、長血をわずらっていた女、長血って、何かわからないのですが、血がポタポタ落ちるんだから、婦人病ではないでしょうか。血漏(けつろう)とも書いてありますが、私はその方面はうといのでわかりません。その血漏をわずらっている女が、多くの医者にかかっても治らず、金ばっかり巻き上げられているわけです。
 そういう女がいまして、それが別にイエスを尊敬も何もしていないのですが----多分その女はガリラヤ湖畔の町に住んでいたんでしょう----イエスがあちこちで病気を治しているという話を聞きました。彼女はその人が船に乗って自分の村へやって来るのを待って、岸へ降りた後を追いかけ、群衆にまぎれてその人の服にさわったら病気が治るかもしれぬと思うのです。そして指でそっとイエスの衣にさわった。と、イエスが振り返り、「私の服にさわったのはだれだ」と言うのですが、弟子たちは「こんなにたくさんの人がいるのに、どの人がさわったか、わかるはずがない」と、答え(p106~)るのです。イエスが「いや、絶対に誰かがさわった」と言い、背後に長血をわずらっていた女を見つけます。その場面は、なぐさめ物語で私が大変好きな場面です。イエスが人の苦しみに対してどんなに敏感であったか、指先でちょっと触れただけで、その指を通してこの女が長い間わずらった苦しみ、そしてそれに伴う女としての悲しみ----おそらく長血をわずらっているから、結婚もできなかったろう、子供のもできなかったろう、男からも愛されたことがなかっただろう、男を愛そうと思っても、病気のために自信がなかったろう、そういう一切の女としての悲しみが、おずおずとさわっただけですべてイエスに伝わったという場面。
 また、パリサイ派の人々とイエスが食事をしていると、一人の娼婦がイエスに話したいために入ってくる。弟子たちがこれをさえぎろうとします。しかしイエスがそれを止めます。女は何にも言わず、イエスの足元で涙をポタポタ落とし、イエスは「わかった」と言います。(中略)
p107~
ただ、涙で足を濡らしたとだけ書いている。それだけで、この女がどんなに苦しんだかわかります。この女が娼婦であるがゆえに、愛してもいない男に抱かれて、どんなに苦しんできたかということが、涙だけでわかります。しかも、自分を業の深い女だと思っている、罪深い女だと思っているということが、涙を落して足を濡らしただけで、わかります。(略)
 そして、イエスが、「わかった」と言う。あなたの悲しみはすべてわかったというのです。
 こいうふうに、イエスが苦しんでいる人たちの人生の同伴者としてなぐさめてあげるという「なぐさめ物語」は、イエスが人間の苦しみにすごく敏感であったということを我々に語っています。


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